<2012年12月>

【今年最後のゴタク】 12月31日(月)

窓ガラスをきれいにするなら、どちらか片面ばかり拭いてもダメだ。
表と裏、両面を磨かないかぎり、透き通ることはない。
体と心の両方を持つ人間の成長もまた、似たようなものだと思う。

体ひとつとっても、外側(筋肉)ばかり鍛えていたら偏ってしまう。
内側も同じように鍛える必要がある。
それが食事であり、呼吸であり、睡眠だと思う。

心にしても、思考と精神のバランスが大切だと感じる。
考えすぎて頭でっかちになったり、スピリチュアルに傾倒して現実から逃げてはならない。
ポジティブすぎるのも、ネガティブすぎるのも、心の病気のように見える。

「こだわらない」と言い過ぎるのも、恐れや不安のカムフラージュではないか。
「こだわらない」ことに、こだわっているだけだ。
私自身は、目標までの過程には徹底的にこだわり、結果は手放すよう意識している。

一歩間違えば、中途半端。
バランスがとれれば、中道の悟り。
だから私はこれからも、迷ってブレて、人生論。

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【友あり遠方より】 12月27日(木)

大阪の大学時代の友だちで、今は北海道に住むK君から、突然メールがきた。
今、車で宮崎に向かっていると。
パートナーと二人で、九州旅行中とのことだった。

K君とはESS(英語研究会)で知り合い、極真空手の道場にもいっしょに通っていた。
集団行動の苦手な私と違って、人を集めて楽しませる才覚に優れ、哲学好きでもある。
今年6月に大阪であったESSの同窓会も、彼が国内外のメンバーに声をかけて実現した。

ホテル近くのカフェでおち合い、そのまま深夜まで熱く語りあった。
K君はどうか知らないが、私は彼と何時間話し続けても、これでもう十分という気にならない。
彼の考え方についても、私の文章についても、それだけ微妙な部分を掘り下げていくからだ。

でも本当は、話の内容や意見が合う合わないなど、私にとってはそう重要なことではない。
「じゃあ、またな」と握手をして別れた瞬間、「よし、やるぞ!」という気持ちになれること。
それが私の大切な友だちの条件であり、彼はその数少ない存在の一人なのだ。

ところで今回K君から、とても驚く悲しい話を聞いた。
ESSで同学年だったO君が、数年前に亡くなっていたのだという。
同窓会のあいさつで、みんなに伝えるか迷ったが、結局言わないことにしたそうだ。

真面目で地味なO君には、忘れられない思い出がある。
大学受験の願書に、「特技入試」という欄があった。
高校時代に英語弁論大会で全国入賞していた私は、深く考えもせず○印をつけた。

入学後、大学本部から呼び出しを受け、特技入試生の義務としてESSに入れと言われた。
独立独歩で英語をやってきたし、特待生として奨学金などをもらうわけでもない。
私は断ったが、それなら合格は取り消しだという。

組織色の強いESSは、案の定、当時の私には違和感だらけだった。
2回生までは一生懸命演じつつ、少しでも溶け込もうと努力したが、やはり無理だった。
活動に出なくなった私の様子をうかがいに、アパートにやってきたのが、温和派のO君だった。

私の「告白」を聞き、初めて本当の理由を知ったO君は、その後の対応を真剣に考えてくれた。
「では、あくまでも内部だけで、休部扱いという形にしよう。それなら問題は起きないだろう」
私は彼のおかげで、とても充実した大学生活後半を送ることができたのだった。

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【ひとりツイッター(4)】 12月26日(水)


世間のみなさんより一足お先に?本日で今年の仕事納め。
仕事を終えて駐車場に出るとき、いつもホッとひと息つくのがこの場所。
校舎の間から見える夕焼けが、疲れた心を癒してくれる。

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息子の保育園の発表会(12/15)を見に行く。
忍者の踊りと、「三びきのやぎのがらがらどん」の劇をした。
明け方まで体調が悪かったが、咳き込みながらも大きな声で大役を果たしていた。

