<2012年9月>

【エネルギー補給】 9月27日(木)



今日の夕食は、海沿いのコテージでプールサイドバーベキュー。
普通なら週末に「打上げ」「ごほうび」といったものだろう。
でもたまには逆に考えて、明日からがんばるための「エネルギー補給」もいいかなと。

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【宇宙的規模で自分を見る】 9月25日(火)

20代の頃に読んだ、『一流の条件』(山崎武也)より。
久しぶりに読み返したら、今の自分に影響を与えている部分が多かった。

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自分の外から自分を客観的に見る方法は、障害にぶつかったときや悩みがあるときにもきわめて有効だ。
しかし、怒りや悩みが大きければ大きいほど、自分を客観的に見ることが難しくなってくる。
できるだけ自分から遠くへ離れていけばよいのだが、瞬間的に遠くへ飛んでいくのは、特に怒ったり悩んだりしている場合は、なかなかできない。

徐々に自分から離れていくのである。
まず、自分から抜けだしたら、自分のいるところの屋根か屋上まで上がっていく。
高いビルの場合は一度に屋上まで飛び上がるのではなく、多少心臓に負担はかかるが、階段を一段ずつ登って行ったほうが効果的だ。
屋根や屋上からさらに上に上がっていくと、自分のいる街が眼下に見えてくる。
そこから自分を見てもまだ怒りや悩みから抜け出せないときは、もっと上に上がっていく。
自分のいる都道府県が見渡せるようになる。

そこからでも駄目なら、日本全体が見えるところまで上がっていく。
さらにはアジアが見渡せるところ、地球全体が見えるところへと上がっていくのだ。
徐々に上がっていって、このあがりから自分を見ると、普通の怒りや悩みの場合は、きわめて取るに足りないことのように思われてくる。

それでも駄目なときは宇宙の果てまで飛んでいってみる。
宇宙から飛び出してもよい。
このようにして、自分から離れて自分を見てみると、高度な客観性の実現が可能になる。
この方法で重要なのは、一度に遠くへ飛んでいくのではなく、少しずつ自分から離れていく点である。

悟りを開いた人でもないかぎり、瞬間的に遠くへ心を移すのは困難である。
遠くへ心を移したと思っても、身も一緒につれていっているのだ。
凡人には少しずつでないと、自分を断ち切ることはできない。
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こういうの、ちゃんと読んでたはずなのに、実生活にぜ〜んぜん役立ってない(笑)。
あいも変わらず目の前の人やできごとに反応し、すぐ感情的になる短気なダメ中年。
私が「セミナーおたく」と呼んでいる、学ぶばかりでいつまでも成功できない人たちと同じじゃないか。

実は他にも、こっそり次のような本を読んでいるのだ。
『怒らないこと』(アルボムッレ・スマナサーラ)
『「怒り」のマネジメント術』(安藤俊介)
『怒らない技術』(嶋津良智)
『上気元の魔法』(斎藤一人)
『ごきげんな人は10年長生きできる』(坪田一男)

それなのに、ああそれなのに。
恥ずかしーっ!
オレの奥さん、これ読んで鼻で笑ってないかな?

よし、決めた!
他のことはともかく、単純に「怒る」のはもうやめる。
特に、愛する家族の前では…。

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【夕焼けを見に行く】 9月24日(月)


家族で夕焼けを見る―。
ただそれだけのために、仕事を早く終わらせ、車をとばす。
大淀川沿いの「橘公園」を、秋風に吹かれながら家族で散歩した。

私が生まれた昭和39年、川端康成が大淀河畔のホテルに滞在し、NHK朝の連続テレビ小説『たまゆら』を執筆した。
その第一章が「宮崎の夕映え」で、物語はこの公園から始まっている。
川端が毎日窓から眺めていたのが、この夕焼けである。

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【世界一の気くばり】 9月23日(日)

私の妹の洋菓子店「かれん」で働いていた女性が、上京後に某コンクールで世界一を受賞。
一時帰省した彼女を地元テレビがインタビューした番組が、今日の夕方放映された。
修業時代は睡眠2時間でがんばったというから、たいしたものだ。

