「無くてはならぬもの」染矢睦子

今から四十年近く前のことです。朝早、二階の窓を開いて見た一面の銀世界の美しさに、人には造り出すことの出来ない神の御手を思わされ、天地創造の神の存在を確信しました。

当時既にクリスチャンになっていたいた母や妹を通して、ときどき教会へ行くようになりました。心休まる賛美やお話、笑顔の美しい婦人方に接して、受洗へと導かれました。イエスさまのことが良くわかっての受洗ではありませんでした。

そのうち、PTA活動等で、教会から離れたこともありましたが、「無くてはならぬものは多くはない。いや一つだである。」のみ言葉に出会いました。礼拝や祈祷会に出席すて、人には言えない罪を犯してしまう自分、自己中心的な自分など示され、イエス様が私に代わって十字架にかかって下さったことを、少しずつ悟らせてくださるようになりました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネの福音書14章6節)といわれるイエス様を求めて生きることが、無くてはならぬものであることを知らされました。

日々の生活の中で、聖書のみことばをいただき、祈り、神を賛美するとき、確かに、喜びと平安が与えられ、感謝することができます。七十をすぎても、不信仰になりやすい弱いものです。だから、教会に通い続け、生きる喜びを味わい続けたく願う者です。

ページのトップへ


「私が教会に行く理由」廣瀬 惠

 生まれたときから母に連れられ教会へ行きました。そのため教会は生活の一部であり、日曜日教会に行くことは自然なことでした。しかし、心の問題、罪の問題、生活の問題が初めから解決していたわけではありません。「神様が本当におられるのなら、どうして…?」と思うようなことは度々起こったし、「まあ、この位のことなら神様は許してくださる。」と、高をくくってわかっていながら罪を犯すこともありました。 今でも「自分さえ良ければいい」という意識的、無意識的な自己中心が心を占めることも日常的に起こります。しかし、聖書に「罪の支払う報酬は死です。」とあるように、神様を無視した行動や生活は底のない暗闇を見るような気がします。 一時的な満足はコップ一杯の水がしばし喉を潤すようなもので、すぐに乾いてしまいます。

私は社会福祉施設の経営や運営に携わっていますが、行き詰ってしまうようなことが度々あります。先が不透明で、解決の糸口さえ見つからないような気になります。コップ一杯の水よろしく、手軽に当座を乗り切るような方法で事に当たるとき、多くの場合傷口を広げてしまいます。さらに問題は深刻化します。このような失敗を数多く経験して、仕事の中にも神様を意識し、神様に祈り、従うことがいかに大切かを教会で学びました。神様の方法は時に厳しく、勇気と決断と痛みを必要とする場合もあります。しかし神様に従う時、神様は課題を解決されるばかりでなく、素晴らしいアイディアを下さり、必要な人材を与えてくださいます。それは想像することもできなかった喜びや安心です。

神様は教会の中だけにおられるのではありません。また、日曜日だけの神様でもありません。仕事、家庭生活、趣味、遊びどこにでも、どの瞬間にも神様はおられます。一日24時間、一年365日共に居てくださいます。そして神様は天地を創造し、自らを犠牲にしてまで人を愛して下さる方なのです。どうして私が苦しむのを喜ばれるでしょうか?行き詰った時、これは私を成長させるための課題なのだと、訓練とか試練ととらえるようになりました。そのように考え、祈って事に当たるとき、心の中は静かです。また、解決へと向かいます。しかし、教会で学んだこの事は生ものです。放っていたらすぐに腐ってしまいます。継続的な日曜日の礼拝や祈り会、クリスチャンとの交流が大切だと感じています。

<イエスキリストの言葉>
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して乾くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネの福音書4章14節)

ページのトップへ


   

「イエス様と私」西村和美

私が初めてイエス様の話を聞いたのは小学校4年生の時でした。
聖書の中に「あなたがたも悔い改めて子供たちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」という御言葉があります。私が初めてイエス様の事を聞いたのは、幸い子供の時でしたから、素直に、信じることができたのです。しかし、その後ずっと教会に通い続けたわけではありません。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と聖書にあるように、私が神様から離れていたときも神様はずっと私にまとわりついておられたのです。感謝!! また背後に私のための熱い祈りがあったことも確かです。

私は19歳の時に洗礼に導かれ、教会に帰ることができました。
その洗礼も、私の意志というよりは、友達が決心したときに、芋づる式に私も引っ張られたというのが本当のところです。しかし「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです。」と聖書にあるように受洗に至るまでの歩みもその後の一切の事においても神様の大きな摂理の中で導かれたのだという事をいつも感じています。その後はずっと教会に集い、クリスチャンの夫も与えられました。聖書の中には「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」というおもしろい箇所もあります。私はとても髪の量が多く、美容師さんによると、1つの毛穴から2、3本の髪の毛が出ているらしいのですが、その事も神様はご存知なのだと思うとちょっと笑える気もします。

