<2012年4月>

【教師は世間知らずだと?】 2012年4月26日(木)

NHKテレビ「仕事ハッケン伝」は、私の「好みでない」番組のひとつだ。
芸能人が別の職業を体験して、その道のプロに厳しく指導されるというもの。
タレントさんが涙しながら成長し、最後はプロにほめられて感動、がお約束。

わかるよ、わかるんだけど、どうしても苦手なんだこういうの。
だってこっちはド素人なんだから、何一つうまくできなくて当たり前。
涙が出るのも、練習すれば上手くなるのも、いい経験になったと思うのも当たり前。

たとえば、料理人さんに弟子入りする企画だとする。
そりゃ、向こうは何十年も修行してるんだから、圧倒的有利な立場にあるのは明らかで。
弟子や視聴者から見れば、まるで神のように「錯覚」してしまうのも無理はない。

しかしその偉大な「師匠」を、逆に芸能界に連れてきたらどうか?
サッパリ売れないのはもちろんのこと、まるで使い物にならないだろう。
さっきまで怒鳴られていたタレントさんの立場は、その瞬間に大逆転する。

ただ、それだけのことなんだ。
仕事っていうのは、どんな分野にだって、大変なことがあるわけで。
未経験者が入っていけば、どれもこれも特別な、スゴイ職人芸になるわけで。

だから私は、自分の分野に相手を引き込んで、威張り散らす奴が大嫌い。
相手が未熟なのをいいことに、厳しくしても許される狭い世界で、エラそうにしてる奴。
本当に実力があるんなら、「やさしく」指導して、相手の能力を引き上げてみせろって。

そういうのに限って、自分の安心領域から、一歩たりとも外へは出ない。
ちっぽけなプライドが、一瞬で崩れ去るのをちゃんと知ってて、怖がっているからだ。
いや別に、わざわざ出て行かなくてもいいんだけど(笑)、じゃあ威張るなよって。

というわけで、みなさん謙虚になって、他人の職業はリスペクトしましょうね。
これは意外と難しいですよ、たとえ同じ職場であったとしても。
私たち教師の世界でも、どうしても他の教科や部署は、自分より楽に見えてしまうもの。

そういう意味で、一度ちゃんと書いときたかったんだけど、「教師は世間知らず」って何やあれ?
じゃあ「世間知り」がエラいのか?という議論に持ち込んでもいいのだが、それはさておき。
経験したこともないくせに、軽々しく「世間知らず」なんて言うのはやめましょうね。

私の見聞きした範囲では、「教師は世間知らず」発言がいちばん多いのが、評論家。
次点として、起業家やサラリーマン。
しかしね、あなたたちは一体誰から、その「世間」で必要な読み書きや計算を習ったの?

そもそも、学校は、「世間(=社会)」の一部じゃなかったっけ?
組織の一員として、または独立して一生懸命に仕事をしている、同じ大人では?
姑息な「税金対策」も一切せず、社会人の義務として、税金も正直に払ってますよ。

教師が世間知らずって言うんなら、職人さんやスポーツ選手、音楽家や芸術家はどうなのよ?
専門分野に集中するがため、政治経済に精通していない彼らを、「世間知らず」と侮辱しますか?
なんなら明日から学校に出勤して、毎日数百人の前で5時間授業して、担任持って部活動や生活指導もやってみる?

私は空手やテコンドーは黒帯だが、相撲や柔道の黒帯とぶつかったら、一瞬で吹っ飛ばされるだろう。
逆もまたしかりだが、それではアスリート失格の、「格闘技知らず」なのかね?
世界一のなでしこジャパンさえ、サッカーでもルールが変われば、芸人チーム宮迫ジャパンに不覚をとるんだよ。

ついでに書くと、安定している(と思われている)公務員を悪く言う人って、けっこう多くない?
私は教師といっても私立人だから、一会社員に過ぎないんだけど、妬んで公務員叩きをする気にはならない。
勤務条件や給与体系がうらやましいのなら、ちゃんと勉強して対策練って、公務員になればよかっただけのこと。

はい、以上でーす。

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【ブータン人の幸福論】 2012年4月18日(水)

結局、「要はバランスですよね」という話になるんだが…。
『ブータン人の幸福論』という本に、現地の庶民の言葉で、ちょっといいものがあった。

「ブータン人のビジネスパーソンは、朝起きてすぐに仕事のことは考えません。
 精神的なことを考え、祈るのみです」

あー、それはいいかも。
私は朝起きた瞬間から、その日の授業やカウンセリングのことを、あれこれ考えてしまう。
離婚後に、いつか見返してやるぞと、究極忙しくしていた日々の後遺症かもしれない。