娘のときは、情報を得てこっそり行ったのだが、当日は病欠でステージに姿はなかった。
ガッカリした両親に申し訳なく、3人で会場をあとにしたのを覚えている。
息子よ立派だったぞ、今回も祖父母と父のリベンジありがとう(涙)。

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勤務先の元校長が亡くなって、おくやみ欄に奥様のメッセージがあった。

「夫 ○○○○(八十七歳)儀十二月十一日永眠致しました
信念を持って生き家族を愛した穏やかな一生でした
卒業生の皆様のお陰で幸せな教育人生を送ることが出来 感謝しておりました
生前のご厚誼に深くお礼申し上げます
なお葬儀は十二月十四日近親者のみにて相済ませました
また誠に勝手ながらご弔問・御供物等は故人の遺志により一切ご辞退申し上げます

なんと潔い、シンプルな、人生の決着のつけ方だろう。
彼の影響力をもってすれば、この上なく盛大な葬儀もできただろうに。
ずっと小物な私だが、男としてはぜひ見習いたい態度だ。

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40年間、用務員さんとして働いた「おじちゃん」が、本校を去るときのあいさつもよかった。
万感の思いもあろうに、とても短い言葉だったから、十数年経った今でも覚えている。

「いろいろなことがありました。
またどこかで見かけたら、おじちゃん!と声をかけてください。
今までありがとうございました」

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私は、肉体は魂の器のようなものだと感じており、死んだらそこまでと思っている。
だからこそ、生きる間にどこまで心が成長できるかを、人生のテーマとしている。
ありふれた通夜や葬儀は不要、戒名もいらないし、すべては残った人の好きにしていい。

墓のこともこだわらず、妻や息子の心の置きどころがあれば十分。
もし墓碑銘のようなものがあるとすれば、それは来てくれた人のために。
「今日はありがとう。帰りは気をつけて」

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12/14のつぶやきで書いた、友人M君の若すぎる死を、くり返し思う。
奥さんが朝起きたら、嘔吐したまま事切れていたという。
子どもたちを残して、さぞ無念だったことだろう。

最近、朝目が覚めたとき、思わず手を合わせてしまう。
ああ、今日もちゃんと生きてる、と思って。
昨晩寝たのが永眠ということもあるんだ、この年になれば誰だって。

もし私がそういうことになっても、あまり気には病むな、妻と息子よ。
私は毎晩、「ああ、幸せだな」と思いながら眠りについている。
つまり私は幸せのまま、この世を去ることができたのだから。

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年末に家族3人が病院行きになった上、嘔吐下痢でさんざん苦しんで、考え直したことがある。
仕事もプライベートも、突発的な出来事が起こること込みで、プランニングせねばならない。

目的地までの計画を立てても、交通事故や工事中など、運に左右されることもある。
いっぱしの大人なら、それらすべてを「想定内」として、落ち着いて対処できるようでないと。

ありきたりだが、普通に生活できることのありがたさ、というのも覚えておきたい。
「のど元過ぎても熱さを忘れるな」だ。

久しぶりに仕事をこなし、夕焼けを見ながら駐車場に出たとき、踏みしめる一歩一歩の喜びを味わった。
今この瞬間、太鼓を前にハチマキでも締めて、感謝の乱れ打ち!みたいな気分。
日々の生活は、痛みや吐き気がないだけで幸せなのだ。

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「お客様へ
いつもご来店ありがとうございます。
クレイトンハウスは、小さなお子様連れのお客様にも、安心してお食事をお楽しみいただけるように、店内設計を行っています。
また、店長をはじめスタッフ皆、子ども好きですので、安心して小さなお子様と起こしください」