ただ、決して水をさすつもりはないが、見ていてちょっとだけ残念だったことがある。
宮崎だけのローカル番組なのに、地元で世話になった人々や店への感謝の言葉がなかったことだ。
それが若さかもしれないが、もしひと言でもあれば、みんなもっと応援したい気持ちになっただろう。

ひょっとすると、テレビ局側の編集の都合でカットされたのか。
インタビュー後半が来週放映されるらしいから、そちらであるのかもしれない。
「ひとこと」あるだけで、それこそ「世界一」の気くばりになるのだが…。

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【ただの日本人】 9月23日(日)

地元新聞の読者投稿欄に、「ちょっといい話」が出ていた。
60代女性の車が路側帯にはまっていたのを、対向車線に車を止めた男性が助けてくれた。
女性がお礼をと名前を聞いたときの、彼のセリフがいい。

「いっちゃが(いいんだよ)、ただの日本人!」

カッコイー!
思わず、その言葉をメモった。
こういう場合、なぜ自分がそう感じたのか、のほうに興味を持つ私。

「憧れる」というのは、自分がその正反対にいる証拠だ。
何かを期待して名のり、下手したら名刺でも出しかねない(笑)、俗人の劣等感といえる。
自分には無理だと、理想と現実のギャップを感じているからこそ、「スゲー」と口に出るのだ。

もし自分だったらどうするか?
私はたぶん、名は伏せるだろう。
ただし、「イイことしちゃったな〜」という、浅はかな自己満足にひたりながら。

以前、「人の小さな親切を見つけて紹介する会」といったものに入っていた。
つい見逃してしまいそうな、ささやかな善意を報告することで、少しでもいい世の中にしたい。
そんな願いがこめられた、誰からも批判されようのないグループだった。

しかし俗物である私の心の奥を探ると、こんな自己顕示欲が垣間見えた。
「私は目立たない善行にも気づいてあげられる、心細やかな人なんですよ」
「だからそんな私もまた、心優しくて温かい人間なんです」

「自分が大きい」と書いて、「臭い」となる。
「自分が」という「我(が)」が感じられると、「くさい芝居」にしか見えない。
「普通であることの勇気」「無名でいることの誇り」という清々しさから、ほど遠いのだ。

幕末の日本を訪れたシュリーマンが、税関で作業を速めてもらうためにチップを渡そうとした。
彼らは「ニッポンムスコ!(日本男児)」とポーンと胸をたたき、受け取らなかったという。
自分の仕事は、心づけなどなくても責任を持ってやる、と言いたかったのだろう。

この話を読んだとき、どう思ったか。
「カッコイー!」
ああ、私はまだまだだ…。

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【父と息子のDNA】 9月23日(日)

26歳で急死したミュージシャン、尾崎豊の息子である裕哉さんのインタビューは、何度見返しても胸にくるものがある。
当時の騒ぎを避けるため、父親のことを知らされぬまま、2歳からアメリカで生活していた。
しかし自分の生立ちをネットで調べ、尾崎の影を追い、記憶にない父と心の会話をしていたという。

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中学生の頃に、ほんとに父親のことをもっと知りたいなと思うようになって、すごいいっぱい聴いてたんですね。
歌を聴いていて、心を支えられるときもあったし、涙を流すこともあったし。
父親は、実際にこの世にはいなかったですけど、彼が残してくれた曲を通じて、言葉っていうのが常にそこにあったので、語りかけてもらえてる感じはしましたし、そういう意味では寂しくなかったです。

今やっと、父親が亡くなったという現実というか状況を受け入れられるくらい、大人にやっとなれたっていう感じで。
だからこそ、自分の父親を今探していて。
彼の意志っていうのは、彼の曲の中だとか彼の本の中だとかにちりばめられているので、それを集めて自分のものにして、尾崎豊を、父親の思いを未来につなげていけたらなと思っています。
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尾崎豊の「シェリー」から、自分の娘の名前を「詩絵里」と名づけた。
離婚で会えなくなったときはまだ3歳だったが、もう高校3年生になった。
私は1冊のエッセイ集を出し、最終章は「シェリー」として、彼女へのメッセージをつづった。

