<2012年7月>

【苦悩の現役】 2012年7月19日(木)

「著名人の○○さんが、こんなことを言われていました♪」
こういった「虎の威を借る狐」的な文章が、けっこうキライな私。
引用ばかりしてないで、自分のアタマで考えて、自分のコトバで書けや!と言いたくなる。

ちょっと前に他人のメルマガをネタにしたのも、私としてはかなり気が引けた。
もう二度とあんなマネはせんぞ、と誓った矢先、またまた共感する文章に出合ってしまって。
半分仕事で読んだ「働くプロの心の整理術」、私と同世代の長野慶太さんが書いた本の「おわりに」より。

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文中、私が苦悩の現役であることを何度も断っておいた。

究極を悟り、世の痛みから無縁の存在としてあなたに向き合うどころではなく、自分自身のメンタル管理だけでも本来精一杯な存在である。

つまり現役としていろんなことに腹を立て、くよくよと悩み、悲しみを抱えきれずに押しつぶされ、悔しくて夜の天井を眺め、他人のさりげない言葉に深く傷ついて自分のエネルギーをぼとぼととこぼしてみすぼらしく歩き、小説の賞を目指して応募しても32年間落選しては力を落とし、このオフィスから見える広大なネバダの砂漠を見つめたまま冷たく固まる。

達観して宇宙を語りながら幸福を説くのも一手であり、しかし私のように常に現場に生きている者はむしろ、自分自身の喘ぎも聞こえるタッチで読者にナマの再生ツールを(走りながら)手渡すほうが意味があると思った。

今日も続く私の苦悩や、果てしもない夢が年齢とともにどんどん遠ざかっていく(私の)風景が、あなたのなかで少しでも生かされるのであれば、それが私の幸福だ。

もったいなく、ありがたいことである。

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一見控え目なことを言いながら、実は謙虚な自分アピールだったりすることが多いが、この文章は正直かも。
カウンセラーの着ぐるみをつけて、もっともらしく問題解決やストレス対応について語る私もまた、同じ人種。
だって今でも悩んでるし、「迷ってブレて、人生論。」なんて頼りないホームページ書いてるし(笑)。

凡庸な教師は 命令する。
いい教師は 説明する。
優れた教師は 範となる。
偉大な教師は 心に火をつける。(ウィリアム・ウォード)

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

最近ツイッターとかで、哲学者めいた発言をするスポーツ選手などいるが、本人は本当に悟っているのか?
私の経験では、本当はダメダメで、自分に言い聞かせるように書いた経験しかないけど。
上のアメリカ人教育学者の言葉に当てはめれば、私はせいぜい「説明する教師」。

ああ、「おおーッ!」と言われるような斬れる名言を、絶妙のタイミングで吐いてみたいなあ。
…っていう発言自体が、すでに愚痴なんだよ(笑)。
「四十にして惑わず。 五十にして天命を知る」なんて、どこの順風満帆なお方かと思うわ。

今日も悩める人々のカウンセリングを終え、夕焼けにため息しながら帰路につく。
「あんなアドバイスして、オマエはできてねーじゃん!」と、車のミラーに映った男にツッコミながら。
でもきっと、この中途半端な立場で生きていくことが、オレの宿命なんだろうなあ…。

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【性格は宿命である】 2012年7月8日(日)

「性格は宿命である(Character is destiny.)」(ヘラクレイトス)

そうだよな〜、そうなんだよ。
人間として生まれたこと、両親、性別、国籍、身長、外見…。
それらと同じく、自分の性格もまた、ひとつの宿命なんだ。

持って生まれた性格を変えようとするから、悩みが生まれ、苦しみが始まる。
ポーカーで最初に配られたカードに、イチャモンをつけるようなもの。
人生もまた、手持ちのカードでゲームに参加するしかないのだ。

性格とは、ものごとやできごとに対する、自分なりの見方ともいえる。
カウンセリングやなんかの理論では、その見方を変えることが大切だという。
それがどれだけ難しく大変なことなのか、大人ならわかってるはずなのに。

