<2012年8月>

【試合のない練習】 2012年8月18日

50代なのに30代に見えると自分で言っている、南雲吉則というお医者さん。
「ストレッチは意味がない」というタイトルで、本の中で次のように書いている。

「ストレッチの結果、180度開脚ができるようになることに、何の意味があるというのでしょうか。
私の場合は、前屈しても地べたに手はつきません。
しかし、だからといってストレッチをして体を柔らかくしようとは思いません。
なぜかというと、私の仕事は手術をすることで、手術をするのにそこまでの体のやわらかさは必要ないからです」

こういう割り切り方ができると、人生ラクだろうな〜。
この理屈でいくと、私の場合は次のようになってしまう。
「カウンセリングをするのに、そこまでの筋肉は使いません」
「英語授業をするのに、そこまでの格闘技術は不要です」(笑)。

それでも私は、やっぱりジムに通うほうを選択する。
密かに練習している空手も、また道場に通おうかなあ、なんて考えている。
それが自分の美学というか、ぶっちゃけ「好きだから」なんだけど。

人生は仕事以外にも、さまざまな局面があるから。
カウンセリングや英語授業以上の体力が、求められることだってあるから。
そんなとらわれから脱却できず、あいかわらず「試合のない練習」を続けている。

仕事だけのコストパフォーマンスだけ考えればいいのなら、こんな気楽なことはない。
運動もせず丸々と太って、新しい英単語なんか覚えなくても、私は十分に生活していける。
でも、それだけでは満足できない自分がいるのもまた事実。

「試合のない練習」というのは、私にとって大きなテーマだ。
かつて部活動でテコンドーを指導していたが、私が組織を抜けて試合がなくなると、誰も練習に来なくなった。
生徒たちに言わせると、「目標がなくなったから、練習の意味が見出せない」とのことだった。

私の中には旧式の武道的発想が残っているから、試合がなくても鍛錬を続ける意味が理解できる。
「たとえ一生抜くことがなくても、鞘の中の日本刀は常に磨いておく」ことに、ある種の憧れを感じる。
合気道は試合をしないというが、スポーツ化して本来の価値が失われるのを避けるためだろう。

もちろん、オリンピックがなくなれば、選手たちはあそこまでハードなトレーニングはできないだろう。
私だって、現在これといって何の目標もないから、恥ずかしながら精神的な不調が続いている。
しかし心のどこかで、目標に向かう努力とはまた別の、人間力・人生力を磨くための見えない価値観を求めている。

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【リフレーミングのパワー】 2012年8月12日(日)

山田太一さんの最新脚本ドラマ「キルトの家」を、DVDで見る。
山崎努さん演じる変わり者の老人が、主演の若夫婦と語るシーンが、私的には最大のヤマ場だった。

「辛抱は大事だ、私は辛抱がなかった。
じっくり自分を一ヶ所に閉じ込めるというところがなかった。
自分でもどうにもならない勝手なプライドがあって、傷つきやすくて、いつも鎧を着て身構えて、気に入らないと飛び出した。
私の人生、散らかったままだよ」

ああ、いつまでも中途半端なまんまの、私と似ているなあ。
私も年をとったら、こんなこと言っちゃいそうだようなあ。
そんなことを思っていたら、ワケありの新婚夫婦が、次のように言ったのだ。

夫「それで食ってきたってすごいですよ」
妻「本当、辛抱しない人生ひとすじじゃないですか

ハッ、となった。
ハウスシャービックいちご味をスプーンで削っていた手が、一瞬止まった。
私だけでなく、テレビの中のおじいさんも、ハッ、となっていた。

「おい、自分をそんなふうに思ったこと一度もないよ。
人と腹を割って話してみるもんだなあ。
ちょろっと、こともなげに、私の人生をまとめてくれた。
若いやつはすごいな。
人の目が怖いとばかり思っていたが、嬉しいじゃないか。
俺、辛抱しない人生ひとすじだったんだ
どうしてそんな簡単なことを自分では思えなかったんだ?
人と深くつきあうことに臆病で、頭が固くなっていた」

夫「ちょっと聞いただけでも、滅多にない人生じゃないかな」
深く感じ入って、うつむいたまま、泣いているような笑顔を見せる老人。
感動して、同じシーンをくり返し見るうちに、溶けはじめたシャービック。

いい年をして迷ってブレて、悩み続けている私が励まされたようで、思わず目頭が熱くなった。
オレ、「迷ってブレる人生ひとすじ」だったんだ!
リフレーミング(見方を変えること)の力って、バカにできない。

その余熱で、今日立ち寄った書店で「リフレーム」という本を直感買い。
何年か前、旧サイトで「リフレーミング」という記事を書いたことがある。
こうなったらカウンセラーとしても、リフレーミング力を徹底的に鍛えて、トシちゃんみたいに「ハッとして!Good」だ!