たとえ営業戦略だとしても、こういう店はヒイキにしたい。
以前好きだった喫茶店には、「子どもお断り」なんて書いてあって、二度と入れなくなった(笑)。
残念ながらもうなくなってしまったが、あるラーメン屋さんには、次のような貼り紙があった。

「子どもは、食べるときにこぼしたり、汚したりするものです。
私たちが子どもの頃も、みんなそうでした。
もし子どもさんが食べ物をこぼしたり、飲み物を倒したりしても、どうか怒らないであげてください。
喜んで片づけますので、どうぞご遠慮なく声をおかけください」

その一方で、不景気だというのに、客に「お金を使わせてくれない」店が多いのはどういうことか。
配慮のない応対とか、ひと手間が抜けているとか、とても気持ちよく利用する気になれない。
人は人から買うのに、中途半端な社員教育の悪影響、経営者は本気で考えているのだろうか。

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好き嫌いや気分なんて、そのときどきでコロコロ変わるから、まったくあてにならない。
天気予報の「晴れときどき曇り、ところによっては雨」みたいに、何でもあり。
いい悪いは別として、人とはそういうものだ。

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息子と私の看病で大変だった妻のために、洗濯物をたたんでいると、息子がふざけてその上に乗る。
「コラー!」と叱ったら、妻が「いいじゃない、それくらい」。
これにはムカっときて、ちょっとした口ゲンカに発展(1時間後に仲直り)。

洗濯ものがグチャグチャになる「できごとそのもの」は、もちろん「それくらい」だ。
ではなぜ「それくらい」のことで、大の大人が機嫌をこわしたのか?
そこに思いを向けて見通さなければ、相手はつまらんことですぐキレる、ただのおっさんだろう。

夫婦を含む多くの人間関係は、ものごとの表面だけをとらえて反応するから、トラブルになる。
相手がその行為にどんな思いを込めているのか?ということこそ、「観る」べき部分だろう。
たとえば今回は、私は妻に楽をさせてやりたい気持ちを、軽く扱われた気がした。

一方で妻は、息子のささいなイタズラをかばっただけのことだ。
ポイントは、誰一人として悪気でやった者はいないということ。
それでも、ちょっとボタンをかけ違うと、とんでもない事態に発展することさえある。

突き詰めすぎだろうか?
放っておいて、自然に収まるパターンをくり返したければ、そうすればいい。
火ダネが小さいうちに話し合い、ひとつひとつキチッと決着をつけていくスタイルもある、ということだ。

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生徒の作品を集めた文芸集で、ある男子生徒の詩の中の、次の言葉が目に止まった。

「私の父はイチローでもビルゲイツでもなかったが
日曜以外は会社に行き
休日には家事の手伝いをする父が
私には百点だった」

ちょっとホロリときた。
やっぱり息子には、父親として尊敬されたいし、好かれたい。
その赤点ギリギリの点数くらいは取れるように、いつかなりたいものだ。

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【契約書のない契約】 12月25日(火)

少し前のことだが、近所のアパートの一室から、奥さんの怒声と子どもの泣き声が響きわたった。
どうやら子どもを叱っているのではなく、ご主人に対して感情をぶつけている様子だ。
聞くともなしに聞いていると、まだ若い夫が遊びに夢中になり、家庭をほったらかしにしているらしい。

ある女性専用サイトに、夫婦関係のストレスで、子どもにあたってしまう女性の悩み相談があったそうだ。
共働きで奥さんも疲れているが、夫が家事や育児をまったく手伝ってくれないという。
どちらの家庭も、奥さんも子どもも(ある意味ご主人も)気の毒なことだ。

悪い例と比較されたおかげで、彼らよりも少しマシらしい私は、予定外に妻からほめられる結果となった。
わが家は結婚以来、妻が働いていて、今年からは大学院に通っている。
いわば共働き状態だから、言うまでもないが、家事と育児は分担している。

たとえば、妻が料理をすれば、私が皿を洗う。
相手が掃除、洗濯とくれば、こちらは風呂掃除やゴミ出しなどの力仕事。
息子はその様子を、ごく普通の風景として見ていることだろう。