再婚が遅くなり、48歳にして、まだ3歳の息子「一織」がいる。
できるだけ長生きしたいとは思うが、いつ何があるかわからない。
私が魂こめて書き続ける文章の一文でも、彼の将来に役立つことがあれば…と願う。

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【ブレンド・イズ・ビューティフル】 9月22日(土)


今朝、息子と散歩したときに見かけた自販機の広告。
「自己ブランド」を確立せよ、みたいなビジネス書に心わき立つこともあったが、今はピクリとも反応しない。

これからの時代は、コーヒーでいえば「ストレート」より、自分の個性と経験を「ブレンド」すること。
「シャープ」な切れ味よりも、「マイルド」な生き方をすること。

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【クオリティ・ライフ】 9月22日(土)

学生時代にくり返し読んだ、渡部昇一さんの『クオリティ・ライフの発想』。
発行時の著者と同世代になった今、その「はしがき」を読み返して大いに共感した。

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数年前から私は「自分の世界を狭くする」必要を感ずるようになった。
「世の中とのかかわり合いをこれ以上ひろげない」ということである。

教師というものは一般に世間が狭い種類の人間であるが、それでも四十をすぎると、友人たちがそれぞれしかるべき仕事をしているから、いろいろな誘いを受ける。
本でも書けば原稿依頼やら講演依頼がくることであろう。
はじめのうちは、そういう依頼があると、自分の世間がひろくなったような気がして大変嬉しかったものだ。
それで大喜びで引き受けることになる。

そうすればもちろん多忙になる。
知り合いの増え方は幾何級数的になるから多忙度も幾何級数的になりかねない。
しかし人間が一日に持てる時間は二十四時間以上になることは絶対ないから、いきおい、何かを犠牲にしてゆくことになる。
こんなことに気付いたので…
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渡部さんは、数年前からさまざまな依頼を断る方針にした。
「自分に好意を持ってくれる人から提供される機会を辞退するのは罰当りのように思われたが、それはやむをえない」

私も40を過ぎた頃から、まず職場の飲み会には一切出なくなった。
特にこの4年間は、かつて交流のあった「自己啓発系」の方々と距離を置かせていただいている。
予期せぬ大けがや心の病がきっかけで、特に再婚して子どもが生まれてからは、家族との時間を最優先している。

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この意味で生活における「量の拡大」には私なりに抵抗をしたつもりである。
そのせいか、過労になることもなく、ここ数年は病気で講義を休んだことは一度もなかった。
それでも何だかんだで世間は広くなるものである。
更にストイックに自分の世間を狭く保ちたいと思っているところである。

世間を狭くすることによって、すなわち人生の「量」を抑えることによって、私はいかなる「質」を人生に求めているのか、と言えば、他人の目から見たら全くたわいのないことなのである。
私の場合、週に五日は、昼寝と散歩ができるようなスケジュールの生活を守ることにつきる。
主要睡眠時間のほかに、一日のうちもう一回、小説でも読みながらちょっと寝る時間が欲しいし、散歩はともかく毎日やりたい、ということに私の生活の「質」は尽きるのである。
そのほかには、外国の雑誌を読むために、週に三、四度はコーヒーを飲みに出かけることが、大いに幸福感を増す。

この単調さに私の生活の「質」がかかっているのであり、これを破ることがクオリティ(質)の喪失であり、クオンティティ(量)への屈服であると私は観じている。
この条件が満たされていない時には、分厚い専門書を読んだり明晰に考えたりすることは私にはできないのだ。
人それぞれの職業に応じて、生活のクオリティを維持するための、それぞれ違った条件というものがあるのではないだろうか。
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渡部さんの「昼寝と散歩」にあたる、私の「生活の質」を左右するミニマムを、こここで確認しておきたい。

