ニュールンベルク・゙カイザーブルク城をバックに
1999年 ドイツ、中欧、イタリア
   (写真にマウスを当てると説明が出ます)

 9/30〜11/6
 ドイツ(ニュールンベルグ)でレンタカーする。
ドイツ→チェコ→ポーランド、またチェコに戻り、チェコ→ハンガリー→オーストリア→イタリアを走った。


 「一枚の張り紙」
 この年の旅はドイツのニュールンベルグから始まった。 日本で予約していたハーツレンタカーの書類を持ってオフィスに行った。 オフィスは空っぽで扉に何やら書いて貼ってある。 何の事かわからない。 事務所もなく人通りもなく途方にくれていると、ビジネスマンらしい男性が来あわせた。 事情を話すと私達を裏通りのオフィス街まで案内してくれてそこで電話を借りて紙に住所を書き、ちょっと遠いのでタクシーで行くようにアドヴァイスしてくれた。 ホントに有難かった。
 改めて困った外国人には、勿論困った人には親切にしてあげようと心から思ったのだった。

     


 「遺された物」アウシュビッツ入り口「働けば自由になる」と書かれたプレート
 かつてプラハにはユダヤ人のゲットーがあって、そこにあったシナゴーク(礼拝堂)は最近は観光客に開放されている。
その一つに入って行くと,入ったはなは最初は単なる壁紙とおもっていた内壁全体に、実はナチスに殺害された犠牲者の氏名と殺害された日時が白地に5ミリくらいの赤の書体でびっしり書きこまれてある、と言う事が分かった。
 同じ階だったか2階だ整然と並んだアウシュビッツ収容所の建物ったか記憶が曖昧なのだけれど、4畳半くらいの2間続きの部屋には、犠牲になったユダヤの子供達の絵・手紙・手芸品・家族の写真もあわせて展示されていた。
 アウシュビッツでは遺された量のあまりの多さに、唖然とするのみで悲しみとは又別の感情にとらわれたが、ここでは唯涙が止まらなかった。 きっと皆、”感じる事は同じなんだろうなー”と思ったのはここでは皆涙を流しているのに、アウシュビッツで泣いている人はあまり見かけなかった気がするから。

     


 「ルパン3世」プラハ・旧市街広場でオペラのチケットを売る女性
 シナゴークに向かって雨上がりの道を歩いていた。 右は官庁らしい建物、左は野っ原。 裏通りである。 先を歩いていた集団が見えなくなると、私達だけが一本道を歩く事になってしまった。 と、一人の若い男性が「英語話せますか」と地図を持って現われた。 夫が[Yes」と答えると彼は地図を広げた。 プラハの町の地理は大体頭にはいっていたので,力になってあげたいと思って私も一緒に地図をのぞき込むと、彼の手はブルブルとふるえている。 道に迷って余程気が動転しているのだなーと、気の毒に思った。
 と,今度は反対側から突然若い男性が手帳らしき物をかざして「ポリスだ!」と飛び出してきた。 とっさにこれはマニュアルにあった犯罪の手口ではないか!と気づき、思わず大声で[No!No!No!」と叫んでいた。 その剣幕に驚いたのか二人は一緒になって、私達が歩いてきた方角に飛んで行くのだった。 ガニマタのルパン3世が宙を飛ぶ様にトレンチコートを風になびかせて。
 マニュアルでは両替(一般人の両替は違法である)を頼まれている所にポリスが来る。 だったけれど,”地図”では犯罪にならないのでは?? それに手が震えるほど興奮していて、彼等はこの日が商売の初日だったのかもしれない。

     


 「サウンド・オブ・ミュージックの舞台」ザルツブルグドライブ途中で・個人住宅の
 ザルツブルグの町やザルツカンマグートを車で走っていると、あれ!ここはあのマリアが子供達と渡った橋,ナチスに追われて隠れた教会等などなど、自然や町や建物などが切り取られて、うまくミックスされて映画になっていたんだと言う事に気づいた。  
 郊外にあるヘルンブルン宮殿の見学が終わって,あまりに紅葉が美しかったので広い庭を散策していると、庭の片隅にトラップ大佐のお屋敷にあったあのガラスの家が、黄葉した大木に隠れる様にひっそりと建っていた。 ♪・♪・♪思わずハミングが出そうななつかしさ。 映画ってこんな風に”いいとこどり”で編集される物なのだとなんとなく納得。

