マルチヌーの年表

チェコ時代   (1890〜1923)
パリ時代    (1923〜1941)
アメリカ時代  (1941〜1953)
ヨーロッパ時代(1953〜1959)
没後       (1960〜    )

 この年表は,プラハのマルチヌー財団のホームページに掲載されている「Life & Work」を私が日本語訳致しましたものです。原文の著作権は著者であるPatrick Lambert氏とプラハのボフスラフ・マルチヌー財団にあります。
 この年表は,できるだけ多くの方々にマルチヌーのことを理解していただきたいと思い,作成しました。
 曲名と作品番号(H番号)は日本マルチヌー協会の作品一覧表に基づいています。
 何分,英語は不得意ですのでおかしな箇所など多々あると思います。また,私の英語力不足のため訳できない文は割愛してあります。地名・人名の日本語表記には間違いあることも予想されます。以上の点を,ご容赦下さい。

チェコ時代(1890〜1923)
1890年  ボヘミアのモラビア高地(Ceskomoravska Vysocina)の縁にある町ポリチカ(Policka)で、12月8日(無原罪の聖マリア祝日)に誕生した。出身町Polickaは、地理的(行政的)にはボヘミアにあるけれども、文化的に、モラビアに付属している。誕生から最初の12年の幼年期を,くつ修理屋である彼の父が火事の見張り番兼塔の管理をまかされていた聖ジェームズの教会で過ごした。
1897年 地元の仕立て屋Josef Cernovskyとバイオリンレッスンを開始する。
1900/
1903年
最初の作品、プログラムに基づいた弦楽四重奏団、「スリー・ライダーズ(H.1)」を作曲。
1906年 Jan Kubelikヤン・クベリークに継ぐ巨匠バイオリン奏者になるかもしれないと嘱望され、プラハ音楽院に送られる。
1907年 仲間学生のStanislav Novakスタニスラフ・ノヴァーク(Stanaスタニャ)と終身の親交を開始。
1910年 "incorrigible negligence"「根強い怠慢」のためのプラハ音楽院から退学させられる。
1912年 国の音楽試験に2度目で合格し,医学的な理由から徴兵を免れる。戦争中はポリチカで,教鞭をとり,作曲に従事する。
1918年 プラハに戻り,チェコスロバキア共和国の創設にあたっての「Suk's Ripening」の初演に際し,チェコフィルのリーダーであったS.ノヴァークの招きで,副バイオリン奏者としてリハーサルに出演する。
1919年 国立劇場管弦楽団の海外講演旅行に同行。ロンドン、パリ、およびジュネーブをまわる。
初めての大規模な管弦楽作品の演奏となる愛国的なカンタータ「チェコ・ラプソディ(H.182)」が,Ludvik Celansky指揮のチェコ・フィルで初演され,スメタナ賞を受賞する。
主席指揮者のバーツラフ・ターリッヒの指名によって、マルチヌーは、S.ノヴァークのそばに正ポストを与えられる。しかし,すぐ第二バイオリンに格下げされる。
ターリッヒは,リハーサル段階で「小さな舞踊組曲」を拒絶する。(H.123のことか?)