「あなたがたは、今はイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」
これも聖書の御言葉ですがまさしく今の私の心境にぴったりです。神様を信じたら苦しい事がなくなって毎日が喜び踊るような日々なのかというとそうではありません。神様を信じる前も後もつらいこと、苦しいこと、悲しいことは同じようにあります。しかし、神様を信じるとそれらのつらいこと、苦しいこと、悲しいことに立ち向かえるだけのすごいパワーが与えられるのです。

聖書の中には、どのように人間が創られたか、人生の目的は何か、死んだらどうなるのかという事から、子育ての方法に至るまで生きる指針が書いてあります。聖書を読まない人生は、またイエス様を知らない人生はあまりに空しくもったいないと思います。是非、聖書を読みイエス様を知って頂きたいと思います。

ページのトップへ


「神様の約束」荒平大輔

1981年以来、日本人の死亡原因のトップは癌で、現在は3人に1人という割合にまでになったそうです。これは、平均寿命の延長によって高齢者人口が増えたことや、感染性疾患による死亡率が減少したこと、また診断精度が向上したことが要因だそうですが、恐ろしい病気であることには変わりありません。

私の母も癌でこの世を去りました。2001年5月、54歳でした。手術をして完治したと思われた乳癌が8年後に再発し、分かった時にはすでに手のつけられない状態になっていました。最後の半年はほとんど食事もできず、痛みによって眠ることも困難で、亡くなる前は見るに耐えない体でした。ここまで体を蝕んだ癌を憎みましたが、母は恵まれていたと思います。亡くなる4日前までの約1年間、自宅で闘病生活を送ることができたからです。私は母に付き添い、看病に専念しました。小さなアパートでしたが、癌と闘う環境は十分に揃いました。いつでも往診してくれる近所の医者とマッサージをしに来てくれる理学療法士。訪問看護にレンタル酸素吸入器も備えられました。琉球大学の医師と筑波大学の緩和ケア専門の医師が、宮崎の私たちにメールで指示をして下さいました。さらに、鎖骨部の大静脈に管を埋め込み、誰にでも点滴が打てるようになりました。その近所の病院に行けば、夜中でも痛み止めを処方してくれるので、経験の無い私でも安心して看護できました。思ってもみなかった本当にすばらしい環境が与えられました。医師に在宅ホスピスとしては最高の状態ですよと言われた程です。

母はクリスチャンでした。教会の方々や牧師が来て下さって、聖書のお話をしてくれたり、讃美歌を歌ってくれたり、そしていつも祈って励まして下さいました。体の痛みを抑えるだけではなく、心の平安も得ることができました。

このことを通して、私もイエス・キリストを信じるようになりました。聖書には、「死」はこの世での別れに過ぎず、天の御国において永遠のいのちが与えられているとあります。神を信じる者には、「死」は終わりではなく、永遠のいのちのはじまりである。「死」は絶望ではなく、「希望」である。この聖書のことばに私自身も本当に支えられました。近しい人の「死」を経験したことがなかったので、「死」というものがどういうものなのか、いまひとつ判りませんでした。しかもそれが自分の母親に迫ってきている。それは、「母の死」を受け入れられないというよりむしろ、受け入れたくないという思いだったのでしょうか。医者に宣告された余命はとっくに過ぎていました。少しずつ良くなっていくのではないかという希望を持ちつつも、体は衰えていくばかりです。母にとっても私にとっても、この状態はいつまで続くのだろうと不安でした。そのような時、聖書のことば、神様の約束が力を与えてくれました。この状態は失望で終わらない、たとえ「死」が来ても、その次があるのだという約束です。この約束の「希望」は、神様が与えて下さっているものなのだと。

母は「母の日」のすばらしい晴天の下、天に帰っていきました。本当に悲しい別れでした。しかし、そこにとどまるのではなく、約束の「希望」を見上げる信仰が与えられました。天の御国での再会・・・。漠然としか考えることのできなかった「死」を、「母の死」を通して、正面から考えることができるようになりました。それは、その先に永遠の世界での再会が約束されているからだと思います。悲しい別れを「希望」のしるしとして下さった神様に心から感謝しています。

