<2012年2月>

【中途半端にスゴイ人】 2012年2月28日(火)

最近、なんというか、「中途半端にスゴイ人」がイタく見えてしょうがない。
伝わりにくいだろうから定義すると、「ある特定の、しかも社会的にマイナーな分野でカリスマを演じている人」。
自己啓発やネットワークビジネスで、「スゴイ人がいるんですよ〜」と、その世界にハマっている人だけが賛美する人物のことだ。

いやもちろん、それがいけないと言っているわけではないのです。
人は誰でも、自由に自己を表現し、好きなように人生をデザインすればいいのだから。
それに、私自身もあわやそんな存在になりかけた、ちょっと恥ずかしい過去があるし(ネットワークビジネスじゃないよ!)。

相手の中に自分を見てしまうから、それを感じてしまうという人間心理も、十分承知している。
「美しい そう思う心が美しい みつを」に感動する人は多いが、それって「イタイ そう思う心がイタイ やすを」ってことでもあるから。
他人の悪口と思われるのは、気の弱い私としては本意でないので、あらかじめ言い訳しておく。

一昔前までは、著書(自費出版を除く)を持つことは、「スゴイ人」のイメージのひとつだった。
しかし今や、ちょっと気合を入れてブログでも書けば、誰でもジャンク本の一冊くらいは出せる時代だ。
それでもたぶん40代以上には、「本を出している人」の幻想に縛られている人が多いと思う。

そんなオジサンの一人が、先日某紙に「ショックだったこと」というテーマでエッセイを書いていた。
自分が出した本を仲間内でほめられたので、とうとう自分も著名人の仲間入りをしたと思い込んでいた。
ところが中学校に講演しに行ったら、「誰も自分のことを知らなくて、話もぜんぜん聞いてもらえなかった」と。

正直な告白に感心したが、まあ、当たり前だろう。
彼がどれだけ高いセルフイメージの持ち主だろうが、中学生にとっては、テレビのお笑い芸人のほうがずっとランクが上なのだから。
狭い世界でちょっともてはやされたところで、一般社会では誰も、そんな人の名前など知りはしない。

地球環境を守れと警告するエコロジストっぽい人にも、「何だかなァ…」と思ってしまう人がいる。
都会から宮崎まで講演に来るわけだが、まさか空気を汚染する飛行機や車を使ったんじゃないでしょうね?(笑)
失礼ながら、そんなイジワルを言いたくなるほど、矛盾がいくつも見え隠れする。

やたらポジティブで前向きな話ばかりする人、一般社会ではありえない肩書き?を名乗り、悦に入っている人。
波動が伝わるとか(伝わりません)、運はコントロールできるとか(できません)、水に「ありがとう」を言うと美しい結晶になるとか(なりません)、脳は10パーセントしか使われていないとか(ウソです)。
そんな「エセ科学」を信じてついて行く人たちって、そこまで現実を生きる生活者としての自信を失っているのだろうか。

逆に、決して有名ではないが、きちんと仕事をしていて、本当の意味で「スゴイ人」はいるものだ。
たとえば福祉や医療関係で、弱者のサポートに真剣に取り組んでいる人たち。
表面的な光は当たりにくいものの、彼らの日々の地道な取り組みには本当に頭が下がる。

では、これからの私はどうありたいのか?
「普通であることの勇気」を持って、妙な色気など出さず、家族のためにちゃんと働くこと。
でもそれってある意味、「中途半端にスゴくない人」なんじゃ?(笑)

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【下を向いて歩こう】 2012年2月17日(金)

出所がはっきりせず、内容もうろ覚えで申し訳ないのだが。
実話だということであるし、たしかにあり得る話なので紹介したい。
以下に出てくる金額など、私が適当に書いたものなのであしからず。

100億の資産を持っていた大金持ちが事業に失敗して、残った1億円が全財産となった。
「資産が100分の1に減ってしまった、もう終わりだ」
悲観にくれた末に絶望した彼は、自殺してしまったという。

「1億円!? ほとんど一生働かずに暮らせるカネじゃないか!」
私たちからすると、そう驚かざるを得ない。
ところが彼にとって、1億円はゼロに近い金額だったのだ。

しかし、次の話はどうだろうか。
自分自身に起こったこととして、リアルに想像してみてほしい。
あなたはリストラで無職になった上に、儲け話にダマされ、100万円あった貯金が、残りわずか1万円に。