1920/21年 チェコフィルのフランスの音楽シーズンの印象を元に,弦楽四重奏曲「フランス」を作曲。
ルーセル(Roussel)の森の詩(La Poeme de la Foret)のスコアにより魅了される。
1922年 チェコ・フィルとイタリアに巡業。
プラハにおけるイギリス人歌手によるマドリガルコンサートに,深く感動する。
コンセルバトワールで、スークが新しく作ったマスタークラスへ加わる。そこで,マルチヌーは、「ドビュッシーのように作曲したい」言った。
1923年 ターリッヒは,交響的組曲「消えゆく夜」から「Blue Hour(青の時間)」を演奏した。
父の死で,重い衝撃を受ける。
スークとの学習をやめ,彼が後の17年の間,住み続けるパリのルーセルの生徒となるべく,プラハを離れる。

パリ時代(1923〜1941)
1924年 パリにおいて,作曲のよりどころとなるものを発見する努力を行うが,唯一,ストラヴィンスキーに納得できるのを発見するだけであった。
プラハに於いて,ターリヒが「ハーフ・タイム(H.142)」を初演。ストラヴィンスキーの盗用ではないかという非難に対し,公開状で自己弁護した。
バレエ「イスタル」がプラハ国立劇場で初演させる。
1925年 ブルノの国立劇場において,ヤナーチェクの「利口な雌狐」との二重演目で,コメディ・バレエ「世界で一番強いものは誰か」が初演。
プラハのISCMフェスティバルで、 ターリヒが「ハーフ・タイム」を再演。
1926年 ヤン・ハーマンとターリッヒ指揮の彼のオーケストラによって,プラハでピアノ協奏曲第1番が初演。
モンパルナスのカフェ・ドゥ・ドーム(Cafe du Dome)で定期的に合っている外国人音楽仲間のマルセル・ミハロヴィチ,チボール・ハルシャニー,およびコンラッド・ベックと「エコール・ドゥ・パリ(Ecole de Paris)」を作る。
未来の妻となる洋裁師のシャーロット(Charlotte Quennehen)と出会う。
1927年 最初、ボストン交響楽団と後にマルチヌーが終身の友情を作り出すセルゲイ・クーセヴィツキーが「ラ・バガーレLa Bagarr」を初演し,アメリカでの知名度を得る。
プラハの国立劇場で,「世界で最も強いのは誰か」が上演される。また,S.ノヴァークは,ジャズバレエ「キッチンレビュー」の初演で演奏する。
1928年 Concerts Colonneにおいて,ピアノ協奏曲第1番が,パリにおける管弦楽曲の最初の成功となる。
室内管弦楽曲のジャズ組曲(H.172)は、バーデンバーデンフェスティバルで,弦楽四重奏曲第2番(H.150)はシエナのISCMフェスティバルで,演奏される。
バレエ「反逆(H.151)」とコミックオペラ「兵士と踊り子(H.162)」のプルノ初演。
ダダイストのGeorges Ribemont-Dessaignesとの行動作業を開始。
弦楽五重奏曲第1番の米国初演が,マサチューセッツのエリザベス S.クーリッジフェスティバルで,また,後に「ラプソディ」と呼ばれる「La Symphonie」がボストンで,行われる。
1929年 ピアノのための「8つのプレリュード(H.181)」をシャーロットに献呈。
コンサートコルトーで,「キッチンレビュー」からの組曲でデビュー。
ルーセルは60歳の誕生日の祝賀の際に,「私の栄光,それはマルチヌーです!」と宣言。
プルノのコンセルバトワールの教授ヤン・クンツは、マルチヌーを説得して作曲の教授のポストを招聘する最初の試みをするが,マルチヌーは辞退。
1930年 民族音楽的要素を意識的に利用した,パリ時代の最も初期の作品七重奏曲「ロンド(Les Rondes,H.200)(モラビア・ダンス)」をヤン・クンツに献呈。
「バイオリンとピアノのための5つの短い曲集(H.184)」を,当時パリの大使館で働いていた,将来マルチヌーの伝記作家となるミロシュ・シャフラーネク(Milos Safranek)に献呈した。
プラハで「ラプソディ(La Rhapsodie)」を指揮したアーネスト・アンセルメ(Ernest Ansermet)が,新たな熱烈な信奉者となる。
