年の暮れ(2002.12.31)
平成14年が終わろうとしている。ごく普通に見ている風景でさえ,大みそかというだけで不思議と違って見える。
果たして,この一年,自分はどうだったのだろうか。家族に,友人に,職場に対して,どうだったのだろうか。
「お天道様が見ている」というのが最近の心の口癖になった。恥じない生き方をしたいと思うようになった。
夕方,散歩の時,暮れゆく今年最後の夕陽を見送りながら,この綺麗な夕焼けを素直に綺麗と感じる心をなくしたくないと思った。ふと風を冷たく感じない自分に気づいた。
年の暮れ。来年もいい年であってほしい。
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手相をスキャナ(2002.12.09)
スキャナを買った。
スキャナを使う頻度はほとんどないので,差し迫った必要感はなかったのだが,あるといいなと思ってはいた。
どうせならフイルムネガもスキャンできるものがほしかった。
電機店に行くと,その機能があるスキャナが自分の予算内値段であった。目玉商品・「本日までの大安売り」だったらしい。で,ほとんど衝動買い。
付属のソフトはOCRや画像編集・画像管理などあったが,加えて「手相占い」もあった。
家族みんなで,右手と左手を順番にスキャン。それを「手相占いソフト」が解析して,占ってくれる。
結構,面白かった。
手相占いの説明で知ったのだが,両手のひらを組み合わせたとき,親指が上下になっているが,下側の親指のある手が「現在と将来」の運命を表し,上側の方が「生来もっている才能や性格」を表しているとか。
(私は,左手が「現在と将来」の手相,右手が「生来の才能と性格」の手相だった)
手相で盛り上がった夜だった。
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三角・四角・大曲線(2002.12.07)
おとめ座の一等星・スピカの好きな知人と星の見つけ方の話をした。
スピカは「春の大曲線」からさがすと見つけやすい。
春の大曲線は,北斗七星の「ひしゃくの柄」の部分をそのカーブにそって延ばしてできる曲線。北斗七星からずーっと延ばすと,まずアークツールス(うしかい座の一等星)にたどり着く。そしてそのまま延ばすと,おとめ座のスピカに。更に延ばすと四角い星並びがあり,それがからす座。
この,北斗七星→アークツールス→スピカ→からす座が春の大曲線。
なお,日本ではアークツールスは麦を刈る頃に東から昇るので「麦星」・スピカは白く美しいので「真珠星」と名付け,この二つを「春の夫婦(めおと)星」とも呼んでいる。しかし,おとめ座のスピカは,星座絵で見ると,おとめがもつ麦の穂の先に輝く星でもある。(おとめ座は農業の女神デーメーテールの神話がある。)
閑話休題。
星を見つけるとき,星をつないだ形として,「春の大三角」「夏の大三角」「秋の四辺形」「冬の大三角」がある。
春の大三角は,しし座のデネボラ(しし座のしっぽの先の2等星)とアークツールスとスピカを結ぶとできる。
夏の大三角は,はくちょう座のデネブ,わし座のアルタイル,こと座のベガを結ぶとできる。なお,アルタイルは彦星・ベガは織り姫星でもある。
秋の四辺形は,ペガスス座の胴体の部分とアンドロメダ座の一部を結ぶかたちとなる。
冬の大三角は,オリオン座のアルデバラン,おおいぬ座のシリウス,こいぬ座のプロキオンを結ぶ形となる。
それぞれに神話があり,また,星自体の話もあるのだが,それはまた別の機会に。
今,この季節,夕方7時頃,西に夏の三角が沈もうとしている。夜9時を回ると南の空には秋の四辺形,東からは冬の三角が昇ってくる。晴れた日には夜空をみましょう。特に冬の空は見事ですぞ。
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FM出演(2002.11.28)
仕事のイベントの紹介で,CITYFMに15分ほど出演した。2度目でもあり,パーソナリティの中神さんの配慮もあり,何とか話せた。
「15分も話せるかなあ」などと言いながら臨んだのだが,終わってみると「3分オーバーでしたよ」って中神さんにニコッと笑われてしまった。なるほど,打ち合わせでは曲が流れる時間は話さないはずだったのだが,確かに曲をBGMに話を続けていた。
報道は,仕事の関係で,お世話になることが多い。こちらから広報依頼もすれば,向こうから取材依頼もある。
UMK,MRT,NHK,ケーブルTVのテレビ関係,MRTラジオ(スタジオもスクーピーも),CITYFMのラジオ関係,そして,宮日,朝日の新聞。出演したりすると,友人知人から,「見たよ!」「聴いたよ!」「読んだよ!」という連絡が入る。メディアの影響力はすごい。
それにしても,レポーターはプロである。簡単な打ち合わせをしたら,カメラの前で,マイクの前で,すらすらと語り始める。こちらが緊張して撮り直しになっても,「大丈夫ですよ。」ってリラックスさせてくれる。生の場合も,さりげなく助け船をくれるし,すごいなって感心する。
向こうはたくさんの仕事の一つで私を覚えていないかもしれないが,私はテレビを見ていて一緒に仕事をしたレポーター(ニュースのキャスター)を見ると,すごく親近感を感じる。(実は,交換した名刺も大切にとってある。)
そして,彼らのプロの技を見習いたいとも思っている。取材される方への配慮や,取材中の臨機応変さ,そして語り方など,実際,すごく参考になることばかりである。
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ライブカメラ(2002.11.26)
職場でライブカメラの話題が出た。
実は昼休みに時間があると,ときどき職場のパソコンでKBC(九州朝日放送)のホームページからライブカメラに入り,関門海峡を見ている。
NTT西日本・山口支店が提供しているこのライブカメラは下関側に設置されており,門司側がよく見える。
(パンすると下関の街も見えることはみえるが,基本的に関門海峡と門司の方を向いている)
カメラの操作権を取得し,1分くらい操作する。自然と,自宅付近をさがす。目印の製粉会社を見つけ,そのあたりをズームする。もちろん自宅は見えないが,まわりの様子はおぼろげに分かる。大森公園,市民病院,日清製粉・・・。懐かしさがこみ上げる。
これをきっかけに,インターネットでライブカメラを検索して,国内・国外の様子を見ることが多くなった。