自殺するかどうかはともかく、これは普通の生活者にとって、かなりの痛手といえるだろう。
それでも、世の中にはきっとこう思う人がいるはずなのだ。
「1万円!? ホームレスのオレなら、半年間は贅沢に食えるぜ!」

下を見るとキリがない、もっと上をめざせ。
そう言われ続けて(自分に言い続けて)、いつもヘトヘトに疲れ果て、ついにはうつ病になって自殺。
しかし、無一文どころか借金をかかえても、前向きに生きられる価値観も存在することは覚えておきたい。

上ばかり見ていたら、足もとの石につまずくこともある。
下を見て歩けば、たまには百円玉くらい落ちているかも。

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【死は突然訪れる(2)】 2012年2月16日(木)

有名人が亡くなると、すぐ興奮してブログやコメントに書く風潮が、あまり好きではない。
すっかり忘れていたのに、死んだとなると、「信じられない」「好きだった…」などとコメントするのも恥ずかしい。
とはいうものの、格闘技オタクにとって、K-1四天王のマイク・ベルナルドさんが自殺?したのは驚きだった。

うつ病だったとの情報もあるが、そもそも格闘技をやる人には、メンタル面で弱い人が多い。
自分が弱いと自覚しているからこそ、強くなりたいと願い、空手を始めたりするわけだ。
ライオンや熊に鍛練が必要ないように、もともと強い人(または弱さに無自覚な人)は、強さには無頓着なのだ。

まったくの余談だが、最近のキーワードのひとつである「幸せ」も同じだろう。
もともと幸せな人は、「幸せとは何か」などと論じたりしないし、「幸せになりたい」と願うことはない。
つまり、本やセミナーでそんなことばかりやってる人は、皮肉なことにますます「不幸せ」を感じてしまうのだ。

さて、2月1日に書いた「死は突然訪れる(1)」。
「死んだら終わり!」
そう結論づける一方で、こんなことも考えた。

健康な私も、病んだ私も、大ケガをした私も、まぎれもない私。
上機嫌な私も、不機嫌な私も、元気な私も、落ち込んだ私も、私は私。
それでは、「死んだ私」は、もう「私」ではないのか?と。

こう思ったきっかけは、最近よく本を出している外国の仏教の長老が、次のように語っていたことだ。
「生きとし生けるものが幸せでありますように」
この祈りこそ唯一最高の祈りで、キリスト教をはじめとする他の祈りは本物の祈りではない、と。

ちょっとだけ疑問に思ったのが、「じゃあ、“死せるものの幸せ”はどうなるの?」ということ。
うちの近所のおじさんとか、すでにこの世になくなったもの(動植物含む)の魂は、その祈りでは浮かばれそうにない。
どうせ祈るのなら、「すべての存在が幸せでありますように」みたいな感じがいいんじゃないかなあ。

肉体が現世からなくなっても、状態が変わっただけで、その人はやはり「人」なのだと認めておきたい。
たしかに死んだら「ひとつの終わり」だが、残った人の心の中の関係性として、「別の始まり」ともとらえられる。
家族にだけは理解しておいてほしいが、いずれそうなるだろう「そこにいない私」も、ひとつの「私」のありさまなのだ。

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【自己重要感】 2012年2月15日(水)

数年前の話になるが、結婚披露パーティーのスピーチでいちばん印象に残ったのが、友人Sさんだった。
何のことはない、「私の」具体的なエピソード、それも私を高く評価してくれる内容だったからだ。
他の人たちの話ももちろんよかったが、どこか「スピーチする自分」の緊張感にとらわれている印象だった。

不朽の名著『人を動かす』の著者、デール・カーネギーさんは断言する。
人が動く地上最強にして唯一のキーワードは、これだと。
自己重要感

英語で「セルフ・エスティーム(self-esteem)」だったかな。
「自分が重要な存在として扱われる」ことに対する、身を焦がすような欲求だ。
これは私のような小市民に限らず、どんな立派な人格者も逃れられない心理といえる。

小市民などと書きながら、さり気なく謙虚さを アピールするのもまた、自己重要感(笑)。
そこまでわかって書いているんだぞと、賢さをアピールするのもまた、自己重要感(笑)。
この3行の字数を何とか合わせて、こだわりをアピールするのもまた、自己重要感(笑)。