ページのトップへ


「クリスチャンになったわけ」藤川和子

私は、両親がクリスチャンだったので、自然と教会へ行くようになりました。私の生まれた隣の御主人が裏に小さな教会を建てておられ、兄弟6人も救われました。

5才位から日曜学校に行き、家では父の司会で朝夕、その頃「信徒の友」という本を中心に祈り会をしておりました。でも信仰は何の進歩もなく19才になり、1956年9月、受洗しました。

勤め先の健診で肺侵潤と診断され、1〜2年の入院を強いられ、青春のまっただ中、目の前が真っ黒になり、沈んでしまいました。

その時、教会の牧師である吉間先生が訪ねて来られ、聖書を開いて次の御言葉を読んで祈って帰られました。それは、ヤコブの手紙1章2節「私の兄弟たち。さなざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」でした。それから真剣に聖書を読み、試練は神様の愛のむちであると考えるようになり、「一日一日耐える力を与えて下さい。」と祈りました。

祈りが聞かれ1年したら完治して退院、それからキリスト教保育の幼稚園で手伝うことになりましたが、2年目に眼病を患いました。結核性のもので、ほおっておくと失明の恐れがあるとの事。すぐ県病院に入院しました。ちょうど婚約したばかりで、私よりも母の方ががっくりして、県病院の長い廊下を風呂敷包みを抱えて、帰る母の後姿に涙が込み上げて来て、急いでベットに帰り枕をじっくり濡らしたものです。

そして母の置いていた荷物の中に一枚の飾り皿があり、それには次の御言葉が書かれてありました。ペテロ第一の手紙5章7節「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるのです。」

この御言葉に釘づけにされ、それをベットにくくりつけ、毎日眼球注射を受け絶対安静をいたしました。でも1年以上かかると言われた目も、三ヶ月で完全にもとの視力に回復し、主治医もびっくりされました。

25才で結婚し、東京を初めとして、12回各地を転勤、3人の子供に恵まれました。転勤の先々で、荷物を解く前に教会を探し、イエス様と交わる事が出来ました。まだ、長男のみクリスチャンですが、あと信仰継承の為に祈らねばならないと思っています。

ページのトップへ


『主は共にいて下さる』高見恭

私は、東京で生まれて、横浜で育ちました。生まれる時体内で頭をぶつけてしまい、それが原因で、それ以降、身体の不自由な子供として育ちました。幸い、運動及び、リハビリで五体満足に動かせるようになりましたが、言語障害が少し残ってしまいました。両親がクリスチャンで教会に行っていましたので、幼いころから教会に行っていましたが、当時は、ただ連れて行かれていた程度でした。

1972年、小学6年の夏、父の転勤で鹿児島に移り住み20年以上過ごしました。中学2年の時、家族と一緒に鹿児島の日当平バプテスト教会の礼拝に出た私は、兄弟姉妹に暖かく迎えられ、礼拝を守るようになっていました。当時は、宣教師の先生方が、開拓伝道をしている頃でした。

中学3年の時、進路にぶつかり、将来何をしたいのかも自分で判断出来ず、自分の力ではどうすることも出来ない弱さを感じ始め、自分の力に行き詰まり、情けない思いをしていました。そして、就職か、職業訓練校か、進学かで悩みましたが、結局、高校までは行った方が良い。ということになり、私立の高校に進学することにしました。と同時に、身体障害者としての歩みも始りました。ただ、小学校から高校まで、普通学校を出られたことは幸いでした。

高校2年になった頃には、一人で教会に行くようになり、当時の宣教師だった、ハウダ―先生ご夫妻に導かれ、福音を知り、キリストの死と復活は人間の罪のためだったことを知りました。しかし、それを自分のこととして認めることは出来ませんでした。

高校卒業後、一年間小倉の身体障害者職業訓練校で印刷の勉強をした後、鹿児島に帰り、1980年、9月7日、教会で洗礼を受けました。当時は、ウイルシ― 先生ご夫妻で、先生の2人の子供も一緒にバプテスマを受けました。また、主にお会いした時、自分の障害は、主がいやして下さるという思いを持つようになりました。そして、仕事が無いという試練に会いましたが、一年半後、神様は、クリーニング会社での就職を与えて下さいました。

教会では、青年会長、日曜学校教師助手、礼拝司会を数年、教会役員は4年間奉仕させてもらいました。今思うと、生まれてから現在まで、両親を始め、いろいろな人々を通して、主が導いて下さったのだと思い、感謝しています。

1997年4月に、父の実家のある宮崎に移り住み、現在は、ここ宮崎北聖書キリスト教会に席を置いて、自分の出来る奉仕をさせてもらいながら礼拝を守っています。

ページのトップへ

Copyright(C)宮崎北聖書キリスト教会.All rights reserved.