北海道に雪が舞った日は旭川の雪景色をみた。外国ではちょうど朝日か夕陽の街並みを探してみている。
「遠くへ行きたい」という言葉がある。人の心にある「還る気持ち」を端的に表現した普遍性のある言葉だが,ライブカメラで様々な風景をみていると,その言葉の命ずるまま,ふっと出かけたくなる。
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電車通勤(2002.11.26)
私の住む町を抜けていく宮崎に向かう国道は,一日中混雑している。特に朝夕は動かない。
そこで,町が一週間,試験的に駅への連絡バスや高速道路を使ったバスを走らせ,朝夕の通勤の様子を調べた。
自宅から歩いて2分くらいのところに臨時バス停ができ,駅まで運んでくれる。
バスに乗っていると,普段は運転しているので見えない風景が見える。青く高い空。裸になった田んぼ。白い息をはきながら歩いている中学生。そして道の両側の家々の花々。
駅から電車に乗る。2駅の距離。
電車はガタンゴトンと揺れながら走る。吊革につかまり眺める車内の景色。女子高生は元気だ。友達と話をしたり携帯したり。それに比べて男子高生や通勤の人々は一様に目を閉じて揺られている。そういえば,黙ってぼんやりとまわりをみている自分もその一人だった。
大淀川を渡ると宮崎駅。高架から見える宮崎の街並みはなかなか楽しい。
さて,帰り。帰りは早くて19時頃の電車。遅い日は23時すぎの最終に乗った。
流れていく宮崎の街あかり。大淀川を渡るときの鉄橋の音。踏切の音。だんだん少なくなっていく家のあかり。車のライト。夜に飲み込まれていくようで,ふと「夜汽車」を思い出した。
DOOR
TO DOOR
の通勤に馴れている自分にとって,歩いたり,階段の上り下りがあるこの電車通勤では少し足の疲れが残った。歳を感じた。
しかし,まわりのいろいろな景色に気づき,街や人を知るいい機会になったと思う。
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秋の気配(2002.09.24)
彼岸になり,ようやく宮崎も秋の気配。先人の「暑さ寒さも彼岸まで」という季節感はさすがだ。
一日の最高気温が30度に届かなくなった。昼間はそれでも汗ばむ陽気だが,それでも真夏よりは過ごしやすい。何といっても風が柔らかくなった。日陰にはいると特にそれを感じる。
そして,先日は朝の気温が20度を下回った。その朝はずいぶんと寒い朝だった。公園の散歩道も朝露に濡れていて,もうTシャツでは風邪を引くかなって感じた。
空の雲も,夏特有の入道雲は姿を消し,かわりに,すじ雲やうろこ雲が姿を見せ始めた。空が高くなったと感じた。高い空をほうきではいたようなすじ雲が流れる。夕焼けが一層赤く感じる。
夜も涼しくなった。この前「中秋の名月」。
まだまだ半袖の暮らしだが,どことなくどこかしこ,秋の気配の街だ。
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朋,遠方より来たる(2002.09.17)
高校の旧友から仕事場にいきなり電話が入った。連休を利用して宮崎に来るという。シェラトングランデ(元オーシャン45)に泊まるので,夜,ホテルに来れないかとのこと。
で,仕事を夜8時半に済ませて,ホテルへ。彼と会うのは18年ぶり。ホテルのロビーのソファーで1時間半くらい語り合った。
彼は昔,歌っていた。「「夕陽の中で」という曲が大好きだった,今でも歌える」と私がいうと,じゃあ歌おうということになり,ロビーで二人で歌った。ちょっと注目を集めた。彼はまだ歌っているらしい。
高校の頃の話,予備校の頃の話,学生の頃の話,そして今の近況報告。あっという間の1時間半だった。
彼は,昔からの夢を熱く語った。彼はまだその夢に向かって歩いていた。必ず実現するという自信を感じた。また,彼はきっと実現するだろう。不思議な魅力を持った,そして力を持った旧友だ。
翌日,家族でカラオケに行った。ユーミンの「卒業写真」を歌った。少し心が熱くなった。
ふと,私は今,どこにいるんだろうと思った。
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佐賀・博多・北九州(2002.09.09)
仕事で佐賀の武雄温泉へ行った。
宮崎から佐賀は結構不便で,とにかく博多まで行って,そこから佐賀に向かうコースになる。
飛行機でもよかったのだが,たまには長距離バスに乗ってみようと思い,早朝のバスで博多に向かった。
仕事を忘れてぼんやりと景色を見ていようと思っっていたが,小一時間たつと眠りに入ってしまった。気がつけば久留米。
程なく都市高に入り,博多。相変わらず博多は都会だ。ビル群に囲まれると空を見失う。
博多駅で,自動販売機で切符を買う。改札も自動改札。構内に列車の案内の声は響くが,人とふれあうことはない。
博多からJRで武雄。ほぼ1時間。早いものだ。
午後からの会議に出席。武雄温泉は古くからの温泉。景気に左右されない固定客が多いとか。
懇親会も終わり,夜9時のJRで博多に戻る。10時,博多着。この時間なのに駅前はにぎわっていた。駅前は明かりに包まれ,人々は急ぎ足で行き交う。角で立ち止まり空を見上げたら,やはり星はみえなかった。
翌朝,博多からJRで北九州へ。用事は午後からなので,午前中は墓参り。3年ぶり?それと,ネットで知った「歌う果物屋さん」にこっそり会いに行く。嬉しかった。それにしても,町の風景の変わりようには驚かされる。ダイエーが閉店。デパートが高層マンションに。駅は改築中。神社は焼けていた。浦島太郎の気分。
久しぶりに関門海峡を見る。波音と潮風を胸に吸い込んだ。
午後から,黒崎。黒崎駅前も変わっていて迷子に。バス停が分からずタクシーで移動。
夕方,JRで博多へ。そして高速バスで宮崎へ。
博多の夕方は大渋滞。バスは20分遅れ。しかし高速バスでうとうとしていたら携帯が震えた。明日からの仕事の連絡。きっと机上は決裁や供覧文書,連絡メモのヤマだろう。
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鹿児島(2002.02.21)
仕事で鹿児島へ行った。「西鹿児島駅前」から「郡元」まで路面電車に乗った。
北九州の高校時代,「市民病院前」から「桟橋通」まで西鉄の路面電車で通っていた。北九州と鹿児島,場所は違うが,その想い出がよみがえった。乗るとき妙にどきどきした。