専門家の方々は、上から目線で「変えればいい」と簡単におっしゃる。
その主張自体を変えられないご自身に、気づいておられるのだろうか。
「私は見方を変えられない」と正直に言える自分に、今すぐ変われるというのか。

不登校生徒の親が、子どもを何とかして学校に行かせようと必死になる。
子どもはそう簡単に変わらない、変わりたくても変われないのだ。
親が、子どもを変えたい自分を変えられないのと同じように。

私も50年近く生きてきて、いまだに自分を変えることができないでいる。
表面的には、多少変わったように見えるのかもしれない。
しかしそれは、社会的な技術として演じている部分に過ぎない。

ご多分にもれず、私にもいやなことや辛いことがいっぱいあった。
それらから逃れるため、たくさんの本を読み、さまざまな精神修行を試みた。
そもそもその態度に、基本的なカン違いがあったような気がしてならない。

「過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられる」
そんな俗説に惑わされて、ずいぶん時間を無駄にしてしまった。
自分を寛容な性格に変えて、問題を気にしない大きな器になろうなどとして。

だがそうすればそうするほど、ストレスの存在を証明、再確認するようなものだ。
今の私なら、こう言うだろう。
「そんなことやってないで、さっさと相手を変える努力をしたら?」

他人は変えられないとか、自分を変えたほうが早いとかの理屈の正体。
それはズバリ、相手や状況と直接向き合うのが怖い人の、ていのいい言い訳だ。
勇気を出して対象を変えようとする、努力やわずらわしさから、逃げているだけだ。

たとえば、パートナーに大事に扱われていないと感じる、寂しい現実があるとする。
自分がこれだけ尽くしているのに、いくらなんでもそれはないだろう、と。
それなら不満を表明して、たとえ口論になっても、関係改善を試みるべきだ。

ところが私も含め、多くの人が陥る間違いは、自分の見方を変えようとすること。
本当に変えるべき現実から、目をそらす。
生身の人間のくせに、現実離れした悟りの境地をめざす。

そんな無理なことばかり続けるから、ある日突然、心の中で何かが崩れ落ちる。
その結果として、他に安らぎを求めるしかなくなる。
これがパートナーシップの「見えない溝」なのだと、私は思っている。

人間は、そう簡単には変わることはできない。
見方を変えれば解決するなどといった、単純なものでもない。
ストレスはストレスだし、苦手なものは苦手、嫌いなものは嫌いなのだ。

本当の生き方は、無理しなくてもできること。
性格が宿命であるならば、その努力の方向性はズレている。

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【生きざまじゃない】 2012年7月6日(金)

先日、ハードな仕事を終わらせて帰宅し、家事育児の手伝いでヘトヘトになった夜のこと。
週2回に減らしたジムの日だったが、さすがに疲れがひどく、玄関で5分ほどウダウダ迷った。
もがいたあげく、とりあえず車に乗って家を出て、おずおずとジムのドアを開ける。

そしたら、バーベル100キロ超を持ち上げる猛者たちが、雄叫びを上げながらトレーニング中。
場の空気というのは、おそろしい。
気がつくと、当日計画していた部位である背中を、ガンガン鍛えている私がいた。

幸か不幸か、スタジオレッスンを終えたオーナーが出てきて、
「さあ、今日はどこの筋肉を追い込みましょうか!」
自分としては終わりかけていたところから、再び広背筋効きまくりの心温まるご指導が。

「今日という今日は、マジで来たくなかったんですよ。
でもイヤイヤ来てみたら、アタマおかしい人たちが鉄のカタマリ持ち上げてて、つい影響されて。
いつもこのパターンなんだけど、やっぱ来てよかったな〜」

その後、私が最近気にかけているテーマ「健康で長生き」のディスカッションに巻き込む。
果たして、筋トレは体にいいのか、悪いのか?
最近本が売れている某お医者さんは、「運動をしてはいけない」と、次のように警告する。