理屈でわかっていながら、実際にこの知識を活用している人は、驚くほど少ない。
その理由もまた、自分中心の「自己重要感」だから始末が悪い。
私も先日、職場で似たようなことをやらかし、反省した。

カウンセラーとして、職員会議で教育相談室の状況を説明したときのことだ。
不登校状態になっている生徒たちの様子と、その対応をあれこれ語った。
しかし、いちばん大事なひとことを抜かしてしまった。

「担任の○○先生、いつも相談室に顔を出していただき、ありがとうございます」
学級担任は、40人以上の生徒をかかえており、1人でも不登校の生徒が出ると本当に大変なのだ。
経験者として痛いほどわかっていながら、ちょっと立場が変わると、もう感謝の言葉を忘れてしまう。

優れたスピーチの第一条件は、話の内容でも、わかりやすさでも、話し方でも表情や服装でもない。
「話の中に、個人名を入れること」である。
これほど聞く側の自己重要感を満たす方法は、他にない。

忙しい職場にいると、悪気はないのだろうが、他の人の自己重要感を見逃すやりとりが多く見られる。
たとえば最近では、入試問題のふり返りの会議。
平均点や問題形式がどうのこうのと議論したが、誰一人「作問担当の方、お疲れさまでした」とは言わなかった。

それで思い出したのだが、先日私がある大きな仕事の結果を持って、上司たちに報告に行ったときのこと。
ほらね、過去をふり返ると、たとえ最初に楽しかったことを考えても、そこから連想して不愉快だったことまで思い出す。
だから禅の世界では、「良いことも含めて、過ぎたことは何も考えるな」と教えているのだ。

余談はともかく、その結果について、あれやこれやとフィードバックはあった。
しかし、「ご苦労さん」のたったひと言がなかったのだ。
これほど、部下のモチベーションを下げる「秘訣」はない。

経営に直結する仕事でさえこの調子だから、オトーサンたちの家庭におけるコミュニケーション能力は、容易に想像がつく。
きっと奥さんに対しても、「ねぎらい」や「いたわり」の言葉ひとつかけていないだろう。

披露宴のスピーチの話に戻るが、自己重要感という観点から、「これはすごいかも」と思ったものがある。
「え〜、苦手なスピーチを頼まれまして、昨夜まで何を話そうかな、と考えていたのですが…」
そういうどーでもいい「自分自分自分」レベルとは正反対の、その会場全員の自己重要感が満たされるスピーチだ。
聞いただけで書き取ったわけではないから、思い出せる範囲で再現してみる。

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本日はこのような素敵な場にお招きいただき、誠にありがとうございます。
何よりも次の方々に、心から感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

新郎新婦を、これまで一生懸命に育ててこられたご両親。
温かく見守ってこられた、おじいちゃん、おばあちゃん、ご親族のみなさま。
喜びも悲しみも分かち合ってこられた、お友だちのみなさん。
そして何より、私たちに愛の素晴らしさを教えてくれた、新郎新婦のお二人。

このような素敵な会場を準備してくださった、ホテルと、ブライダル会社さん。
お二人の衣装やメイク、髪を担当された、美容師さん。
テーブルのお花や、音響、照明で披露宴を演出してくださる方々。

とても美味しいごちそうを作ってくださった、シェフと、料理担当のみなさん。
私たちが心地よく過ごせるよう、忙しく動き回っておられる、ホールスタッフのみなさん。

この素晴らしい披露宴にかかわったすべての方に、改めて感謝したいと思います。
みなさま方お一人お一人のおかげで、この会場にいる全員にとって、今日は最高の一日となりました。

新郎新婦のお二人をはじめ、みなさまのご健康とお幸せを、心よりお祈りいたします。
本日は、本当にありがとうございました。

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【スターティングノート】 2012年2月12日(日)

エンディングノート」、これはいい映画だった。
末期がんで死に向かう父親を、実の娘であり監督でもある、砂田麻美さんが撮影した作品だ。
そう書くと暗いイメージになりそうだが、砂田監督の類まれな才能による編集で、むしろ明るめに仕上がっている。