発進するときと止まるときの揺れ,カーブでの揺れ,警笛,つり革,そして電停・・・。外の景色は鹿児島だが,自分の目には一瞬,関門海峡が見えた。電車の後ろの方に佇む高校の制服が見えた。
鴨池を歩いたあと,「郡元」から「いずろ」まで路面電車に乗った。ビルの隙間から桜島が見えた。桜島を見て,当たり前だが,今,鹿児島にいると実感した。
天文館から県立博物館あたりをのんびり歩いた。校外学習の小学生達が追い越していく。小さな子ども達が遊ぶ中央公園の日だまりの中で,ゆっくり空を見上げると,冬晴れの空まで笑っているように見えた。
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さくら咲く(2002.2.16)
いつのまにか,日の出の時間が午前7時台から午前6時台になり,日の入りの時間も,午後5時台から午後6時台になった。特に,夕方がずいぶんと明るくなったと思う。12月は夕方5時過ぎると暗かったのが,今は6時頃まで明るい。
立春も過ぎ,暦の上では春となったが,まだまだ寒い日が多い。
しかし確実に春は近づいているようで,庭も結構花が咲いている。玄関には桜草とビオラ。庭には,パンジー,ノースポール,そして,桜。
我が家の桜は早咲きの桜でサクランボをつけるのだが,今年も,2月中旬に咲き始めている。今は1分咲きといったところ。それでも,桜が咲くと心が弾む。北風に揺られながらも咲いている桜を見ていると,少しの時間寒さを忘れる。
先日,札幌の人と話す機会があった。北の大地は雪一色で氷点下10度とか。「宮崎は天国です」といっていた。
我が家の早咲きの桜が咲き始めた。雲一つない,いかにも冬の宮崎の空を飛行機雲が横切っていった。
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2001年7大ニュース(2001.12.31)
○転勤
・仕事の内容も全く変わり,大変だったがようやく馴れた。今や態度は10年目。
○庭をつくりかえる
・埴生の宿だった庭が今や見違えるほど。ガーデニングにも力が入る。
○ケーブルTV
・9月からケーブル。TVのチャンネルも増えたが,インターネットも快適。
○胃カメラを飲む
・ドキドキ,ゲホゲホでなんとか検査。良性でホッと一息。
○息子が剣道2級
・よだきんぼの息子が有段者になるのはいつのことか。
○娘が英検3級
・マイペースの娘。コツコツと3級合格。今度は準2級?
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しし座流星群と冬の夜空(2001.11.19)
「多いときは1時間に数千個」というアッシャー博士が予想したしし座流星群。
11月19日の未明と言うより18日の深夜3時,近くの公園に眺めにいった。
流星はすぐに表れた。東の空,しし座の「大鎌」が放射点だが,ほぼ全天の方向に星が流れていく。最初は「ワー」とか「オー」とか言っていたが,すぐに言葉をなくした。息つく暇もなく,星が流れていく。数えるまもなく星が流れていく。
スーッと流れて消える流れ星もあれば,白く輝き残像を残す流れ星もある。素晴らしかった。
また,見上げると,天頂あたりにふたご座があり,その中に木星が輝いていた。確かマイナス2等星の輝き。白くまぶしく輝いていた。それに,おうし座のアルデバランの近くには土星がこれも0等星くらいで輝いていた。
冬の星座の代表,オリオン座。ベテルギウスとリゲルが輝き,三つ星も美しい。その北側にはぎょしゃ座とその1等星カペラが。惑星も輝いて,にぎやかな冬の夜空。
さらに,今夜はしし座流星群も加わり,近年まれに見る美しい夜空となった。
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立冬(2001.11.07)
11月の声を聞き,南国宮崎もようやく秋らしい季節になった。しかし暦はもう「立冬」。
素晴らしく晴れた朝,宮崎はこの秋一番の冷え込みとなった。宮崎市で6度。山間部では1度まで下がったようだ。
雲一つない青空。降りそそぐ陽射し。吹く風は確かに冷たいが,陽射しの中ではかえって心地よいくらいだ。
長袖の人も増えてきた。朝夕は「寒くなりましたね」が挨拶代わりになってきている。ただ,私はこのキリッとした冷気は大好きだ。北の大地からは雪の便りが届いた。今日,立冬。暦は正直だと感じた。
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胃カメラ(2001.11.05)
人間ドックで,胃の出口に1cmくらいの「何か」があることがわかり,要精検Eの結果が来た。胃カメラを飲むのは初めてだった。
前日夜9時から絶食して,朝8時に病院に向かう。受付後ほどなく呼ばれ,検査室の前の控え室に入る。
まず,ドローッとしたゼリー状のものを5分間口に含む。舌先がジンジンしてきて,麻酔の始まりという感じ。そして,のどの奥にシュッシュッと麻酔をスプレー。苦かった。看護婦さんに「唾液がどっと出る方と全然でない方がいます。唾液がたまったら飲み込まずにティッシュに出してください」と言われる。私は唾液がどっと出る方だった。
検査室に呼ばれ,再度麻酔をシュッシュッと2回される。内臓の動きを弱める皮下注射も。検査担当の医師から「ぼーっとする麻酔を希望しますか」と聞かれ,「初めてなのでわからない」と答えると「きついときは麻酔をするかもしれない。判断は任せてください」と言われる。
ベットに横になり,マウスピースをくわえて,検査開始。
胃カメラの管が口からはいる。思わず吐きそうになる。一度目は入れるのを失敗。二度目もきつかったが,何とか入る。管が食道を過ぎると楽だとか。きつかったのは1分あっただろうか。ドキドキの時間だった。
目の前の機械のディスプレイに胃カメラから見た様子が映っている。初めて胃の中を見た。ポリーフは2つあったが,医者は,看護婦さんと連携しながら何か器用に検体を取っていた。この時は,全然きつくなく,胃の様子を見るのに夢中。時々胃が押されたり,空気でふくらませたりで,お腹に違和感があるが,たいしたことはない。
15分くらいで終了。抜くときもちょっと緊張したが,あっさり抜かれた。
ところで,人間ドックで「中性脂肪」を指摘された。ネットで調べたら,言葉は悪いがつまりは今「運動不足のおでぶちゃん」の状態だそうだ。運動しなくては!
