パリ時代(1923〜1941)
1924年
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パリにおいて,作曲のよりどころとなるものを発見する努力を行うが,唯一,ストラヴィンスキーに納得できるのを発見するだけであった。
プラハに於いて,ターリヒが「ハーフ・タイム(H.142)」を初演。ストラヴィンスキーの盗用ではないかという非難に対し,公開状で自己弁護した。
バレエ「イスタル」がプラハ国立劇場で初演させる。
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1925年
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ブルノの国立劇場において,ヤナーチェクの「利口な雌狐」との二重演目で,コメディ・バレエ「世界で一番強いものは誰か」が初演。
プラハのISCMフェスティバルで、 ターリヒが「ハーフ・タイム」を再演。
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1926年
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ヤン・ハーマンとターリッヒ指揮の彼のオーケストラによって,プラハでピアノ協奏曲第1番が初演。
モンパルナスのカフェ・ドゥ・ドーム(Cafe du Dome)で定期的に合っている外国人音楽仲間のマルセル・ミハロヴィチ,チボール・ハルシャニー,およびコンラッド・ベックと「エコール・ドゥ・パリ(Ecole de Paris)」を作る。
未来の妻となる洋裁師のシャーロット(Charlotte Quennehen)と出会う。
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1927年
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最初、ボストン交響楽団と後にマルチヌーが終身の友情を作り出すセルゲイ・クーセヴィツキーが「ラ・バガーレLa Bagarr」を初演し,アメリカでの知名度を得る。
プラハの国立劇場で,「世界で最も強いのは誰か」が上演される。また,S.ノヴァークは,ジャズバレエ「キッチンレビュー」の初演で演奏する。
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1928年
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Concerts Colonneにおいて,ピアノ協奏曲第1番が,パリにおける管弦楽曲の最初の成功となる。
室内管弦楽曲のジャズ組曲(H.172)は、バーデンバーデンフェスティバルで,弦楽四重奏曲第2番(H.150)はシエナのISCMフェスティバルで,演奏される。
バレエ「反逆(H.151)」とコミックオペラ「兵士と踊り子(H.162)」のプルノ初演。
ダダイストのGeorges Ribemont-Dessaignesとの行動作業を開始。
弦楽五重奏曲第1番の米国初演が,マサチューセッツのエリザベス S.クーリッジフェスティバルで,また,後に「ラプソディ」と呼ばれる「La Symphonie」がボストンで,行われる。
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1929年
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ピアノのための「8つのプレリュード(H.181)」をシャーロットに献呈。
コンサートコルトーで,「キッチンレビュー」からの組曲でデビュー。
ルーセルは60歳の誕生日の祝賀の際に,「私の栄光,それはマルチヌーです!」と宣言。
プルノのコンセルバトワールの教授ヤン・クンツは、マルチヌーを説得して作曲の教授のポストを招聘する最初の試みをするが,マルチヌーは辞退。
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1930年
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民族音楽的要素を意識的に利用した,パリ時代の最も初期の作品七重奏曲「ロンド(Les Rondes,H.200)(モラビア・ダンス)」をヤン・クンツに献呈。
「バイオリンとピアノのための5つの短い曲集(H.184)」を,当時パリの大使館で働いていた,将来マルチヌーの伝記作家となるミロシュ・シャフラーネク(Milos Safranek)に献呈した。
プラハで「ラプソディ(La Rhapsodie)」を指揮したアーネスト・アンセルメ(Ernest Ansermet)が,新たな熱烈な信奉者となる。
ベルリンでGaspar Cassadoが「チェロ協奏曲第1番」を初演。しかし,マルチヌーのオペラ「3つの願い(H.176)」と「Le Raid Merveilluex」の上演のための願いは,実現されない。
「室内管弦楽団のためのセレナーデ(H.199)」をルーセルへ献呈。
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1931年
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シャーロットと結婚。
芸術と科学のチェコ・アカデミーのメンバーに選出。
七重奏曲「ロンド(Les Rondes,H.200)が,コンサートコルトーで初演。
リエージュのISCMフェスティバルで初演された「弦楽四重奏団とオーケストラのための協奏曲(H.207)」は、「幾何学的な」形式を使用している彼の新古典主義的作品の最初のものとなる。