短期的・狭義的には、それもまたよしで、仕事の密度が高まり、充実感を味わうことができる。
しかし長期的・広義的には、ハッピーな心を優先させたほうが、事がうまく運ぶような気もする。
だからといって、いきなりスピリチュアルの世界にハマるのは、ちょっとやりすぎ。

かのシュバイツアー博士は、次のように言ったという。

“Success is not the key to happiness. Happiness is the key to success.”
(成功は幸せへの鍵ではない。幸せが成功への鍵なのだ)

「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのである。
 楽しいから笑うのではない、笑うから楽しいのである」(ウィリアム・ジェームズ/心理学者)

そんな見方も、できるよね。
でも、「成功して金持ちになったから、シアワセ〜」のパターンも、また事実。
「ほっとけや、悲しいから泣いとるんじゃ!」と反論したくなることだって、絶対アリ。

だから最初に書いたように、「要は、バランス」。
極端から極端に走ったらいかんよ。
わかったか、息子よ?

モノが増えすぎたから、いきなり断捨離(笑)。
勝間和代のような生き方に疲れ、いきなりスローライフ(笑)。
不景気な社会だから、いきなり清貧の思想(笑)。
人間の限界を思い知って、いきなり宗教(笑)。

極端とは、思考停止のことである。
迷ってブレてもいいから、中道をいけ。
スローでもファストでもない、「ノーマルライフ」でいいじゃないか。

「ブータンでは、MBAの男性がいっぱいいるよ」

経営管理学修士(Master of Business Administration)ではない。
“Married But Available”(結婚してても恋愛オッケー)のことらしい(笑)。
もともと一夫多妻制(一妻多夫制)で、地方では夜ばいの習慣も残っていて、浮気には積極的なのだとか。

まあこれは余談だったが、ブータン人があまりに純粋に描かれがちなので、ズッコケた部分も必要かと思って。
それにしても最近、私の周りでも(職場以外です)不倫多いわ〜。
三浦友和の『相性』に、山口百恵と結婚したとき「浮気はしない」と自分に誓ったとあったが、ちょっとは見習おうね。

「10頭牛を飼っている人がいました。
 彼は親しい人に、5頭を分け与えました。
 さて、残ったのは何頭でしょう?」

実はこれ、ブータンの小学校の算数の問題。
5頭でももちろん正解になるが、算数でも人としての道を教えるのが、ブータンの教育だ。
「大切な牛を、親しい人に分けて喜んでもらう」という、人徳を含んだ表現で出題することが多いらしい。

と、いうことは、である。
「自分の牛と、その人の牛で、残ったのは10頭。みんな幸せだから、数は減らない」と言う子がいたとする。
先生は、その答えにも三重丸をあげるのだそうだ。

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【悪魔の算数・天使の算数】 2012年4月14日(土)

「義務感が諸悪の根源だった!」という講演CDで、ユニークな話を聞いた。
いつものことながら、うろ覚えをアレンジするので、正確な内容ではないが。
まずは、次の4つのパターンを見てほしい。

(1)義務感あり→行動しなかった=マイナス評価(義務を果たさなかった)

(2)義務感あり→行動した=ゼロ評価(義務だから当然のこと)

(3)義務感なし→行動しなかった=ゼロ評価(もともと義務でない)

(4)義務感なし→行動した=プラス評価(サプライズのボランティア)

で、すべての人間関係の問題は、(1)と(2)で起こるというわけだ。
相手に対して、義務感の押しつけをすることが、トラブルのもとだと。

(3)なら、そもそも義務と思っていなかったのだから、特に波風は立たない。
最高なのは(4)で、このパターンが増えるほど、愛に満ちた平和な世界になっていくのだと。
相手が喜ぶことで、こちらまでうれしくなっちゃうからね。

たとえば、あなたが自分のパートナーに、「義務感を持つべきだ」と思い込んでいる場合。
誕生日にプレゼントをくれなかったとすると、(1)のパターンで、あなたは大激怒。
もしくれたとしても、(2)のパターンでありがたみがない、つまりハッピーな気分になれない。

相手の義務と思っていなければ、何もしてくれなかったとしても、腹は立たない。
義務だなんて考えもしなかったのに、まかり間違って何かしてくれようものなら、もう大喜び。
友人や恋人にはもちろん、家族に対してさえも義務感を強要しなければ、心は平安でいられる。

一方、こちらにも義務はないのだと思えれば、相手に何か与えなくても引け目を感じることはない。
生真面目な「いい人」は、いつもこのあたりで苦しんじゃうんだよな〜。
ましてやパートナーとの共通理解があれば、誰も悩むことなく、(4)のプラスだけが増えていく。

