<2012年3月>

【さらば自己啓発】 2012年3月15日(木)

今、自己啓発セミナーを題材にした素人小説「逆転の人生」を書いている。
言うまでもなく、ポジティブシンキング至上主義という、不自然で極端な世界だ。
悪気はないのだが、自分の中でバランスをとるため、ややネガティブな文章が書きたくなった。

私の親友の一人は、敬虔なクリスチャンである。
断固として、神の存在を信じている。
無宗教で、「迷ってブレて」生きる私のことを、いつも心配してくれる。

その流れから、私によかれと思って、キリスト教への入信を勧めてくる。
そこまで直接的でなくても、聖書を読むよう熱心に説得される。
彼に打算などみじんもなく、あくまで私と家族の幸せを祈ってくれているのだ。

私にも悩み苦しんだ時期があって、彼の好意に報いる意味でも、一度は聖書を読んでみた。
しかし残念ながら、俗人である私に残ったのは、ある種の違和感と疑問だけだった。
証明不可能な仮説を「信じるか、信じないか」の水かけ論なので、これ以上は控えたい。

「百聞は一見にしかず」の英訳は、Seeing is believing.(見れば信じられる)。
ところが宗教の場合は、Believing is seeing.(信じれば見える)となってしまう。
根拠なく信じ込めない、私のような柔軟性のないタイプには、とても難しい世界だと思う。

ちなみに、私の感性に合いそうなのは、あえて言えば仏教かな。
ただし、宗教としてではなく、「哲学」や「思想」として。
「無常」とか「見方を変える」など、心を整えるのに役立つ考え方が多い気がする。

彼は一緒にされたくないだろうが、同じような構図を持つものに、ネットワークビジネスがある。
忘れかけていた昔の知人から突然電話があり、「お茶でも飲もう」と誘われ出て行く。
するとそこにはもう一人ベテランがいて、洗剤やサプリメントを買わされる、あれである。

当人たちは、自分たちのやっていることが正しいと信じ込んでいて、悪気はないようだ。
ところがこちらは「ダマされた感」で不愉快になり、お互いに友を失うだけの結果に終わる。
誘われた側も会員となって、「布教活動」で「信者」を増やしていくのも、やはり宗教と似ている。

私にはかつて、ボロボロになった人生を再構築するため、自己啓発に励んだ時期がある。
その過程において、数百冊の自己啓発書(別名ビジネス書)を読んだ。
あとで知ったが、ネットワークビジネスに励む人たちも、この類の本を愛読するらしい。

スキルアップのため、セミナーや講演会に出ると、「自己啓発系」の方々と出会うことが多い。
そこでどうしても、スピリチュアル好きや、ネットワークビジネスに夢中な人と絡むことになる。
彼らに共通しているのは、前向きで、情熱的で、世話好きで、素直で、心に傷を抱えていること。

独立起業した人も多いが、ワクワクする直感だけで生活の糧を得るのは、現実には非常に厳しい。
そこでお互いに連携を図り、メルマガやブログで相手を絶賛し合う関係ができる。
絶対批判を書かないので、うっかり信用すると、期待外れの商品をつかまされることがある。

私が危険視するプラス思考(=現実逃避・ごまかし)で、物事のいい面だけしか見ない癖がひとつ。
加えて、たとえるならば、「地方のタウン情報誌のジレンマ」もあるのではないか。
本当はマズいラーメンでも、そのまま書くと関係が崩れるので、どうしても慣れ合いになってしまう。

自己啓発の世界では、決して科学的とはいえない「法則」を純粋に信じて、現実から目をそらしがちだ。
水に言葉をかけると結晶が変わるとか(デタラメ)、強く願うと波動が出てお金を引き寄せるなどだ(ヤレヤレ)。
「物理学で証明されている」などと広まっているが、実際に学者に確認したら、鼻で笑い飛ばされた。

