第二次世界大戦機のページです。

大戦末期、航空機はレシプロエンジンの限界まで極め、以後ジェット機に移行していきます。
第二次世界大戦機は、そのレシプロ機の最後を飾るあだ花でした。

ここでは、日本、アメリカ、ドイツ、イギリスの軍用機を中心に紹介していきます。
大いなる大空のロマンとノスタルジーの世界をお楽しみください。




三菱 一式陸上攻撃機 G4M

全長:19.97m 全幅:24.88m 全備重量:12.500kg 出力:1,800hp×2 最大速度:437q/h
航続距離:6,100q 武装:7,7o機銃×3〜4 20mm機銃×2 爆弾または魚雷800kg 乗員:9名



          ワンショット・ライターとまで自嘲気味にアダ名されたこの飛行機が、
          本来の開発目標に沿った仕事が出来たのは、
          唯一開戦初頭の”マレー沖海戦”のみであって、
          その後の戦いは防御装備の完全な欠落により悲惨なものでした。

          「陸上攻撃機(陸攻)」というのは日本海軍独特の機種です。

          昭和7年、日本海軍初の長距離陸上機として"7試特殊攻撃機”が試作され、
          「95式陸上攻撃機」として正式採用されます。

          95式陸攻は6機の生産で終わりましたが、
          翌昭和8年に”8試特偵”が試作され、
          明くる昭和9年にはその発展型として、
          ”9試中型陸上攻撃機”の試作が続けられます。

          9試中攻は1936年(昭和11年)に有名な
          「96式陸上攻撃機」として正式採用されます。

          7試特殊攻撃機に端を発する”陸上攻撃機(陸攻…中攻)”に課せられた任務は、
          昭和5年のロンドン条約で決められた「対米6割」の水上艦艇の劣勢を補うため、
          陸上基地から海上決戦地に長躯進撃し、敵主力艦を雷爆撃にて攻撃するということで、
          その後の日米の海上決戦を勝利に導く、というのが本来のシナリオでした。

          開戦初頭の”マレー沖海戦”では、
          イギリスの「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を陸攻のみで見事撃沈し、
          主力艦同士の決戦にもち込むことなく、
          航空機だけで主力艦を撃沈できることを証明してみせました。

          しかし日本海軍の夢が実現したのはこの時だけで、
          その後の海上決戦では、主力艦同士の戦いは勿論、
          陸攻が敵主力艦に戦いを挑むことなど、
          考えることすら出来ない展開になっていったのです。
          ここにきて陸攻の存在価値はなくなり、
          全く防弾装備の無かった陸攻隊は、
          壊滅的被害を被るばかりとなり悲劇の運命をたどっていきます。


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■悲劇の発端は昭和12年に出された「
十二試陸攻」の常識はずれの要求性能でした。

 最大速度を400キロ以上にするというのは、1500馬力級の「火星」エンジン使用の見通しがたってなんとかなったのですが、航続距離が4,800キロ以上というのは、燃費の悪い火星エンジンを積むことを考えると、通常の燃料タンクでは必要量の半分も収まらなかったのです。

■三菱の設計主務者、本庄季郎技師は、これを双発機でやると必要な防弾装備や武装の強化はとてもおぼつかないと考え、海軍との第一回打ち合せで四発機案を提唱します。

■「四つの発動機がなぜに必要かというと、二つの発動機の馬力を使って、要求書の大きな搭載量と空力性能と兵儀装の要求を満たし、あとの発動機二台の馬力を使って、防弾用鋼板と燃料タンクの防弾と消火装置を運ぶのだと説明した。

 それで私は第一案設計として、四発機の全体を紹介します、といって、会議前に黒板にチョークで描いておいた四発機を紹介した。

 このとき、会議の議長であった航空本部技術部長の和田操少将は私の説明を聞いて、たいへんな剣幕で私に言った。
”用兵については軍が決める。三菱はだまって軍の仕様書どおり双発の攻撃機をつくればよいのだ。黒板に描いてある四発機の図面はただちに消せ。”