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庭には(2001.11.01)
庭を造りかえた。4日でできるはずだったが,雨続きで1週間以上かかった。
荒れ果てていた庭が,見事にすっきりとよみがえった。
のび放題だった木々は剪定され,ほとんど裸の状態。リンゴの木には小さな実が一つ残されていた。小鳥たちのためかなと思う。百日紅はばっさり,本当にこれでもかというくらいに切ってある。3mくらいの桜も2本あったのだがその1本は「通行にじゃま」という理由からこれも剪定。昔から「桜切る馬鹿,梅切らぬ馬鹿」といい,桜は切らないものだが,庭師さんも「切りたいけど,切ると枯れるかもしれん」と言っていた。でも,切ってもらった。
草ぼうぼうの庭は,スコップで表面を削られ,ユンボで掘り返され,そして,固められ,コンクリートを張られ,玉砂利を入れられ,寝っ転がることができるようになった。
フェンス沿いの花壇も整備された。土がまだ硬くなじんでいないが,一度掘り返し,苦土石灰と化生肥料を入れた。今度はかみさんが張り切っていて,頭の中に「将来の庭」の青写真があるようだ。インターネットで調べたり,花屋さんに行ったり,フローランテ宮崎に行ったり,ガーデニングにはまっている。とりあえず,バラとノースポールなどを植えた。あとはパンジーも考えているようだ。「植え替えるゾーン」や「植え替えないゾーン」「つたをはわせるゾーン」などあるらしい。
庭が復活した。気の毒なのは,愛犬が庭から追いやられて家の北側につながれたことかな。
楽しみではある。
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日本の風景(2001.10.20)
奈良の高野山へ行った。大阪の難波から近鉄高野山線で100分。終点の「極楽橋」からケーブルに乗り,高野山駅からさらにバスで20分。高野山はもう秋の景色だった。山深いところだが,数キロに及ぶ細長い平坦な盆地があり,そこに高野山の街並みがあった。森は深いが大きな町だったのには驚かされた。
金剛峰寺で偶然,修行僧の一群とすれ違った。100人はいただろうか,黄土の袈裟をまとい,きちんと道を歩いてきた彼らは,寺の前で一斉に立ち止まり,寺に向かって礼をして,また立ち去っていった。金剛峰寺では,生き仏となった空海のために,一日5回の食事を今も運んでいる。朝,10時,昼,3時,夕の5回の食事である。江戸時代の飛脚が担ぐような,大名が乗るような,籠に食事は入れられ,しずしずと運ばれていく。これを何と1000年,毎日欠かさず行っているという。そして,おそらくこれから1000年も続くであろう。
高野山には,現代の時間,今の時代から全く無縁の「時」が流れていた。
奈良の高松塚古墳へも行った。古墳を守るために年間5000万かけて空調設備を整えているのには驚かされた。「古墳に限らず埋蔵物をその環境で保管するのにはお金がかかる」と説明の人がいっていた。
駐車場から高松塚古墳までは徒歩で約5分。ところがその道が,この季節には趣のある道だった。刈り取られた田んぼ。実っている柿。雑木林。何かなくしていた時間,忘れていた時間を思い出させるような風景。心が安まる風景だった。
1500年前,この地で生活していた人々がいた。やはり同じ風景を見ていたのだろうか。古墳に記した壁画と対面しながら,実は1500年前の風景や人々と対面していたことに気づいた。
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都会の風景(2001.09.21)
出張で横浜行き,その日の夕方,根岸線に乗った。退社や下校の頃なのか,車内は結構込んでいた。
その中に,いろいろな制服の女子高生たちがいた。一様に,髪が茶髪で,スカート丈が短かった。スカート丈は,普通に手を下ろしたときの手のひらの第一関節あたりだった。この短さには田舎者の私はちょっと驚いた。(それにしても,まだ,ルーズソックスをはいた女子高生が多いことも驚きだった)
また,手荷物からいきなり手鏡を出して,車内で化粧を始めた女子高生がいた。ケラケラと笑いながらパタパタと化粧をしていた。
さて,ある駅で,お年寄りが乗ってきた。混み合った車内でお年寄りの方が座れることもなく,女子高生の前にたっていた。二人組らしい女子高生のうち,一人が立っていて,一人がいすに座っていた。すると,座っていた女子高生(やはり茶髪で短いスカート)が,さーっと「知らん顔」して立ち上がった。しかしそれは,「席を譲る」という意思表示であったことは明らかだった。
お年寄りは,ちょっと驚いた風だったが,小さくお礼を言って座ろうとしたそのとき,隣でたっていた男性の会社員がサッとその席に座った。お年寄りの方はちょっと困った風で立ち続けた。二人の女子高生は顔を見合わせてあきれた顔で会社員を見た。会社員は知らん顔で「うたた寝」を始めた。すると,その横の女性が立ち上がり,お年寄りの方を座らせた。
いかにも都会風の女子高生。茶髪で,ルーズソックスで,スカート丈は短い,しかも手鏡で化粧。しかし,その子は席を譲る心をもっている。ごく普通のスーツを着た会社員。しかし,その人は人を思いやる心が見られない。
ほぼ満員の電車に揺られながら,外見と内面との落差を考えるとちょっと複雑な気持ちだった。
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彼岸花(2001.09.16)
今年も,庭の隅っこに彼岸花が咲いた。気づかないうちに茎が伸びて,赤い花をつけている。
はじめは一つだけ咲いていたが,今年は8つくらい咲いている。