ベルリンでGaspar Cassadoが「チェロ協奏曲第1番」を初演。しかし,マルチヌーのオペラ「3つの願い(H.176)」と「Le Raid Merveilluex」の上演のための願いは,実現されない。
「室内管弦楽団のためのセレナーデ(H.199)」をルーセルへ献呈。
1931年 シャーロットと結婚。
芸術と科学のチェコ・アカデミーのメンバーに選出。
七重奏曲「ロンド(Les Rondes,H.200)が,コンサートコルトーで初演。
リエージュのISCMフェスティバルで初演された「弦楽四重奏団とオーケストラのための協奏曲(H.207)」は、「幾何学的な」形式を使用している彼の新古典主義的作品の最初のものとなる。
1932年 「弦楽六重奏曲(H.224)」で,エリザベス・スプラング・クーリッジ賞(Elizabeth Sprague Coolidge)を受賞。
サミュエル・ダシュキン(Samuel Dushkin)が「バイオリン協奏曲(H.232?)」を委嘱。(翌年2月に完成)
1933年 Paul Sacherは、「弦楽のためのパルティータ(組曲第1番,H.212)」を,彼のバーゼル室内管弦楽団で指揮した。多くの共同作品の最初の作品である。
プラハとプルノに続き,「シュパリーチェク」でスメタナ賞を受賞。
1934年 ベニスフェスティバルにおいて,「インヴェンション(H.234)」の初演。
故郷ポリチカで「Memories of childhood in church tower」が出版。
詩人Vitezslav Nezvalが、新しいオペラについて共同作業するために、パリのマルチヌーを訪問。
1935年 プルノで「Maryの劇(「マリアの奇跡(H.236)」のことか?)」が初演。チェコスロバキア国家作曲賞を受賞。
Nezval作詞のラジオオペラ「森の声(H.243)」がチェコスロバキアラジオで放送。
もう一人の終身の友人ルドルフ・フィルクシュニーが,ターリッヒ指揮チェコフィルで,「ピアノ協奏曲第2番(H.237)」を初演。
1936年 オペラ・バレエ「門の後ろの劇場(H.251)」がブルノで初演。
「Maryの劇」がプラハで上演。
1937年 ラジオオペラ「橋の上のコメディー(H.247)」が放送される。
チェコ放送の助成により,民族詩によるカンタータ「花束」を作曲。
ミュンシュのために「コンチェルト・グロッソ(H.263)」を作曲。
1938年 プラハの国立劇場で,「ジュリエッタ」がターリヒにより初演。
Vitulkaへの思いを元にインスピレーションを得て弦楽四重奏曲第5番を作曲。
これが最後となる母国観光を行う。Sokolフェスティバルを訪れ,ポリチカやTri Studneの近くのVitulkaの家で休暇を過ごす。
ミュンヘン協定の調印の日,シェーネンベルクのPaul Sacherの所有地で,「2つのオーケストラとピアノとティンパニのためのダブル・コンチェルト(H.271)」を完成。
1939年 ボヘミアとモラビアが,ドイツの軍隊に占領され,「Reichsprotektorat」が宣言される。
ミュンシュはパリでTre Ricercareを演奏。
彼が夏を、Firkusny、Vitulka、およびJiri Muchaらの一行と,Vieux Moulinのシャーロットの家で夏を過ごし,チェコ・マドリガルを作曲する。
翌年Vitulkaと結婚するMuchaにより提供されたテキストによって,フィールドマスをフランスのチェコスロバキアのボランティアに献呈する。
1940年 バーゼルにおける二重協奏曲の初演に出席。
彼の音楽は禁止される。
ピエール・フルニエとフィルクシュニーにより,チェロソナタ第1番が初演。
彼らによるマルチヌーと彼の妻がパリから逃げるようにというアドバイスにより,ゲシュタポによる逮捕から危うく逃れることができる。
パリへドイツ軍が到着し,ミュンシュが計画したコンチェルト・グロッソ初演が中止される。
Aix-en-Provenceで出国書類を待つ間、フィルクシュニーのための幻想曲とトッカータを作曲。