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【情報メタボ】 2012年8月8日(水)

私たち夫婦は、多く食べるためにバイキングに行くのではありません。
少しだけ食べるために、バイキングに行くのです


何年も前の新聞に掲載された、あるおばあちゃんの投稿文。
出張帰りの飛行機の中でたまたま目にして、今でも妙に心に残っている。

この老夫婦にとって、外食で出てくる一人分の量は多すぎる。
残すのはもったいないし、お店にも申し訳ない。
そこで、自分の好きなだけ「少し」食べられる、バイキングを逆利用するそうだ。

この気高い実践には、自分の健康的な食事量をふまえた、大人の自制心が必要となる。
私など、最初だけは冷静にサラダなど食べているが、やがて次々と目移りして欲が出てくる。
結局「腹十五分目」近くバカ食いし、パンパンの胃袋に後悔を感じながら帰途につくのがオチだ。

告白すると、私は「情報」についても、同じ過ちを犯し続けている。
何千冊もの本を読み、何百枚ものメモをとり、そのうち十件も実行に移せていない。
あれもこれもとつまみ食いするが、ほとんどは消化できず、「脂肪」として蓄積されたままだ。

まあこれは、インプット量の差こそあれ、誰でも似たようなものだろうけど。
英会話、ダイエット、幸せになる方法など、もうこれ以上はないほど情報は出つくしている。
それなのに、みんなあいかわらず英語が話せず、太っていて、不幸せなままだ。

情報という「脂肪」を燃焼させる手段として、いわゆる「断捨離」が考えられる。
私の例では去年、持っていた本をすべてブックオフに売って処分した。
思い切った決断だったが、残念なことに問題は解決するどころか、ますます悪化した。

理由のひとつは、「大量買い戻し中毒」にかかったこと。
大きな後悔に襲われ、暇さえあれば書店やブックオフに出向き、次々と買い戻すようになった。
馬鹿げたことをやらかした結果、貴重な時間とお金を無駄にし、愚行のスパイラルから抜け出せないでいる。

2つ目は、そのために資金不足に陥り、市立図書館をひんぱんに利用するようになったこと。
幸か不幸か、妻のカード併用で20冊まで借りられるので、自宅には常に未読の本が積まれた状態。
私の悪いクセで、返却日までに全部目を通したくなるから、常に気が焦っている(バカだね〜)。

3つ目は、「情報メタボ」でよく話題になる、諸悪の根源インターネットである。
私は「いい言葉」に反応するタイプなので、ネット上に数限りなく出回る名言や箴言は、体と心に毒だ(笑)。
いくらコレクションしても、これでもか!というほど日々新しい言葉と出合ってしまい、キリがない。

こうして書いてみると、自己カウンセリングの効果もあるようで、ようやく結論のかけらが見えてきた。
膨大な情報をきれいにストックしたり、うまくアウトプットできていない現実が、私の最大のストレスのようだ。
何者かから、いや自分の内側から、「宝の持ち腐れだ!」と責め立てられているような。

頭では、別にそんなことしなくてもいいじゃない、その時々でいい言葉に感心してれば、とわかっている。
しかし、役立ちそうな情報のすべてを、子どもたちに「書き残しておきたい」というこだわりから逃れられない。
そう、自分で勝手に作り出した父親の義務のプレッシャーこそ、リアルな生活を楽しめない原因なのだ。

私はカウンセラーだけど、いっそのことカウンセリング受けてみたい(笑)。
でもこれって裏を返せば、子どもたちの生きる力と出合いの縁を信頼できない、明らかな「おせっかい体質」だよね。
冒頭のおばあちゃんを見習って、情報バイキングだからこそ、情報メタボにならない上品さを心がけないと。

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【愛されていると感じるポイント】 2012年8月4日(土)