ここは山を開いて造成された団地で,庭を造るときに彼岸花を植えた記憶もない。
まさか,彼岸花が飛んでくるわけがないので,造成した時からこの区画の土の中に彼岸花はいたのだろう。
しかし,何故かはわからないが,私の中で,彼岸花が咲くようになった記憶は,父を亡くした翌年から始まっている。
父を亡くした翌年の秋,庭に一つぽつんと彼岸花が咲いたように覚えている。
父の命日の前に必ず咲く彼岸花が今年も咲いた。
仕事の忙しさを理由に,なかなか里帰りをしていないが,機会を見つけて墓参りに帰ろうかなと思う。
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へたくそワッペン(2001.09.14)
私の職場の若い女の子が車の免許を取った。数ヶ月かかったようだが,最後は高得点で合格したらしい。(ただし学科)
さっそく,自宅にあるご両親の車に乗って通勤を始めた。しかしまだ,雨の日と夜間の運転は怖いのか,自粛している。自宅の車庫入れも,苦労しているようだ。運転する姿を何度か見たが,何と車の前に2枚,後ろに1枚の計3枚初心者マークを貼っていた。念には念の入れようである。
私が車の免許を取ったのはもう20年以上も前。今はもうなくなってしまったが「一つ葉自動車学校」だった。バスの送迎があったが,どうも自分のスケジュールとはあわず,小一時間の道を自転車で通った。田圃の中の道を自転車で走っていたら,急に雷雨になり怖くてたまらなかったことをいまでも覚えている。私は,ドジで,教官に急に指示されるととっさにわからなくなる。敷地内での教習中,「その角を右に曲がれ」という指示に3回連続して左折してしまい,「日本では右はこっちじゃ」と怒られた。また,踏切では窓を開けずに「音よーし」と言って,「耳がいいのお」と笑われたり,坂道発進では,ズズズっと下がって「おーおー滑り台じゃ」と笑われた。
最近は,ちょっと欲が出たのか,怖いもの知らずなのか,人の迷惑を顧みないのか,市内を走ったりしているらしい。無違反は無理にしても,無事故であることを祈っている。
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裁縫(2001.09.10)
かみさんが仕事でいけないと言うことだったので,息子の参観日に休みを取っていった。
珍しく,「いいの?大丈夫?」と言うので,「大丈夫」と返事をしておいた。
参観日も,運動会もほとんど仕事でいけないけれど,年に1回は都合をつけて参観日にいけるようにしている。
息子の授業は,国語であった。息子はチラチラと私を見て,少しドキドキしているようであった。
息子はちょっとだけ手を挙げたが,残念ながら先生は当ててくださらなかった。まあ,授業中に全員あてるというのは無理だろう。班活動の時,みんなでわいわいと活動していた。友達との交わりが感じられてよかった。
さて,懇談は体育館で,「運動会で使う道具の修理」と聞いていた。いってみると,運動会の踊りで一人一人が背負う旗のついた道具の背中の部分の裁縫であった。
持参したタオルをクッション代わりに置き,さらしを巻き,縫いつける。裁縫は何年ぶりだろう。
体育館の保護者を見ると,ほぼ全員が母親。父親は数名。
一所懸命に縫ったが,見るも無惨なできであった。下手な手術のあとのような縫い方。母親の方々は,縫い目をうまく隠しきれいにできていた。それに比べて,我が息子の分は,目立って下手であった。
担任の先生に,「すみませんが・・・」と見せると,ちょっと間があって,「だ,大丈夫です。背負うから隠れますよ」とのお言葉。
裁縫をしながら,料理も裁縫もできない自分は,一人暮らしや単身赴任はできないなと改めて感じた。
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一太郎からWordへ?(2001.09.09)
毎年のことだが,夏になるとワープロソフトのWORD(マイクロソフト社)が使いたくなる。
私は,パソコンをはじめて以来の一太郎派で,一太郎はバージョン4.3の時代からのおつき合いである。
製品がバージョンアップされるたびに,こまめにバージョンアップし,今は一太郎11を愛用している。
一太郎については,自分の仕事の範囲では全く操作に困らない。人から聞かれてもほぼ教えることができる。
ここ数年,まわりではWORD派が増えてきた。私も,それで,自分の時間が結構とれる時期(それが夏の休暇の時期なのだが)になると,「WORDに挑戦」と称して一太郎を使わずWORDにチャレンジしている。
(WORDはパソコンに最初からセットアップされている。私は,一太郎+EXCEL派であるが。)
インターネットでWORDの操作を扱っているHPを調べたり,本屋で立ち読みして調べたり,下準備をしてからWORDで仕事を始める。しかし,だいたい数日で断念。どうしても,細かな部分,特に罫線・表の部分や印刷の部分でうまくいかず,時間がかかり,「一太郎ならすぐなのに!」とあきらめてしまう。そして,改めて一太郎の快適さに満足していた。
で,今年の夏。今年は「環境」がちがった。転勤で職場が変わり,私よりも数段パソコンに詳しい方の隣になった。その方は,自分でMLを開いており,WORD+EXCELでいつも仕事をしていた。
それで,この夏,例年どおりにWORDにチャレンジしているが,今年は困ったときに,隣に尋ねることでほぼリアルタイムで解決でき,WORDでの仕事が続いている。もう,一太郎を使わなくなって半月になるだろうか。なれるとWORDの軽快さに感心している。ひょっとして,このままWORD?
