マルタとマリアの家のキリスト
Christ in the house of Mary and Martha (1654-1655年頃) 160X142
エディンバラ スコットランド国立美術館蔵

 訪れたイエスをもてなすために甲斐甲斐しく立ち働くマルタが、彼の傍らで話に聞き入って何も手伝おうとしない妹マリアを非難したところ、真に大切なことに従事しているのはマリアの方であるとイエスから逆に諭された、という有名な挿話(ルカ伝十章)を題材にした作品で、署名の発見によって1901年にフェルメールの手に帰された。その後の研究(ヘンケル 1931/32)によって1650年代中頃にデルフトに足跡を残したヤン・ステーンが本図を翻案して同主題の絵(エディ ンバラ スコットランド国立美術館)を描いていることが指摘されてからは、スヴィレンスを除くすべての研究者によって画家の最初期の作品と認められている。16世紀以来イタリアでも北方でも広範にわたって描かれてきた画題であるが、本図の直接の影響源となったのは、ガウイングの指摘する通り、ルーペンスの弟子エラスムス・クエリヌスの作品であろう。その絵にも伝統の片鱗がうかがえるが、かつての16世紀の北方絵画、とりわけアールツェンやビューケラールの作例では、キリストとマリアの表現と並んで、いや時にはそれ以上に、マルタの働く台所の描写に力点が置かれ、肉や家禽や野菜などが盛り沢山に生々しく描き込まれたものであった。若きフェルメールはしかし調理場の描写を一切顧みず、三人の登場人物のみに関心を集中して緊密な構図にまとめあげている。その点で特に注目に催するのはキリストとマリアを繋ぐ要の役を果たしているマルタの表現であって、かつてはマリアの瞑想的生活に対する活動的生活の象徴として捉えられたこの勤勉な姉もここでは後年の室内面の女性像を予告するような伏目がちの控え目な女として描かれ、霊的な世界に何の違和感もなく溶け込んでいる。輪郭によらず大きな色面によって把握された彼女の上半身は白いテーブルクロスの上にくっきりと浮かび上がるマリアの頭部とともにこの絵の中で最も絵画的な魅力に富んだ部分であり、画家がユトレヒト派のテルブリュッヘンの賦彩法を学んだことを示唆している。本図は現存するフェルメールの唯一の宗教画であるが、1657年に作成されたアムステルダムの一美術商の財産目録に<(キリストの)墓を訪れる(聖女たち)>の記載があるから、彼は初期に少なくとももう一度はマグダラのマリアの姿を描いていたことがわかる。作品それ自体としては稚拙なファン・メーヘレンの贋作<エマオのキリスト>が一時熱狂的に受け容れられたのも、多くの研究者たちがフェルメールは初期にもっと多くの宗教面を手がけていたに違いないと推測していたからなのである。