だが同世代の友人知人らの話によると、ダンナはほとんど何もしない家が多いようだ。
男友「最初がカンジンだったんだよ、奥さんを甘やかしたな?」
女友「それって最高のダンナさまよ、奥さんがうらやましい!」

だがどう考えても、同じく仕事をする妻が、家のことすべてをやらねばならないのはフェアじゃない。
もし主婦だとしても、子どもの世話を含め夫の仕事を支えるのだから、収入は夫だけのものではない。
「誰に養ってもらってると思ってるんだ!」というドラマのベタなセリフは、現実には通用しないのだ。

再婚したから、今度こそはいい夫にならなきゃ、と一念発起したわけではない(笑)。
私は最初の結婚生活から、年をとった以外は何も変わっていない。
ではなぜ前回は不満が残り、今は何もわだかまりがないのか?

ひとつには、前妻の職場環境もあったと思う。
病院の事務なので、看護婦さんたちの勤務が不規則で、夫が家事を手伝うのは常識だったらしい。
だから、私が家事や育児に参加するのは「当たり前」で、特に感謝されることもなかった。

実はこの「当たり前」というのがクセ者なのだ。
たしかに当たり前なんだけど、それをありがたいと感じられるか、「ありがとう」とひとこと添えられるか。
この差は天と地、いや天と地獄くらい大きいことに、どれだけの夫婦が気づいているだろう。

斎藤一人さんが、次のように言っていた。
引用嫌いなくせに、内容がキケンだと、あっさり他人にふる(笑)。

「男の人って女の人が大好きだから、いろんな女のところへ行きたいんです。
それをあなたの旦那さんは、家にちゃんと帰ってきてくれるんだよね」

「女の人っておしゃれが大好きだから、100枚でも200枚でも服がほしいの。
それをあなたの奥さんは、3枚で我慢してるんだよね」

「『そういう性質があるのにこうしてくれてるんだ』ってわかって、感謝し合えたら、すごくうまくいくようになるんです」

ま、そういうことです。
私は今の妻が、私という特殊な条件の相手と結婚するにあたって、どれだけの覚悟が必要だったかを知っている。
だから自然と…いや、あえて書くとしっかり意識して、ねぎらいの言葉をかけようとするし、妻もまたそうだ。

それにしても、昔の私も含めて、みんな結婚…じゃなくて「結婚生活」に対する「覚悟」がなさすぎ!
結婚したら自分だけ好き勝手はできないし、ましてや子どもが生まれたら、自分の都合なんて言ってられない。
あなたはもう夫(妻)になったんだ、もう父親(母親)になったんだよ。

若い人とまでは言わないけど、そんなことも考えず夢ばかり見て、何の「取り決め」もせずに結婚するから失敗する。
冒頭の2組の夫婦も、「契約」である結婚にあたって、「契約書」を読まずにサインだけしたのは大きなミスだ。
「婚活」とか「育メン」なんてくだらない言葉の遊びばかりで、「自然に」いい夫婦になれるとカン違いしている。

もちろん愛や思いやりが大前提だが、もっともアテにならない「感情」に頼りきりでは、最初から結果が見えている。
「意識して」話合いを重ね、「理性で」価値観をすり合わせていかないと、もともと他人同士の「チーム」などすぐ解散だ。
育児手帳もいいけど、「結婚生活手帳」「夫(父親)手帳」「妻(母親)手帳」こそ、本当は必須なのだ。

アメリカでは、結婚前のカップルが一緒にカウンセリングを受けることが多いらしい。
「そんなに甘いもんじゃありませんよ、本当にその覚悟があるんですか?」
さらに教会で神様にまで誓って、それでも離婚率が50%を越えてしまうんだから、どんだけ難しい世界か!