(1)毎日、家族そろっての夕食。
(2)休日の朝、喫茶店でモーニング。
(3)ときどき、サウナと水風呂。

これに読書、映画DVD観賞、文章書きの時間がとれれば、言うことはない。
健康の基本である、「十分な睡眠・バランスのとれた食事・適度な運動」は、もちろん大前提だ。
ストレス・マネジメントは、副交感神経を優位にするため、何事も「ゆっくり、楽に」を心がけている。

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【今の俺に欠けているのは】 9月21日(金)



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そしてまた ヤスさんは得意の三味線を弾き始める
それに合わせて ヤスさんの奥さんが歌う
ほろ酔い気分の トーキが踊り出す

彼らはきっと ずっと昔から こんなふうに一日を過ごしているのだ
毎日おいしい酒を飲み 少し働き 絵を描き 歌い 踊り遊び…
そして 少しだけ考える

今 わかった
彼らにあって 今の俺に欠けているもの それは
心の余裕なんだ――…

マンガ『ホットマン』(きたがわ翔)
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仕事もプライベートもいちばん忙しかった時期、心に風が吹いた古いマンガ雑誌の1ページ。
昨年の大がかりな「断捨離」をサバイバルした、「ミニマム資料」の中にまぎれていた。
ワケあり家族の父親代りとして必死な高校教師が、沖縄の友人を訪れたときのひとコマだ。

あれから、十数年が過ぎた。
40代も終わりに近づいて、ようやくあの頃に求めた「心の余裕」にたどり着いた気がする。
何を生き急いでいたのか知らないが、昔の自分に「がんばったな」と言ってやりたくなった。

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【他人を変えるということ】 9月21日(金)

大学時代に通ったラーメン屋のおばちゃんのもとへ、姪にあたる中学生姉妹が預けられた。
以前から家庭環境が好ましくなく、母親から引き離したとの事情だったと思う。
二人とも美人で、妙に大人びていたので、常連の学生たちは単純にざわめきたった。

なぜか姉(仮にA子)のほうが私を気に入ったらしく、何かと用をつくってはアパートを訪ねてくるるようになった。
私にはつき合っている彼女がいて、日頃からおばちゃんにも信頼されていたので、ごく普通に接していた。
ところが向こうは積極的で、夜中に家を抜け出してきたり、自分の性体験を私に語ったりするようになった。

ついにある日、ふとした隙をついて、A子は私に口づけをしてきた。
もちろんそこで終わったが、彼女は、田舎から大阪に出てきた私の手に負えるような子ではなかった。
その後はお互いに知らんふりをしていたが、ラーメン屋ではおばちゃんの顔をまともには見られなくなった。

たぶん心の傷をかかえながらも、目立つ外見で天真爛漫なA子は、学生アパートの住民たちにかわいがられていた。
しかし明らかに生活が荒れている彼女を、もっと真面目に生きるように、みんなで説得しようという話になった。
結局母親のもとへ帰されることになった前夜、お手上げ状態のおばちゃんの許可を得て、A子をアパートに呼んだ。

A子を前にして5人ほどで、徹夜で熱く語り合った、というより一方的に説教をする形となった。
私にはA子との間に小さな負い目があり、他の男たちも少なからず彼女に魅力を感じていた。
しかしそこは一時的な正義感や使命感でフタをして、「相手のため」と自分に言い聞かせながら話し続けた。

A子は長時間、意外なほど素直にうなずきながら聞いていた。
「ここまで本気で叱ってくれる人に出会ったのは初めて」という彼女の言葉に、誰もが満足げだった。
夜が明けてきた頃、A子は私たちに「もう一度やり直す。家に帰って、ちゃんと学校も行く」と約束してくれた。

その朝、全員でA子の「新しい旅立ち」を見送った。
「A子、がんばれよ!」という私たちに、彼女は何度もふり返りながら、笑顔で手を振った。
「いやー、よかったな」そんなことを言いながら、男たちはアパートに戻り、誇らしくコーヒーで祝杯をあげた。