(ただし,ATOK14は手放せません。日本語変換はやはりATOKが一番です。)
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古本屋さん(2001.04.14)
ずいぶん前だが,歩いて5分くらいのところに古本屋さんができた。
古本屋さんと言っても,昔ながらのこぢんまりした店ではなくチェーン店である。
本やTVゲームを買ってくれるので,家族で何度か本を売りに行った。
また,その店で,古本や中古のTVゲームを買ったりしている。
古本と言っても,ほとんど「マンガ」であるが,それでも懐かしいマンガを見つけると嬉しい。
つい立ち読みしたり,買ってしまう。
勢いで,「ドラゴンボール」や「コナン」「金田一」等は全巻そろえてしまった。
古本屋さんといえば,学生の頃は江平の歩道橋のすぐそばにある古本屋さんに行ったものだった。まだ,文学に興味があった頃なので,しみじみとじっくり本を見ては,数冊買って帰った思い出がある。今は,近所の古本屋でマンガを買う。
この落差がまた「時代」なのかもしれない。
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門司港(2001.04.12)
ずいぶん前に知人から門司港がレトロブームだときいた。
機会があれば,いってみたいと言っていた。
確かに門司港駅あたりはおもむきがある。フーテンの寅さんのロケでも使われた。
門司港駅の改札を抜けて中にはいると,レールの「起点」の碑がある。
九州の鉄道の起点という意味である。
レールがここから始まるので,ホームもちょうど櫛の歯のように広がっている。
また,駅前広場から見た門司港駅の風景も,昔をしのばせる。
門司港駅から左の道路を挟むとすぐ関門海峡。下関への渡し船も出ている。
10分くらいの船旅だが,乗ってみるのもいいかもしれない。
門司港がレトロブームだときいた。
知人には「つまり,古くさい街ってことですよ」と言ったが,
門司港駅周辺や港の外国貨物船など散策すると,それは確かに心の洗濯にはなるだろう。
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雨の立春(2001.2.4)
雨の立春。それでも巨人キャンプは賑わっている。
梅一輪 一輪ほどの あたたかさ 嵐雪
さて,この嵐雪の句。有名すぎるほどの句だが,どう解釈すればいいのだろう。
1 寒さの中で咲いている梅一輪を見つけた。そこに春を感じ,あたたかさを感じる。
2 寒さの中で咲いている梅もまだ一輪だけだ。そこに感じる春はまだ遠いと,寒さを感じる。
この「一輪ほどのあたたかさ」について,そこに小さな春を感じるか,そこに,まだまだ冬を感じるかで,解釈は全く逆になる。
さて,どっち?
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HDDクラッシュ(2001.1.27)
子ども部屋のゲーム専用機と化していたパソコン(P133 32MB
HDD810MB)のHDDがクラッシュした。
子どもから「最近,よく動かなくなる」ということをきき,スキャンディスクとデフラグをかけたら,エラーが続出。何度も何度も初期化され実行していた。で,たった810MBのデフラグに土曜日の午前中をかけ終了して,再起動をかけると,黒い画面に「システムディスクを入れてください」の表示。
何度,再起動をかけても「システムディスクを入れてください」の表示。
仕方なく,再セットアップを始めるが,初期化の段階でHDDを認識しない。「装置がありません」という冷たい表現。何度FDを入れ直して再セットアップを始めても「装置がありません」。
HDDがクラッシュ。結局,パソコンが壊れてしまった。
幸い,子どもの「ゲーム専用機」だったためデータなどはなかったが,ちょっと残念。
午後から,家内のパソコンをダイエットして,何とか100MBの空きをつくりそこにゲームをいくつかセットアップ。子どももそれで一応納得。
HDDの交換より中古のパソコンを買ったほうが安いご時世。しかし,それでも結構重宝していただけに,システムチェックをしなければよかったと反省しきりの,運の悪い土曜日となった。
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CD-RW(2001.1.25)
正月にCD−RWを買った。USB接続とPCカードのどちらにしようかと迷ったが,我が家のあと2台のパソコンにはUSBがないのを考え,PCカードのものにした。
CDRとCDRWのメディアを10枚ずつ買って焼いてみた。
CDRはデータのバックアップ。仕事のデータと個人的なデータで5まい使った。CDRWは今年の正月からの仕事と個人のデータのバックアップに2枚使っている。
CDRWを買って知ったことは,CDRはCD−ROMドライブでも読めるが,CDRWはCD−ROMドライブでは読めないこと。(少なくとも我が家のパソコンのCD−ROMでは読めない)
今まで,PDを使っていた。雑誌の付録のCDからフリーソフトなどコピーしていたが,それもCDRにまとめた。音楽のCDもつくった。
結構重宝しているが,CDRはときどき失敗する。焼いているときに仕事などでアプリを起動し使っているからだろうか?それともハードの空き容量が800MBしかないからだろうか?