大学時代の思い出とオーバーラップして、数十回は見返した映画「フラッシュダンス」。
語り始めるとキリがなくなるが、今回はその中から、主演のジェニファー・ビールスが恋人にキレる場面を3つ。
「うらやましい…」、私は当時これらを見て、自分でも意外な感情がわいてきたことを覚えている。

その1 その2 その3

その理由は、高校時代に3年間つき合った彼女の性質にあった。
血液型がA型で、気持ちをストレートに表現せず、ケンカしても「何と言えばいいかわからない」が口癖。
「言わないとわからない」主義の、単純なO型気質である私を、いつもイライラさせた。

彼女とは、私が大阪の大学に進学して遠距離恋愛となり、わずか3ヶ月で別れた。
やさしくて人に好かれる女の子だったが、何より私の未熟さ、そして二人の相性が良くなかった。
しかしなぜか、その後つき合ったり結婚した女性たちは、全員A型だったのだが…。

その後、大学時代に4年間つき合った女の子は、その反動?で「フラッシュダンス」的だった。
大阪人だからモロ関西弁だったし、可愛い顔してけっこう気も強く、真っ向から議論を挑んでくる。
これはこれで、何だかんだ九州男児的な意識が抜けない田舎者には、なかなかキツイものがあったけど(笑)。

次に、というのも変だが、最初に結婚した前妻は、またA型気質だった。
気が弱いというのではなく、内に秘めた意思は強固なのだが、あまり外に出さないという意味で。
私も基本的には変わっておらず、お互い欠点ばかりが目立って、高校時代のパターン再現となってしまった。

この流れでいくと、男女の相性がテーマかと思われそうだが、本当にしたいのは、やや違った話なのだ。
よく考えてみれば、これまでのパートナーシップにおいて、相性とは別に「意外な盲点」があった。
それは、一緒にいる時間の長さに甘え、「相手に愛されていると感じるポイント」を伝え合わなかった、ということ。

よく、「妻は夫の出世に無関心」と言われる。
夫は家族のためと思って一生懸命仕事に励むが、どれだけ高く評価されようが、妻にとっては関係ないと。
勘違いした男はますます仕事に打ち込むが、そうすればするほど、家庭が大事な妻の視線は冷たくなっていく。

私は自他ともに認める愛妻家&マイホームパパのつもりでいるが、実際には離婚を経験した。
仕事もして、家事や育児も積極的に協力し、これ以上どうしろというんだ?というほど頑張ったつもりだ。
それでも前妻が去って行った以上、私の態度や行動が彼女の「ツボ」を見事に外していた、と認めざるを得ない。

もちろん、彼女もまた、私の「ツボ」を外している部分があった(決して批判ではなく、私が感じたまま)。
一見ささいなことだが、「私にとっては」体のツボと同じく、全体に大きな影響を与えるものだ。
それは、私の努力の成果、つまり仕事・家事・育児・趣味の出来について、直接言葉に出す評価がほとんどなかったこと。

こう書くと、大のオトナたるものがガキのように、「ほめられたいんだ〜」とダダをこねているように聞こえるかもしれない。
その通りである(笑)。
私は世間の評価はどうでもいいが、パートナーにだけは承認の欲求が非常に強い、ていうかそれが原動力。

それともうひとつ、実は心の中で思っていながら、それを言わないままため込まれるのが苦手だ。
冒頭の3シーンのように、お互いに真っ向からぶつかり合うほうが、一時的に腹は立っても信用ができる。
駆け引きは嫌い、雰囲気では伝わらない、わかりやすさこそ一番。

その意味で、今までの恋愛の中で最も「ツボ」を突かれたのが、20代でつき合ったフィリピン人の女性。
私に会うとそれはうれしそうで、その分ヤキモチもすごかったが、好かれていることが一目瞭然だった。
時には感情的なほど直球勝負で、いつでも私のことが最優先だから、深読みする必要がなかったのだ。

それで、実はここからがいちばん大切なのだが…。
私たち夫婦は先日、念のため?「愛されてると感じるポイント」を、それぞれプレゼンテーションしてみた。
すると…、よく今まで仲良くやってこれたな〜と思うくらい、お互いにハズしていたのだ(笑)。

悪いことは言いません。
現在読者にパートナーがおられるなら、「ダマされていないと思って」ぜひ一度トライしてみてください。
二人の関係性のステージがさらに上がること、まず間違いないでしょう。

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