私の隣には、金髪の兄ちゃんかオッサンか微妙なオトコが座っていた。
その彼が、映画の途中で何度も涙をぬぐうのだ。
会場の中からも、すすり泣く声が多く聞かれた。

大人になれば、見かけではわからない人生の重さに、それぞれが耐えている。
笑顔や淡々とした表情の奥で、他人には想像もつかない十字架を背負っているのだ。
そう思いながら、私もつい涙してしまった。

上映が終わると、ほぼ満席の会場から、自然と拍手が。
私の記憶では、たぶん映画館において初の体験だ。
自らの死を正々堂々と段取って、見事に逝った父親と、最後まで撮り続けて映画にした娘への拍手だったと思う。

宮崎は昨夜が封切日で、上映後には対談形式で、砂田さんのトークショーが行われた。
「小柄でかわいい女の子」という印象で、映画との意外なギャップに驚かされた(実際は33歳らしい)。
しかし話を聞いて、彼女の頭の良さと映画センスの高さに、すっかり魅了された。

「本人と実際の家族が出ている記録映画で、生の感情がリアルに出ていて感動した」
単純にコメントする対談相手に、彼女はやんわりと異を唱えた。
これはドキュメンタリーというより、演出を駆使した「フィクション」ととらえている、と。

映像自体は本物だが、他人がひとつの視点をもって編集した以上、それはフィクションといえる。
事実ではあるが、真実ではない。
ある意味、自分自身の人生さえ、「私」というフィルターを通したフィクションかもしれない。

この映画に出てくる映像は、なんと砂田さんの中学時代から撮り始めたそうだ。
娘として揺れ動く感情と並走する、いやひょっとするとそれを超える、映画監督としての客観的な目。
それが「エンディングノート」の本当のすごさであり、決して「お涙ちょうだい」の映画ではない。

余談になるが、カウンセラーとして断言できる、生き抜くためのキーワードはこれ。
客観視
自分の人生を、まるで映画でも撮影するように、少し離れた場所から第三者として眺めるスタンス。

「終活」とはまさに、「生活」(生きる活動)。
「エンディングノート」とは、残された人々のための「スターティングノート」。
私は、そうとらえた。

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【死は突然訪れる(1)】 2012年2月1日(水)

「これが、この人と会う最後になるかも」
人と別れるとき、妻はそう思いながら、笑顔を忘れないようにしているそうだ。
その人との「最後」が、ケンカ別れや、ふてくされた表情で終わらないように。

「ああ、おれは幸せだ〜」
夜寝る前、眠っている息子を見つめながら、私は毎日のように妻にそうつぶやく。
もし明日の朝目覚めることがなくても、夫は(父は)幸せに死んでいったのだと思えるように。

近所のおじさんが、磯釣りをしていて高波にさらわれ、亡くなった。
日課である小犬の散歩中、私たちや息子にも話しかけてくれる、とても感じのいい人だ。
私の20歳上ながら若々しく、「死」のイメージからは最も遠いタイプだった。

ある日突然、人生は終わる
誰でも、いつでも、何でも起こりうる

そんな事実は、この歳になれば十分に承知している。
しかしそれは「頭で」であって、どうしても心は揺れる。
今でも実感がないが、いつも車庫に停めてある車も、もうそこにはない。

おじさんを最後に見たのは、日曜日の朝、私がモーニングに行く前だった。
私たち家族を、奥さんとニコニコしながら見ていた。
まさかその翌日、海で死ぬなんて、本人は夢にも思っていなかっただろう。

奥さんを喜ばそうと、釣りをしていて事故に遭い、おじさんは亡くなった。
私も妻を喜ばそうと、夢中で写真を撮っていて大怪我をし、かろうじて生き残った。
「たまたま」だ、私が死ななかったのは、たまたまそうなっただけなのだ。

おじさんは、あと十数年間は、生きるポテンシャルを持っていたはずだ。
しかし、複雑な運命のタイミングが重なりあって、それらすべては無に帰した。
死んだらダメだ、死んだら終わりなのだ。

私は今歯の治療をしたり、筋肉を鍛えたりしている。
しかしそれらは、死ぬことを思えば、そう重大な条件ではない。
生きているだけで80点」、これが正解にいちばん近いのではないか。

死なないでいよう、できる限り。
死の危険性があるものからは、つとめて距離を置くようにしよう。
妻と息子のためにも、それが最優先だと、今回は思い知らされている。

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