「あらゆる動物の心臓は、一生の間に20億回しか拍動しない。
1分間に50回、1時間に3000回、年間で2500万回、平均寿命が80年なので、ちょうと20億回。
心拍数をあげる運動を続けると、心臓寿命があっといいう間に終わってしまう」

20億回というのは、医学的に証明された事実なのか?
もし本当なら、年が離れた家族のために長生きを望む私は、一生動かずじっと寝ていなければならない。
「いかにも早死にしそうな追い込み筋トレしてるあなたがた、そのあたり、どう考えてます?」

「自分の生きざまじゃないッスね」
「ひょろい体でタンクトップ着てるヤツ、どう思います?」
「薄い胸に出っぱった腹…、死んでもイヤ」

筋肉増強をミッションとする野郎どもに質問したのが、そもそもミステイクだったかも。
しかしながら私も、ホンネとして同意してしまうあたりが困りもの。
「心拍数20億回」のお医者さんの、ゴボウのように細い体つきは、男の理想にはほど遠い。

理想としての「生きざま」と、現実としての「健康」。
どっちも捨てがたい。
結局、バランスか…。

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【今を全力で生きない】 2012年7月5日(木)

以前、成功者モドキの方々の「上から目線メルマガ」にウンザリして、片っぱしから配信解除した。
それをすり抜けて、久しぶりに届いた昨日のメルマガ、これも浮世の縁だろう。
もうひとつ同感した部分があるので、それをもとに、例によって考えながら書いてみたい。

自己啓発系のセミナーや本で、次のことがよく言われる。
「もし明日死ぬとしたら、今日何をしますか?」
「明日死んでも後悔しないよう、全力で生きよう!」

単純にハッとなる人が多いようだが、その発行者は次の理由により、いささか疑問を持つという。
「計画性もなく、とにかく全力で生きろというのか?」
「生きることでなく、死ぬことが前提でいいのか?」

そりゃあ、本当に明日死ぬとわかったら、私だってこんな雑文など書いてる場合じゃない(笑)。
慌てふためいて家族を呼び寄せ、全力投球で最後の一日を生き切ろうとするだろう。
でないと後悔するに決まっているが、これは「すぐ死ぬこと」を前提とするからだ。

「人生はマラソンなんだから、100メートルで1等をもらったってしょうがない」(石坂泰三)

42.195キロのマラソンを、ペース配分もせず、いきなりスパートをかけるバカはいないだろう。
「どこで走れなくなるかわからないんだから、いつでも全力疾走!」なんて。
でも多くの人は、「いつ死ぬかわからないから、今を全力投球!」という言葉に安易に酔う。

「毎日、最後の一日と思って生きる」というと勇ましいが、すぐスタミナ切れになるのは明らかだ。
体力や気力もそうだが、お金まで「この瞬間に全力投球!」するわけにはいかないだろう。
現に、多くのポジティブ信者が息切れを起こし、燃え尽き症候群になっている。

たしかに人間いつ死ぬかわからないし、平均寿命もそうアテにはできない。
それでも大事なのは、自分なりのビジョンを心に抱いて、緩急のある計画性を持つことだと思う。
短絡的な刹那主義に偏らず、寿命は天に任せて、その計画の遂行に「全力を尽くす」人生でありたい。

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【アマチュア文筆家のぼやき】 2012年7月4日(水)

たまたま開いたメルマガに、けっこういいエピソードが書いてあった。
発行者は本を出している人で、ネタはたくさんあるものの、自分なりの出版ペースを持っていた。
しかしハイペースで出し続ける某売れっ子著者に、次のように言われたそうだ。

「人間なんて、明日死ぬかもしれないんだよ。
死んだら、今頭の中にある情報は、一生日の目を見ない。
ネタがあるのなら、できるうちにどんどん出すべきだ」

なるほどと思った彼は、その後次々と本を出したそうだ。
「身のほど知らずだった」と、彼は当時をふり返る。
「いい本を書きたい(want)」から、「本を出すべきだ(must)」に変わってしまった。