     

噴水装置が仕掛けられた水の宮殿・ヘルブルン宮殿
 「夏の宮殿だもの」
 まわりの山々のたたずまいも又紅葉も黄葉もとても美しいヘルブルン宮殿は 又トリック一杯の宮殿だった。 テーブルから椅子から水が噴出す。 ボケーっと歩いていたら,突然道沿いの石から水が噴出してきて顔を直撃。 髪までびっしょりになってしまった。 見まわしたら案内人の初老の男性が茶目っ気たっぷりに笑っている。 
 彼の操作一つで何処からでも水が噴出す。

     


 「ボディランゲージ」
 チェコとポーランドの国境を、アウシュビッツに行くべく10月中旬の、のどかなオンシフェンチムの田舎道を走っていた。 右手はブッシュ、左手は菜の花に似たてん菜の黄色い花のじゅうたん。
 すると突然車に行く手を阻まれた。 中から二人の警察官が降りてきてなんじゃらかんじゃらとポーランド語で言っているけれど、ポーランド語と英語では全くかみ合わない。 国際免許証を見せ、パスポートを見せ、レンタカーの書類を見せ,車のマニュアルを見せるともうなにも見せるものはない。 突然警察官の一人が上半身を車の中に乗り入れた。 ライトをつけたのだ。 ナーンダ。
 彼等が”ボディランゲージという言葉を知っていてくれていれば、恐怖を味わう事もなく右手だけで簡単に意思の疎通ができたのに・・・・・。

     


 「国境の迷い道」ポーランドとチェコの国境の素朴で美味しいレストラン
 チェコスロバキァが解体して,チェコ共和国になって約10年。
地方の都市に行くとまだ建物の壁には弾痕の穴があったりする。 道は立派な道路と並んで古い道路があって、実はこちらがメインだったりする。 この事を何度も思い知らされたのだった。
 チェコに入る国境で道を間違えた。 10分くらい走って気付くともう元の道に戻る事は出来ない。 道行く人に聞いてもチェコ語を解しない私達には皆目理解できない。 そのゼスチャーで「こちらかな?」と思っても、ターンできそうもない畦道に近い道に車を乗り入れる勇気がないのだ。
 チェコ国に入ったのは昼過ぎ頃だったのにウロウロしているうちに、あたりはだんだんと暗くなり小雨からどしゃぶりにチェスキークルムロフへの田舎道・通行量は少ない。道端の落ちたりんごをかじりながら走る。車の中はりんごの香り一杯なってしまった。 道路表示があると思えば路肩に車を停め、ライトを斜めに上げて読み取らなければならない。 4時ごろ到着の予定をはるかにオーバーして,ホテルに到着したのは夜8時を過ぎていた。 4時間近くさ迷っていたのだ。
 フロントの女性に事情を話すと曰く、「あぁ・あのポイントでは多くのツーリストが道を間違って夜遅くにチェックインする」と、何をかいわんや・・である。
 ホテルレストランで遅い夕食をとっていると、ソムリエがモラビア特産と言ってブラウンビアをプレゼントして下さった。 やっと長い不安な一日が終わって眠りにつく事ができた。

     

アルバム
コーブルグ・美男におわすアルベルト殿下 アイゼナッハに向かう・旧東独の8km手前
ワイマール・東西の格差が顕著。空家が多い ブタペスト・ホテルレストランで。陽気な食事風景
プラハ・ブルタヴァ川・カレル橋から後方は王宮。橋の手前に川に面してスメタナ博物館がある。
世界で最も美しい町・チェコ・チェスキークルムロフ町の中をブルタヴァ川が屈曲して流れている
ポーランド・クラクフの中央市場広場・戦災を免れ中世の面影がそのまま残る美しい広場
ハンガリー・ブタペストのゲッツレートの丘からドナウ川・エリザベート橋を望む。後方聖イシュトヴァーン大聖堂
オーストリア・ザルツブルグ・ロープウェイであがったサンクトギルゲン山上からヴォ゙ルフガング湖を望む