 この一言で、私のいちばん重要な意見は論議されることなく棄却されてしまった。

 私は軍側から勇気ある発言を期待したが、だれも、なにもいわなかった。ただ会議が終わった後、航空廠飛行機部の山名正夫技師は、私にむかって、”あの四発機は非常によい形をしていた。実機をつくってみたいな。”といって、私を慰めてくれた。」(海鷲の航跡…本庄季郎)

■かくしてこの飛行機の運命は、このとき早くも決定づけられたといえます。

 翼いっぱいに設けられたインテグラル式燃料タンク(というより、翼自体が燃料タンク)は、7.7ミリ機銃弾を数発くらっただけで火が付いたのです。

■十二試陸攻試作時に日華事変が勃発していますが、進攻した96陸攻の損害が思った以上にひどく、その戦訓がこの飛行機にも取り入れられることになりました。

■当時編隊の一番端っこの飛行機は特に被害が大きく、「カモ番機」といっていやがられていたそうです。

 そこで、その位置に武装を強化した多銃式長距離援護機を置けばいいのではないか、というのが「翼端援護機」という考え方です。

 とびいりのこの改造が一二試陸攻に取り入れられることになったのですが、性能低下のため全く使い物にならず、作られた30機も最初から練習機や輸送機として使われたということで、無意味な完全な失敗作でした。

■あの葉巻型の太い胴体は、日中戦争の96陸攻の戦訓で、尾部にどうしても強力な防御砲火が必要との軍の要求からきたものです。

 尾部まで太い葉巻型(三菱ではナメクジとよんでいたらしい)にすることで、胴体の空気抵抗を逆に低減することができるという本庄技師の考えが取り入れられたのです。

 この太い胴体のおかげで、数多くの兵装、儀装を装備するスペースが確保でき、前後の連絡もスムーズになり、整備上も有利でした。

■しかし、海軍航空廠飛行機部陸攻審査担当だった三木忠直技術大尉は、これが気に入らなかったようです。

 「本庄さん、これではなかでダンスができるじゃないか。こんな太い胴体になんでするんだ。」と激論の末ケンカわかれになったそうです。

 後に三木技術大尉は「銀河」の設計主務者となり、おもいきりスマートな飛行機に仕上げました。

■ソロモンの消耗戦の頃には、陸攻隊は2〜3回出撃するとほとんど消耗してしまって、解隊に追いこまれてしまうという悲惨な状況だったといいます。

 ドイツのHe111もそうとうな損害を被っていますが、一式陸攻ほど無防御ではなかったわけで、
当時の軍部の発想が、防御力を犠牲にして攻撃力を高めるという、今考えると非常識といえるほどの方針で兵器の開発を続けたために、一式陸攻はその代表的犠牲者になったのです。

■防弾タンクにするには、主翼の設計変更をする必要があり、とりあえずの手段として翼下面に30ミリのゴムを張るなどしましたが、しょせん姑息な手段にすぎませんでした。

■本格的に主翼の設計をやりなおして、防弾タンクを装備した三四型が完成したのは昭和19年の終わりで、60機しか完成しなかったそうです。

■大戦中期以降は、攻撃機として使えたのは夜間爆撃ぐらいで、あとは輸送、対潜哨戒としてしか使い道がなかったという、不幸な末路をたどっていきました。

「96式陸上攻撃機」

一式陸攻の前身
「一式陸上攻撃機11型」

コックピット内部

搭乗員に対する防弾装備は
全く考慮されていません
ポツダム宣言受諾後
降伏調印準備使節団が沖縄に到着
一式陸攻の翼の下で休息中

後には米軍兵士が
珍しそうに黒山の人だかり
連合軍の指示で、
白塗装に緑十字マークをつけた、
一式陸攻11型