Vitulkaの死を知り,モンペリエの彼女の墓を訪れる。
ナチスのブラックリストに載っていて、米国に脱出するためにスイスの友人,特にザッヒャーとアンセルメから財政援助を受け取っていることを発見される。

アメリカ時代(1941〜1953)
1941年 「ブラックリストに載った知識人」と説明されたアメリカのビザを手に,ニューヨークへ到着。フィルクシュニー、Dushkinとシャフラーネクおよび彼の妻ゲルマン・ルロックスらに歓迎され,フランスからの最後の贈り物として「シンフォニエッタ・ジョコーサ(H.282)」を献呈する。
ザッヒャーのために「コンチェルト・ダ・カメラ(Concerto da Camera)(H.285)」を作曲。
ボストンにおいて、クーセビツキーは、「コンチェルト・グロッソ(H.263)」(そのスコアは,すでにオーストラリア経由でジョージ・セルにより持って来られていた)を,のばしのばしになっていた初演で指揮する。さらに,マルチヌーに交響曲を委嘱する。
1942年 クーセビツキーによってボストンで「交響曲第1番(H.298)」が初演。
Gregor Piatigorskyのために「ロッシーニの主題による変奏曲(H.290)」を作曲。
歌曲集「新しいシュパリーチェク(H.288)」をJarmila Novotnaが歌い、彼女の伴奏者であるヤン・マサリク(Jan Masaryk)に献呈される。
タングルウッドのバークシャー音楽センターの教授となる。
1943年 二つの作品が,チェコスロバキア共和国の設立25周年記念日に初演される。それは,「交響曲第2番(H.295)」(クリーブランドで初演)と,その前年にナチスによって虐殺された村人たちに捧げられた「リディツェ追悼(H.296)」(ニューヨークで初演)である。
偉大な科学者であるだけでなく,アマチュアバイオリン奏者としても有名なアルバートアインシュタインのための「5つのマドリガル・タンツァ(H.297)」を作曲。
ボストンにおいて,ミッシャエルマンが「バイオリン協奏曲第2番(H.293)」を初演。
1944年 クーセビツキーのボストン交響楽団就任20周年記念日のために,「交響曲第3番(H.299)」を作曲。
マルチヌーの母、亡くなる。しかし,このニュースが届くのは翌年になってからである。
シャフラーネクが,マルチヌーの最初のモノグラフを出版。
1945年 「1938-1945」という戦時下実録を出版。
ポリチカから名誉市民権を授与され、プラハからは教授職を提供される。
フィラデルフィアにおいて「交響曲第4番(H.305)」の初演。
アウシュビッツで妻と娘を亡くしたスタニャ(スタニスラフ・ノヴァーク)が亡くなる。
アンセルメは,交響曲第1番のヨーロッパ初演を指揮し,彼を「このの世代の最も真正のなシンフォニスト」と讃える。
1946年 ラファエル・クーベリックが,「交響曲第2番」と「フィールドマス」のプラハ初演を行う。
マルチヌーの帰国を期待し,チェコ・フィルのための「交響曲第5番(H.310)」を作曲。
アメリカの公民権を得て、バークシャー音楽学校で教鞭をとる。しかし,ここで重大な事故を被ることになる。無防備なバルコニーから落ちて、彼の聴力や神経などを損傷する。
シャーロットは,ヨーロッパの彼女の母を訪ねる。Roe Barstowは,マルチヌーの健康回復の間に、近い友人になり、「弦楽四重奏曲第6番(H.312)」を献呈。
1947年 ザッヒャーは,「トッカータと2つのカンツォーネ(H.311)」をバーゼル室内管弦楽団の20周年記念祝典コンサートに含めるとともに,「2つのオーケストラとピアノとテェインパニのためのダブル・コンチェルト」のプラハ初日を指揮する。
クーベリックは、プラハ春のフェスティバルで,「交響曲第5番(H.310)」の初演を行う。マルチヌーは,弦楽四重奏曲第7番の作曲に専念しているため,彼の妻に代理として出席した。
「シンフォニエッタ・ジョコーサ(H.282)」が,ゲルマン・ルロックスとチェコ・フィルによって録音される。
マルチヌーは,Roeと休暇をニューヨーク州のアディロンダック山で過ごす。
