<勝目さんの話>
父の退職で資料を整理していたら、1985年2月14日付の読売新聞の切り抜き記事が出てきました。
父の知り合いで、戦後満州から引き揚げてきた勝目さんという人の話です。
娘と会うことができずに悩んでいたときに読んで、感動しました。
親子関係のひとつの形としてご紹介します。
新京市にいた勝目さん夫妻は、ある日、まだヨチヨチ歩きの娘の尋美さんの手を取って、市場まで商売に出た。
ものすごい混雑で、中国人の店で着物を売っているふとした間に、人込みに紛れてしまったのか、尋美さんがいなくなってしまった。
それっきり、尋美さんは見つからなかった。
「夢中で探したけれど、尋美に会うことはできませんでした。
この子がいないのなら生きているかいもないと思って、引き揚げ船にも乗らず、帰国を1年延ばして、新京に残って尋美を探し続けました。
乞食のような生活までしましたが、どうしても見つからず、とうとう日本に戻ってきたのです」
「とても見つかるまい」と思いつつも、訪日調査のたびに新聞に目を通してきた勝目さん夫妻。
新聞で中国名を秦艶君という女性の写真を見たとき、「尋美だ」と直感した。
一方、両親とはぐれた幼い尋美さんは、「捨て子の日本人」といじめられ続け、言葉では表せないほどつらい体験をした。
やがて中国人として生きていくことを決意、仕事に就き、現地の男性と結婚をした。
話せるのは中国語だけ。
日本語はまったく覚えていない。
面会当日、親子の対面まですでに40年が経過していた。
会った瞬間、尋美さんは「どうして私を捨てたの」と、勝目さん夫妻に向かって、思いつめたように声をかけた。
秦艶君となって死ぬほど悲しい思いをしてきた彼女には、どうしても聞いておきたいことだった。
勝目さん夫妻が事情を話し、通訳がそれを中国語で伝えると、尋美さんは会場の外にまで聞こえるほどの大きな声で泣き崩れたという。
40年間、ずっと胸につかえていたわだかまりが消えた瞬間だった。
今私の目の前には、本当の両親と家族に囲まれて、ようやく笑顔を見せるようになった尋美さんの写真があります。
数十年間に渡る、親子間の溝がうめられて本当によかった。
しかし、真の親子でありながら、言葉はまったく通じないのです。
戦争が引き起こしたひとつの悲劇といえるでしょう。
その後、私の祖父の自宅に勝目さんから年賀状が届き、「あちらから尋美の家族ごと引き取り、日本でいっしょに暮らすことに決めました」と書いてあったそうです。
それからどうなったかは、祖父が死んでしまったこともあり、父にも私にもわかりません。
事情により、私もめったに娘に会うことができません。
しかし、少なくとも娘が元気でいることくらいは知る手段があるし、娘が父親である私のことをどう感じているかはわかりませんが、離れていても心の中で愛し続けていれば、いつか必ずわかってくれるときがくると信じています。
勝目さんも、40年もの間、尋美さんが生きているか死んでいるかもわからなかったのに、決してあきらめなかった。
だからこそ、娘に会うという奇跡が起きたのだと思います。
私も勝目さんには負けられません。
(2000/4/9)