「いい本を書いて、多くの人に読んでもらって、役立ててほしい」
そう思って書き始めたはずが、いつの間にか
「ネタの数だけ本を出さねばならない」
と手段が目的化して、本来の目的を見失ってしまった。

こういった「本末転倒」による失敗例は、私はくり返し書いて、自分を戒めようと思う。
家族と過ごす時間を削らないよう、本を出さなくなったことは以前に書いた。
根っからの文章書きである私が、今後気をつけるべきは、ホームページ更新の義務感だろう。

文筆用のノートを見ると、ざっと見返しただけでも、書こうと思えば千以上のネタがある。
できることなら、息子の日々の成長ぶりやメッセージも書き残しておきたい。
処理能力が高い人なら簡単なことだろうが、「考えるために書く」極端な遅筆の私には、無理な相談だ。

書きたい、でも本格的に書き始めると、犠牲になるものの価値が大きすぎる。
そうなると、優先順位に従って、あきらめ、手放すしかない。
たかが雑文を書き散らすことに何を大げさな、と思われるだろうが、本末転倒の恐怖は身にしみている。

冒頭のメルマガ発行者は、深く反省した結果、次のように決めたそうだ。
「本当に出したい本を、本当に出したいときにだけ出す」
要は、「他に惑わされず、マイペースを保つ」ということだろう。

本物の職人であれば、家族のことなど頭から消えて、死ぬまで自分のやりたいことに没頭するはず。
どうしよう、このままでいいのか、と「迷ってブレる」こと自体、アマチュアレベルなのだ。
分をわきまえよう、そう思いながらも、無意識の抑圧にもやもやをかかえ続ける、中途半端な私がいる。

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【臨機応変健康法】 2012年7月3日(火)

健康の秘訣が、「十分な睡眠」「適度な運動」なのはわかる。
「バランスのいい食事」「腹八分目」もいいだろう。
しかし次のように、完全に対立した主張が堂々とまかり通っているのは何なんだ。

「肉を食べるな」vs「食べろ」。
「水を飲め」vs「飲むな」。
「体を温めろ」vs「冷やせ」。
「運動をしろ」vs「するな」。

しかもこれらは本として、よりによって著名なお医者さんが主張していること。
医者であれば、エビデンス(科学的根拠)のないことは発表しないはず。
いっそのことテレビで公開討論でもやって、どっちが正しいのかはっきりさせてほしい。

ちまたに出回っている、インチキ英会話教材やでたらめダイエット法なら、笑えるからまだいいよ。
でも健康は命にかかわることなんだから、軽々しく矛盾したことを言わないでもらいたい。
家族の構成上、健康長寿をめざそうと思っても、ワケがわからなくなってくる。

土屋賢二さんは、週刊文春誌上で、ユーモアあふれる独自の健康法を提唱?している。
どんな理論にも例外があり、特定の健康法だけにこだわる発想自体が愚か、という反省によるという。
そのときどきの都合に合わせて健康法を選ぶ、「臨機応変健康法」がそれだ。

肉を食べるときは高タンパク食事法、野菜のときはカロリー制限法を実践していると考える。
まだ寝ていたければ睡眠不足有害説を選び、夜眠れないときは睡眠過多早死説をとる。
こうすると、常に何らかの健康法を実践していることになるから、絶対に健康になると(笑)。


もしそれで病気になっても、心配する必要はない。
「病気は体が発するサインで、熱も痛みも崩れたバランスの調整だから、正常に機能している」という説をとる。
仮に死んでも、そのうち誰かが「肉体的限界のサインだから、正常に機能している」と提唱するから大丈夫。

すごい説得力だ、さすがは大学教授だけある。
あらゆる健康法を24時間365日実践するのだから、今度こそ安心だ。
健康長寿を手に入れられるなら、死んでもいい。

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