まだまだ研究の余地有りである。
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成人式はもういらない(2001.1.12)
8日に行われた成人式が,日本各地で「荒れた成人式」になっていると報道されている。
高松市の成人式では,式辞を述べる市長の前でクラッカーをならし,席では酒を飲むという,傍若無人さに,非難が殺到。高松市は,この新成人5人を告訴する騒ぎになっている。
高知県では,橋本知事の「出ていけ」の発言に,新成人は「お前こそ出ていけ」とやり返す始末。
それほどひどくはないにしても,どこの成人式でも携帯電話使用,私語など,もはや「式」の体裁を保っていないようだ。(もちろん「誠実な新成人」は多くいるだろうが)
成人式が,単に「晴れ着を見せあう場」「友人と合う場」と化しているならば,成人式はもう必要ないのではないか。何しろ税金をつかってしているのだから。
新成人は「自分たちが静かに聞けるような企画をたてて欲しい」などと言っているが,本末転倒である。成人式は自分たちが整然とすごす時間であるという自覚がないようにおもう。21世紀をゆだねる若者達がこれでは,日本は早くも世紀末だ。
閑話休題。自分の成人式は,小雪の舞う寒い日であった。みんなで,「俺達の未来を暗示している」と話したものだった。「成人式=政治意識」などと引っかけて,結構議論したのを覚えている。
成人式。なぜするのかな。誰のためなのかな。
しかし,若者達も「お仕着せ」の成人式では退屈なのだろう。企画する方も,新成人も魅力を感じていないのならば,もう成人式の役割は終わったのではないか。
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みくじ(2001.1.8)
元日に,高原の狭野神社でおみくじを引いた。中吉だった。
「願い事」は「急には無理。気長に待て。」といったようなことが書いてあった。
「病い」も「医者をかえよ」とあり,他にも希望を持たせる表現は少ない。これで,中吉?と思った。
5日に,宮崎の宮崎神宮でおみくじを引いた。またも中吉だった。
しかも内容が,「私の記憶が正しければ・・・」狭野神社と全く同じ内容。うーん,これは確かに運命かもしれない。
同じみくじを引く確率はどのくらいなのだろう。そもそもみくじは何種類あるのだろう。大吉・吉・中吉・小吉・末吉・凶・大凶で7種類。それぞれに3通りのみくじがあったとして,21種類のみくじがあることになる。同じものを引く確率は,21×21で,約400分の1。
これって,実は,みくじの内容はともかく,すごいことではないんだろうか。
ところで,みくじはどこでつくっているのかな?
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タイムマシン(2001.1.7)
私の友人が15年前の筑波博で21世紀の自分宛に出した葉書が,元日に届いたそうだ。
その葉書には,「結婚しているかな」とか「子どもは何人かな」という他に,「幸せですか」と書いてあったとか。過去の自分からの葉書に,一字一字うなずく友人は,「幸せです」と返事をしているようであった。友人は「生きていてよかった。死んでたらこの葉書が読めなかった」といたく感激していた。
未来の自分へ,過去の自分からの便りが届く。これは,一種のタイムマシンではないか。
正月に,タイムカプセルを掘り返す成人達の記事をよく見かけた。彼らも,タイムマシンに乗り,8年前の自分と再会しているのだろう。そのころの想いや未来への希望など,手紙や写真やビデオに収めて,それを成人の年に再び見る。それはきっとある感慨の中で自分を,友人を見つめる機会になっていると思う。
先日,「ちびまる子」で21世紀にタイムマシンが発明されるかどうかで,子ども達がケンカをしていた。確かに,未来からの訪問者を誰も目撃してはいないのであるから,タイムマシンは発明されないのかもしれない。しかし,「過去からの葉書」や「8年前のタイムカプセル」を見ていると,実はこれが実用化されているタイムマシンではないのかなと思ったりする。
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メール(2000.10.29)
3つのメーリングリストに入っている。
一つは主に宮崎県内の仕事関係のメーリングリスト。
もう一つは日本全国の仕事関係のメーリングリスト。
そして日本全国のフリーなメーリングリスト。
一日に70通くらいメールが来る。読むのにも時間がかかる。しかし楽しい。
宮崎県内のメーリングリストには,顔を知っているメンバーも結構いるが,日本全国となるとまず知らない。本名も住所も人となりもわからない。それでも,インターネットを介してメールで語り合う。いろんな考え方や日本各地の様子が分かる。これもインターネットのよさだろう。
それと,まぐまぐからのメールも届く。
メールのチェックにだいたい1−2分かかるが,何か宮崎の片田舎でも自分の存在を感じてホッとするひとときである。
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長嶋巨人日本一(2000.10.28)
巨人が4勝2敗でダイエーを下し,19度目の日本一に輝いた。
20世紀の最後の年に20世紀のプロ野球の最大のスターONが監督として対戦したことはやはり二人の「スター性」を感じる。
ダイエーは2勝してちょっと大味な攻撃になってしまった。巨人は2敗で試合の勘が戻り,本来の実力を発揮。流れに乗り4連勝で日本一。
「アマチュアの一流を育てたダイエー」と「プロの一流を集めた巨人」では実力差が大きかったのかもしれない。それでも,ON決戦は楽しかった。
そして長嶋監督はやはり時代の認めたスターであった。
できれば,21世紀の最初の日本シリーズもON決戦で。で,ダイエーが優勝するのがいいな。21世紀は「地方の時代」ということを示してもらいたい。
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プレステと64(2000.10.20)
我が家には,プレステと64とスーファミとゲームボーイとポケットステーションがある。
プレステは居間のTVの横にあり,専用(?)の14型TVにつながれている。で,今はドラクエZ。私以外の家族がはまっている。
私はスタートダッシュに出遅れてしまい,ほとんどしていない。悔しいので,パソコンで「AMEL BROAT」と「救星主」というRPG(いずれもフリーソフト)をしている。なお,ドラクエZをかみさんはクリアしてしまい,「これから何を楽しみに生きていこう」と嘆いている。
息子もCD2枚目,娘は1枚目。いずれにせよ,会話には入れない。