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1932年
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「弦楽六重奏曲(H.224)」で,エリザベス・スプラング・クーリッジ賞(Elizabeth Sprague Coolidge)を受賞。
サミュエル・ダシュキン(Samuel Dushkin)が「バイオリン協奏曲(H.232?)」を委嘱。(翌年2月に完成)
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1933年
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Paul Sacherは、「弦楽のためのパルティータ(組曲第1番,H.212)」を,彼のバーゼル室内管弦楽団で指揮した。多くの共同作品の最初の作品である。
プラハとプルノに続き,「シュパリーチェク」でスメタナ賞を受賞。
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1934年
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ベニスフェスティバルにおいて,「インヴェンション(H.234)」の初演。
故郷ポリチカで「Memories of childhood in church tower」が出版。
詩人Vitezslav Nezvalが、新しいオペラについて共同作業するために、パリのマルチヌーを訪問。
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1935年
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プルノで「Maryの劇(「マリアの奇跡(H.236)」のことか?)」が初演。チェコスロバキア国家作曲賞を受賞。
Nezval作詞のラジオオペラ「森の声(H.243)」がチェコスロバキアラジオで放送。
もう一人の終身の友人ルドルフ・フィルクシュニーが,ターリッヒ指揮チェコフィルで,「ピアノ協奏曲第2番(H.237)」を初演。
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1936年
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オペラ・バレエ「門の後ろの劇場(H.251)」がブルノで初演。
「Maryの劇」がプラハで上演。
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1937年
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ラジオオペラ「橋の上のコメディー(H.247)」が放送される。
チェコ放送の助成により,民族詩によるカンタータ「花束」を作曲。
ミュンシュのために「コンチェルト・グロッソ(H.263)」を作曲。
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1938年
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プラハの国立劇場で,「ジュリエッタ」がターリヒにより初演。
Vitulkaへの思いを元にインスピレーションを得て弦楽四重奏曲第5番を作曲。
これが最後となる母国観光を行う。Sokolフェスティバルを訪れ,ポリチカやTri Studneの近くのVitulkaの家で休暇を過ごす。
ミュンヘン協定の調印の日,シェーネンベルクのPaul Sacherの所有地で,「2つのオーケストラとピアノとティンパニのためのダブル・コンチェルト(H.271)」を完成。
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1939年
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ボヘミアとモラビアが,ドイツの軍隊に占領され,「Reichsprotektorat」が宣言される。
ミュンシュはパリでTre Ricercareを演奏。
彼が夏を、Firkusny、Vitulka、およびJiri Muchaらの一行と,Vieux Moulinのシャーロットの家で夏を過ごし,チェコ・マドリガルを作曲する。
翌年Vitulkaと結婚するMuchaにより提供されたテキストによって,フィールドマスをフランスのチェコスロバキアのボランティアに献呈する。
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1940年
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バーゼルにおける二重協奏曲の初演に出席。
彼の音楽は禁止される。
ピエール・フルニエとフィルクシュニーにより,チェロソナタ第1番が初演。
彼らによるマルチヌーと彼の妻がパリから逃げるようにというアドバイスにより,ゲシュタポによる逮捕から危うく逃れることができる。
パリへドイツ軍が到着し,ミュンシュが計画したコンチェルト・グロッソ初演が中止される。
Aix-en-Provenceで出国書類を待つ間、フィルクシュニーのための幻想曲とトッカータを作曲。
Vitulkaの死を知り,モンペリエの彼女の墓を訪れる。
ナチスのブラックリストに載っていて、米国に脱出するためにスイスの友人,特にザッヒャーとアンセルメから財政援助を受け取っていることを発見される。
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