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novel01




梅雨を迎える前の蒸し暑い日だった。太陽は雲に隠れているがじっとしていても汗がにじみ出てくる。
僕の部屋は2階にある。風鈴を下げた部屋の窓には網戸を入れているが,窓が小さくて風通しが悪く,部屋の中はむんむんしていた。窓のところの机の横の本棚にぶら下げている寒暖計は30度を超えている。

僕は本棚の整理をしていた。起きたばかりなのでパジャマ姿のままだった。暑苦しい部屋に時折,風鈴の音が響く。汗をかきながら本を整理していた僕は,その風鈴の音の中に羽音が混じっているのに気がついた。僕は何だろうと思って部屋の中を見渡すと天井の電燈のあたりを一匹の大きな蜂が飛んでいた。どこから入ってきたのだろう。とても大きな蜂だ。クマンバチかもしれない。蜂は外に出ようとしたのか,網戸にぶつかり,網戸の上をチョロチョロと動き回っている。

僕はゆっくり部屋から出た。そして廊下からその蜂をみていたら,階段を母が上がってきた。
「どしたんね」
「蜂がいる」
母は部屋をのぞくとちょっとびっくりした声で言った。
「大きいね。どっから入ってきたんやろか」
「さあ,それはわからんけど,とにかく追い出さんと」
僕はそういうと,おそるおそる部屋に入り,壁に掛かっていた紺色のウインドブレーカーをとった。そして,それを羽織ると階段を下りていった。
階段を下りた僕は,床の間の押入れから軍手を出し,台所にある小さなほうきを持った。僕は,ウインドブレーカーを着て,両手に軍手をつけ,右手にほうきを握りしめ,再び2階へ上がっていった。
「何ね,その格好は」
母は思いっきり笑った。
「完全武装」
僕は覚悟を決めて部屋に入った。
蜂は相変わらず網戸の上にいた。僕はどうやって蜂を追い出そうか考えていた。ほうきで蜂を驚かせ,廊下の窓から追い出そうかと思ったが,それはやめることにした。廊下には母がいるし,驚いた蜂が襲いかかってくるかもしれない。完全武装といきがっていても,蜂に刺されるのは痛いしイヤだ。
部屋の中は風もなくむんむんしている。風鈴の音も途絶えたままだ。僕はびっしょりと汗をかいているのに気づき,そして決めた。
「網戸をはずそう」
母は驚きの声を上げた。
「洋平,あの網戸はしっかり入っているんよ。ちょっとやそっとじゃはずれるものじゃないんよ。どうやってはずすつもり何ね」
「でもやるだけやらんと」
僕はぶっきらぼうに答えた。

ゆっくりと僕は網戸に近づいていった。蜂は僕に気づいたのか忙しく羽を振るわせ飛ぶ気配を見せた。僕は机の横のベットにほうきを立てかけ,網戸で蜂から一番遠いところに手を近づけた。蜂もいつのまにか隅っこに行っている。僕は静かに網戸をはずそうとしたが母が言ったとおりなかなかはずれない。部屋の中は暗く暑く,僕は全身で汗をかいていた。
僕は網戸を浮かそうとした。少し浮いたとき,たたいてはずそうと思い網戸の枠を強くたたくと網戸ははずれず,代わりに蜂が飛び立った。蜂は部屋の中を一周したと思うと,不意に僕に近づいてきた。僕はほうきをつかむとそのほうきを振り回し,蜂から逃げようとした。しかし蜂は僕の攻撃をあっさりとかわし,顔めがけて飛んできた。僕はとっさに左手で顔をおおった。蜂は僕の左手の軍手に当たり,そのまま手首に止まった。
僕はびっくりしてほうきを放り出し,机の上にあった下敷きでその蜂をたたこうとした。しかし蜂はギリギリのところで手首から飛び立ち僕は右手で左手の手首を下敷きで思いっきりたたく格好となった。下敷きは大きくゆがみ鈍い痛みが関節あたりを走った。僕は部屋から飛び出した。蜂はぐるぐると部屋の中を数回回っていたが,やがて再び網戸に止まった。

気がつくと母がいなかった。すぐに階段を上ってくる母の足音がした。手にスプレー殺虫剤を持っていた。
「洋平,これで殺しなさい。あんたが刺されるよ」
「殺すことはないんじゃない」
渡そうとしたスプレーを受け取らずそう言うと母は珍しく怒った口調で言った。
「刺されたらどうするんね」
母はグイッとスプレーを僕に押しつけた。
「でも,まあ殺すことはないやろ」
僕はスプレーを受け取ると,部屋の入り口に置き,もう一度部屋に入っていった。
蜂はまだ網戸の上を動き回っていた。その網戸はさっき叩いたせいで少し浮いている。僕はほうきを逆さに持ち,柄のところを網戸の浮いた枠にあてた。蜂は再び飛び立つ気配を見せた。

「網戸がはずせそうやけ,やってみるよ」
母は返事をしなかった。僕は力一杯網戸の浮いたところの枠を柄で押した。網戸は外側に跳ね上がり,はずれて屋根の上に転がった。蜂は網戸から飛び立ち,そのまま,空高く上がっていった。僕はフッとため息をつき,ウインドブレーカーを脱いだ。全身汗まみれだ。そして,窓の外に手を伸ばし,ほうきを使い網戸をとろうとした。
空は相変わらず曇ったままで蒸し暑さをかもし出している。
窓から身を乗り出し,少し焼けた屋根から網戸を取り上げ,空を見上げて僕はつぶやいた。
「もうすぐ梅雨だね」
そのとき,一筋の風が舞い,風鈴を戯れ,心地よい音を響かせた。
「そうやね」
母は一言そう言うと,スプレーを取って,階段を下りていった。
僕は,窓から顔を出し,ひとりでしばらく,蜂が飛び去った空を見つめていた。耳元で風鈴の音がした。





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