それならなぜ批判しないのか尋ねたら、「議論のレベルにない」「時間がもったいない」「得るものが何もない」。
たとえて言えば、格闘技がプロレスを、「真剣勝負じゃない」と批判する不毛さのようなものか。
プロレスにはプロレスのファンタジーがあり、ガチでないものを全否定するなら、映画にも価値がないことになる。

カウンセラーの私がそう感じるだけかもしれないが、こういう人たちは「メンタル」への関心が強い。
ところがなぜか、学問としてしっかり基礎から学ぶ、地道な努力を避けたがる。
自己啓発セミナーに参加した程度で、ネット上で安易に「心理カウンセラー」などと名乗るケースさえある。

筋トレ・有酸素・ダイエットを嫌い、何の負荷も必要ない「〜だけダイエット」に走ってリバウンドをくり返す人と、同じ発想だ。
英会話でいえば、きちんと単語や文法を学ぼうとせず、「聞き流すだけで英語ペラペラ幻想」にひっかかる、オメデタイ人。
そういえば、「英語辞書をフォトリーディングしたら、英語が話せるようになった」なんて言ってた、トンデモ講師もいたなあ(笑)。

私の妻は以前、プロのカラーセラピストとしてマスコミでも報道され、セラピーやセミナーの依頼が続いた。
しかしそれをすべて手放し、今年の春からは、臨床心理士の資格取得を視野に入れ大学院に通う。
すでに産業カウンセラーの資格も持つが、さらに研究に裏付けされた理論と実践の場に身を置きたい考えだろう。

さて私だが、昨年末、すべての蔵書(多くはビジネス書)をブックオフに処分。
自己啓発やスピリチュアルに頼らざるを得なかった、過去の弱い自分に別れを告げる、私なりの「儀式」だった。
不安と懐疑の世界を「いちぬけた」して、愛情と感謝に生きる、決意の宣言でもあった。

何かにしがみついていなければ、心のバランスを保つことができない、人生の一時期一場面もあるだろう。
しかし、盲目的に信じ込む態度は、宗教だろうが自己啓発だろうが、「思考停止状態」であることに違いはない。
心を静めて、もうちょっと自分の頭で考えたいから、「さらば、自己啓発」。

そして、もうひとつ。
「ありがとう、自己啓発」。

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【息子と父親】 2012年3月6日(火)

今朝の宮日新聞に、元同僚で昨年退職した国語教諭(66)の詩が掲載されていた。
詩壇で受賞されたとのことで、Y先生おめでとうございます。
自薦詩のテーマが今の私の目を引いたので、ここに転記させていただきます。

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 息子と父親

私が笑えば お前も笑い
お前が走れば 私も走った

同心円の二人だったが いつの間にか
中心がずれ始め 集合部分はなくなった

お前は石となり 棘となり
野の風となって 青年となった

今 お前は我が子を抱き
悪戯を見つかった時の少年の瞳の色を
一瞬浮かべて私を見た

お前が産声をあげた日 私はお前を凝視しながら遠い眼差しで
約束できない約束を果たすために
未知の時を切なく抱き締めようとした

あの時の私と同じようにして
お前は少しはにかんだ

そしてお前は我が子を天に高く差し上げ
私に抱かせた

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息子が誕生した瞬間、自然と涙がこぼれ落ちてきた、あの明け方の病院を思い出した。
私と息子にもいつか、こんな心穏やかな日が訪れるといいなあ…。
45歳も年の離れた父親として、「孫の顔を見る」のが、私の人生の目標のひとつだから。

今は愛くるしい息子でも、いずれ「石となり、棘となる」時期を経験せねばならないだろう。
それは、親として当然の覚悟だと思っている。
しかし少なくとも、時代錯誤に違いないこちらが「石となり、棘となる」ことだけはないよう心したい。

女の子に間違われるほど色白の丸顔で、今朝も「ママ、チュー」とか言って、母親ベッタリの甘えん坊。
それがやがては私の上背を抜き、「うるせえ、クソババー」なんて悪態をつくようになるのかもしれない。
それもまた成長のひとつなのだと、心に余裕のある今のうちに、未来の私たち夫婦に言い聞かせておこう。

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