Mannes音楽学校で作曲の教授になる。
1948年 チェコスロバキアは共産主義を開始。
フィルクシュニーがプラハでチェコ・フィルに演奏させるつもりであった「ピアノ協奏曲第3番(H.316)」は、外務大臣ヤン・マサリクが更迭された日に完成される。
プラハにおける教職のポストは,ターリッヒの迫害に抗議して,辞退する。
戦後始めてのヨーロッパ訪問で,パリとシェーネンベルグを訪れる。
永久的な追放の見込みに直面し,プリンストン大学で作曲の客員教授としてポストを受け入れる。
西側への亡命の直前に,「交響曲第4番」がクーベリックによってプラハで録音される。
1949年 ザッヒャーは,バーゼルで「シンフォニア・コンチェルタンテ(H.322)」の初演によって,マルチヌーの60歳の誕生日を祝福する。
1950年 「ダブル・コンチェルト」が,クーベリックとロンドン・フィルによって,ロンドンで録音される。
1951年 「交響曲第6番・交響的幻想曲」の作曲に取りかかる。
1952年 アメリカのテレビのための2つのオペラを作曲。「何によって人は生きるか(H.336)」と「結婚(H.341)」
Roeとヨーロッパへの旅行が,シャーロットとRoeの確執をもたらす。

ヨーロッパ時代(1953〜1959)
1953年 「交響曲第6番「交響的幻想曲」(H.343)」がパリで完成。
ニースに住み着き、オペラ「ミランドリナ(H.346)」に着手。
1954年 「ギリシャ受難劇」の基礎となる最新の斬新な「キリストのRecrucified」を提案したNikos KazantzakisをAntibesに訪ねる。
ルドルフ・ゼルキンのための「ピアノソナタ(H.350)」を作曲。
1955年 「交響曲第6番「交響的幻想曲」(H.343)」が,ボストンでミュンシュにより初演。
引き続きニースに在住し,ザッヒャーのためのオラトリオ「ギルガメッシュ(H.351)」が完成。続いて,その前年にArezzoでみた印象に基づく小品「フランチェスカのフレスコ画(H.352)」(The Frescoes of Piero della Francesca)を作曲。
故郷ポリチカの友人ミロスラフ・ベネシュの詩に基づくカンタータ「泉開き(H.354)」は,録音を許され,マルチヌーの65歳の誕生日の前日に,プラハで私的に初演。公式の初演は,その翌年,「5つのチェコ・マドリガル(H.321)」と「3つの宗教的な歌−3つの伝説(H.339)」と一緒に,ポリチカで行われる。
1956年 フィルクシュニーのための「ピアノ協奏曲第4番「呪文」(H.358)」を完成し,ヨーロッパに定住する。
ローマのアメリカアカデミーで教職を開始。
カレル・アンチェルはプラハで「交響曲第6番「交響的幻想曲」(H.343)」を指揮。
1957年 ハンガリー暴動の際のチェコスロバキアの不干渉に悲しみ,「怯えることなく,少しでも心を陽気にする」ために,「10の山賊の歌(H.361)」をプラハとプルノの合唱団に送る。
1958年 休息のためシェーネンベルグに滞在中のマルチヌーを招待し,ザッヒャー指揮のバーゼルでの「ギルガメッシュ」初演は極めて大成功。
そこで,ミュンシュのための「寓話(H.367)」,ルイスヴィル・オーケストラのための「版画(H.369)」,ジュリエッタの台本作者Georges Neveuxとの共同作業になるオペラ「アリアドネ(H.370)」を完成。
「ギリシャ受難劇」は胃癌の中で最初の徴候により中断され,マルチヌーはリースタルで手術を受ける。
1959年 「ギリシャ受難劇」は完成したが,ロンドンでの上演計画は,コベントガーデン王立歌劇場からのクーベリックの辞職によって,白紙となる。
「寓話(H.367)」はボストンで,「九重奏曲(H.374)」はザルツブルグ音楽祭で初演。
最後の主要な仕事はカンタータ「イザヤの予言(H.383)」となる。
8月28日にリースタルの病院で死亡。彼の希望により,ザッヒャー所有の森林の端に葬られる。

その後
1979年 没後20周年日の前日,ポリチカにおいて,彼の遺体は,掘り出され,前年亡くなったシャーロットの隣に、再埋葬される。