その数日後、私たちはいつものラーメン屋で、おばちゃんから信じられないような話を聞くことになる。
あの日A子は家になど戻らず、知り合いのチンピラに連絡して、その男と同棲を始めたというのだ。
がく然とした私たちがすすったラーメンは、しょっぱかったのか味がしなかったのか、今ではもう思い出せない。

若さゆえに衝撃的だったこのできごとは、現在カウンセラーをしている私の、大きな教訓のひとつとなっている。
「他人を変えること」は難しいというより、「まずできない」と思っておいたほうがよさそうだ。
「自分を変えること」すらできない人間が、他の人生に影響を与えようなど、思い上がりもはなはだしい。

そう書きながら、あのときのA子の気持ちが、全部ウソだったとは思いたくない部分もある。
頼りない学生たちの説教など、自由な彼女が夜を徹して聞く義務などなかったのだから。
「人に向き合ってもらった」あの夜を、その後30年の生活の中で、一瞬でも思い出してくれたと信じていたい。

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【沈黙より軽い言葉は発するな】 9月20日(木)

森本哲郎さん(作家・評論家)の随筆より。

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今から半世紀以上も前にスイスの思想家ピカートは、言葉が大量に流されて「沈黙」という背景を失い、たんなる「騒音語」に堕してしまったと警告した。
近年ではアメリカの批評家バーカーツが、エレクトロニック・コミュニケーションによって、これまで書物文化が支えてきた複雑な表現は、単純な「プレハブ言語」になりつつある、と指摘している。
とうぜん、言葉は奥深さを失い、ニュアンスを欠き、軽く、薄っぺらな者になっていくだろう、というのである。

それは言葉が象徴の機能を捨てて、単なる情報の記号へと変質することを意味している。
そのあげく、言葉はただコミュニケーションの道具としてしか使われなくなり、聞き流されるだけになってしまう。
いや、すでに現代人は、すべてを“話半分に聞く”習慣にすっかりなじんでいるのではなかろうか。
一語一語を慎重に聞く、などという余裕はないのである。
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これを読んだとき、先日やめたばかりの、あるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム)のことが思い浮かんだ。
長い間連絡が取れなかった人たちとの交流が再開する、いつでも連絡できる友人関係が広がるなど、メリットはある。
しかし、そこに書かれる内容たるや、まさに「騒音語」「プレハブ言語」のオンパレードなのだ。

私は十数年前に個人のホームページをたちあげ、コラムやエッセイのたぐいの文章を書き続けてきた。
読む人によって評価は分かれるだろうが、文責のある側としては、それこそ「命を削るように」書いてきた。
一字一句に意味を持たせ、リズムを重んじ、何度も読み返しては修正した。

「書いても書かなくても同じことは、書かない」と決めていた。
私にとって文章とは、自分の「分身」のようなものだ。
ナナメ読みなどされると愉快ではないし、たとえ反論でも、掲示板へのコメントは歓迎だった。

その後ブログやツイッター、ミクシィやフェイスブックなど、誰でもお手軽に「発信」できるようになった。
数が増えれば質が落ちるのは仕方ないとしても、「じっくりと読む」態度が消えつつあるのではないか。
自分をアピールすることに夢中で、他人の書いたものはザッと見て「いいね!」をクリックして終わり。

そのような風潮にすっかり嫌気がさして、原点に戻ろうと考えた。
今さらアナログ主義をふりかざすつもりはないが、目の前にある現実の生活に集中しよう。
SNSをチェックするヒマがあったら、1ページでも「紙の本」を読み、思索し、直接語り、本気の文章を書こうと。

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目の前の仕事をきちんとやること。
感情を抑える訓練をして余計なことを言わないこと。
周囲の人たちと強調していくこと。
これらは努力すれば結果が出てくることである。
自己PRよりずっとハードルが低くてやれることはいっぱいあるのだ。

『自分のことをしゃべりすぎる若者たち』(杉浦由美子)
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「それが沈黙より軽い言葉なら、発するな」

映画『パリ20区、僕たちの学校』
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私がそのSNSに最後に書いたのは、自分への戒めの言葉だった。
「いちいちつぶやくな」

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