で,64を寝室の21型TVにつないだ。すると,いつのまにか息子がやってきてゲームをしている。牧場物語2とかスマッシュブラザーズとかだ。
私はもっぱら実況パワフルプロ野球だが,今年の日本シリーズを何回やっても,4勝1敗で巨人。なぜだ。(コンピュータが巨人)
64のグラフィックは綺麗だ。プレステもゲームの種類の多さに感心する。
どうも,子供向けは64,大人向けはプレステという棲み分けをしている感じがする。
そろそろプレステ2に対抗する次世代ゲーム機が出てくる。つまりはネット対戦ゲーム市場をどこが押さえるかということだろう。DVDもどうなるのかな。楽しみだが,ついていけない面もある。
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ダイエー優勝(2000.10.13)
10月8日。ダイエーが1−0で優勝を決めた。V2である。
工藤が移籍し,戦力ダウンが心配されたが,それでもV2。
故障者が出ても,他の選手ががんばり,チームみんなで勝ち取った優勝だと思う。
衛星放送で中継を見ていたが,一緒に万歳をした。
さて,これでON決戦が実現した。
20世紀の日本プロ野球界のスーパースターであるONが20世紀最後の歳に監督として対戦する。神様もなかなかやるじゃないかと思う。
ダイエー優勝おめでとう。九州の心意気ここにありである。
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巨人優勝(2000.9.27)
巨人が劇的な優勝を飾った。敗色濃厚な4点差の9回裏。江藤の起死回生の満塁ホームラン。これで,流れは一挙に巨人に。そして,仁岡のサヨナラホームラン。
実は9回表が終わった時点で,巨人の敗戦を覚悟し,野球中継を見ないで「松本清張ドラマ」を見ていた。すると,「巨人優勝」のニュース速報が。慌ててチャンネルをかえると,破顔一笑の長嶋監督がうつった。
何はともあれ,巨人が優勝してよかった。ダイエーの方もマジック5。ほぼ確実にON対決が実現する。20世紀最後に,20世紀のスーパースターがチームを率いて日本シリーズを戦う。「時代」の演出としては最高である。
巨人優勝おめでとう。「金満球団」とか「外様球団」とか批判も多いが,プロは勝ってこそプロである。個性の強い選手達をまとめた長嶋監督の手腕も評価されるだろう。
次は,ダイエーがパリーグを制する番である。パリーグはオリンピック用変則日程なので,M5のダイエーの優勝はまだ先だが,楽しみではある。そして,11月にはON決戦。できれば7戦までもつれてほしいと思う。
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戸の上山(2000.9.26)
門司に戸の上山(とのうえさん)という山がある。521mの山だが,門司の地形は急斜面なので,結構海まで山が迫っている感じがする。
25年くらい前まで門司区の住民だった。小学校の頃は友達と2人で,よく戸の上山に登った。頂上まで片道2〜3時間。途中の小高い丘のところまでは小1時間の道のりだった。だいたい丘までだったが,気が向けば山頂まで登った。
登山道は,バス通りから入ると最初は森だが,森を抜けると小高い丘あたりは草原(低い笹もある)になる。そのあとは沢から森になり,山頂は草原になる。
地元の萩が丘小学校の校歌にも「戸の上の山の峰高く」と歌われている。
ところで戸の上山の思い出は,冬が多い。
北九州は冬はほとんど曇空で,雪も多い。積もるときは10cm以上積もる。山はもっと積もる。
で,雪が降って山が白くなると,友達と波板や段ボールをもって戸の上山の丘まで登った。そして,雪の丘ですべって遊んだ。服はびしょぬれで手足はかじかんだが,体はぽかぽかだった。
また中3の冬,数日来の雪がやんだ大晦日の夕方から仲間と登った。積雪は50cmくらいあった。山頂近くでテントをはって新年を迎えた。雪はやんでいたので,山頂から見る北九州や下関の夜景が見事だった。
高校の同期と卒業して別れるとき「いつかみんなで戸の上山に登ろう」と言って別れた。その約束はまだ約束のままだが・・・。
今,パソコンの壁紙は戸の上山の写真。懐かしい気持ちで眺めている。
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思い入れ(2000.9.23)
先日,「遠い世界に」という曲を偶然聴いた。
その曲は本来70年代の曲で,日本のフォークソングの初期の曲である。五つの赤い風船というグループの曲で,安保の時代に,結構歌われていた。
私は,「遅れてきた青年」で,その時代をリアルタイムで経験はしていない。しかしその曲を聴くと,新宿西口広場の騒乱や東大安田講堂の攻防などの風景が,なぜかモノクロで浮かんでくる。また,西岡たかしや,加川良,高田渡,岡林信康,吉田拓郎,泉谷しげるなどなど,当時の人々の熱い歌声がよみがえってくる。
でも,先日聴いた曲は,知らない人が歌っていた。歌い方も全然違った。ちょっとショックであった。きくと,最近は教科書に載っているらしい。
赤い鳥の「赤い花白い花」を教科書で見たときは時代を感じたものだが,「遠い世界に」ももう過去のものとして,牙を抜かれた「古典」になったのだろうか。
ビートルズといい,S&Gといい,「いいものはいい」ので,次の世代に伝えていくことは大切なことだと思う。しかし,「原風景」をもっている世代としてはちょっと,引っかかるものがあった。
それで,何か心にわだかまりができたので,カラオケで「遠い世界に」を歌った。歌詞が流れる画面の背景は,やはり70年安保だった。
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8500カウント(2000.9.21)
プロバイダをかえた。解約したプロバイダは9月まで。契約したプロバイダは9月から。
で,アクセスカウンタでちょっと困っている。
9月は同じホームページが2つ存在しているわけで,新しいアドレスをメールで送ったが,それでも,旧のHPはいつのまにか8500カウントを超えている。
契約したプロバイダにHPをうつしたときのカウントで,新しいカウントを始めたが,もとの数が変わってきているので,正確なカウントではない。そこで,とりあえず8500からスタートして,9月いっぱいで契約の切れるHPのカウントを9月末に確認し,それを新HPのカウント数にプラスしようと思う。
家族のHPというより,私個人の自己満足の世界のHPになった今,カウントがのびることは期待できないが,まあ年内(かっこよく言うと20世紀内)に9000カウントをめざしてがんばろうと思う。
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