もっともらしく書いてきたが、要するにこれ、「期待しすぎるな」の一言で終わる話じゃないか(笑)。
講師の話術の巧みさに目をくらまされて、ごく当たり前のことであると、今まで見抜けなかった。
聖書か何かの言葉だったか、「太陽の下、新しいものは何もない」のだ。

その講師は、この話を大げさに、「悪魔の数学・神の数学」と名づけていた。
それをちょっとパクって、数学の苦手な私は次の話を、「悪魔の算数・天使の算数」と命名しよう。
月の下でもまた、「新しいものは何もない」。

私が通った高校は、予備校のない田舎の進学校だから、早朝から夜まで課外と授業で拘束された。
おかげで大学では、通常の講義に加えて教職まで取ったが、あまりのラクさに小躍りした。
ところが、都会の普通高校から来た連中は、いつも「シンドイ」と愚痴っていた。

離婚して、愛する子どもに会わせてもらえない時期が、10年以上も続いた。
おかげで再婚した今、わんぱく坊主に手を焼きながら、「何でもないようなことが幸せだったと思う」。
娘を明るく元気に育ててくれた元妻と、他人の子を虐待しなかった彼女のダンナに、感謝の気持ちさえわいてきそうになる。

マイナス100メートルの暗闇にいた人間が、地上1メートルの高さにきたとする。
合計すると、数学赤点の私でも計算できるが、「プラス101メートル」である。
もともとゼロの地点にいた人が、同じ地点まできても、たった1メートルに過ぎない。

つまり、私は普通の人間より、まったく同じことで、100メートル分も幸福感が大きい体質になったのだ。
これこそ私の提唱する、ていうかさっき思いついたばかりの、「天使の算数」といえる。
地上の部分だけを見て、「同じ1メートルじゃないか」などと言う浅はかさが、「悪魔の算数」というわけだ。

再婚したとき、叔母から「アンタは、不幸なのか幸せなのか、よくわからん男やね」と言われた。
今こそ、その問いに答えよう、「たしかによくわからん」(笑)。
しかし、天使の算数でプラス101メートルを感じている今、「感謝神経」だけは磨かれたといえよう。

しかしまあ、これもまた、「足るを知る」という話に過ぎない。
パソコンの前にも、「新しいものは何もない」のだった。

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【ほったらかしで子どもの成績が上がるたった1つだけの秘密】 2012年4月13日(金)

こういったタイトルの本は、多くがマユツバだろう。
だが、実際に人が行動に移せるのは、せいぜい1つか2つだろうから、現実的といえば現実的だ。
印税を儲けるつもりなどないから、さっさと結論を書く。

「夕食のとき、『今日は学校でどんなことをした?』と聞くだけ」

質問が人の焦点と行動を変えることは、よく知られている。
では、親がこの質問を発することによって、子どもにどんな変化が期待できるか?

(1)親の質問に答えるために、学校生活の1つ1つを「意識して」行うようになる。
(2)どんなことを学んだか説明するために、授業を集中して聞くようになる。
(3)教師は真剣に話を聞く生徒を好むので、40人学級でも個人授業の状態になる。

「ほったらかしで子どもの成績が上がるたった1つだけの秘密(家庭編)」は、以上である。
ということは、「学校編」があるわけなので、正確には「たった2つだけの秘密」となる。
こんなパターンで書いていけば、ジャンク本などいくらでも出せるが、私のは本当にあと1つだけ。

長年教師をやってきた経験から、勉強ができるようになるコツは、たった1つしかない。
それは、「教師の指示通りに行動できること」だ。
偉そうに言っているのではない。

成績が落ちる始まりは、「教科書を開きなさい」「ノートに書きなさい」「ペアをつくりなさい」などの場面で、ダラダラと遅れをとることなのだ。
その証拠に、1対1の授業なら、必ず成績が上がる。
集団のときのように、ごまかしがきかないからだ。

ただね〜、どちらの方法も、効果があるのはせいぜい小学生くらいまでかな。
中高生に「今日は学校でどんなことをした?」と聞いても、素直に話してくれるとは思えない。
「授業で教師の指示通りに行動する」のは、家庭でのしつけにかかっているから、すでに手遅れかも。

いや待てよ、これはカウンセラーとして、本質を見抜けていない意見だ。
表面的には何も起こらないかもしれないけど、やはり一日の終わりには、家族に尋ねるべきなのだ。
アメリカ人夫婦がよくやる、“How was your day?”(今日はどうだった?)ってやつ。

中高生どころか、大人だってしょせんは「老けた子ども」なんだから、自分の話を聞いてほしいのだ。
昔は妻も、ちゃんと手を止めて、しっかりこちらを向いて、じっくり私の話を聞いてくれていた。
しかし子どもが生まれてからは、片手間にならざるを得ず、けっこう寂しい思いをしている(笑)。

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