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【サンタクロース】 12月24日(月)


クリスマスイブの夜、息子が準備した「サンタセット」。
サンタさんとトナカイさんのための、ミルクとクッキー、そして靴下。
お願いしたプレゼントは、蒸気機関車のおもちゃと、ブーツに入ったお菓子。


(以下ネタバレ)映画『34丁目の奇跡』のラストで、老人が本物のサンタかどうかの判決が下される。
女の子が裁判官に渡した1ドル札の、“IN GOD WE TRUST”(我々は神を信じる)の文字が決め手となった。
国の紙幣に神の存在を信じる記述があるなら、サンタクロースも、子どもたちが信じるだけで十分だと。

男親として、息子には現実をありのままに教えたい私も、サンタは例外のひとつ。
宗教に関係なく、世界中の人々の温かい心が創り出した存在だからだ。
子どもを思う親の気持ちそのものが、サンタクロースという名前だと思っている。

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【嘔吐下痢】 12月23日(日)

汚いタイトルで申し訳ないが、先週ずっと死ぬような思いをしていた。
日曜の朝目覚めると、胃のあたりが妙にムカムカする。
トイレでかがんでみると、突然ありえないほど吐いてしまった。

「オエーッ!」という声が近所に響き渡り、妻が思わず笑ってしまうほどだった。
こんなに出ていいの?というくらい、黄色い胃液&胆汁が大量に放出され続ける。
もう二度とオリーブオイルは使えない、と思った。

とりあえず吐き気止めとして、息子が小児科でもらっていた座薬を入れることに。
先日私にやられたリベンジか、息子がやると言ってきかず、その涙ながらの訴えに屈した。
3歳児にお尻の穴を向け、ロケット型の座薬を突っ込まれる辱めを受けるハメとなった。

そのうちお腹がグルグルしはじめ、まさかと思ってトイレに座ると、水のように激しい下痢。
これはまちがいなく、噂の「嘔吐下痢」だ。
私は意外と、流行に敏感なのかもしれない。

普段なら妻が付き添ってくれるが、事情により一人でタクシーに乗って日曜在宅医へ。
熱も8度以上でフラフラのうえに、この心もとなさといったらない。
キツイのに問診票なんか書けるか、長時間座って待てるかと、心の中で八つ当たり。

脱水症状と高熱で頭痛まで始まり、お医者さんの診察もそこそこに即点滴。
風邪の高熱で点滴したときはウソのように治ったが、今回は事情が違うようだ。
全身に毒が回ったような気持ち悪さは、ほとんど回復しないままだ。

こういうときのお医者さんや看護師さんって、ほんと仏様にも等しい。
もし病院で働く人がいなかったら、大怪我のときも含めて、私はすでに死んでいる。
それにしても、病原菌のウヨウヨしてるはずの病院のスタッフって、なんでみんな元気なの?

もらった薬を飲んでも、ほとんど効いた感じがしない。
逃げ場のない苦しみは、船酔いのまま吐き続けるのと同じだ。
水ひと口飲んでもすぐ戻すので、上と下から出ていくばかりの断食状態。

布団の中で丸まって苦しみながら、日頃のカウンセリングを反省した。
がんばりたくてもがんばれないときだって、人間にはある。
やはり、もうがんばっている人に、「がんばれ」と言ってはいけないのだ。

今回もそうだが、一時的にやや小康状態になっても、全快しない限りなかなか安心できない。
心理的な悩みや苦しみの中にある人も、きっと同じなのだろう。
ちょっとした言葉に感動したところで、根本的な要因が排除されない限り、つらさは続くのだ。

病気でもこれほどの劣等感を感じるのだから、見てもわからない「心の病人」はどれほどだろう。
決して甘えているわけでも、怠けているわけでもない。
今の私が体を動かせないように、心が動かせないのだ。

本当のうつ病でなくても、落ち込む相手の心情に寄り添うくらいはしていいだろう。
仮に甘えだとしても、たまたま自分が今強い状態にあるからといって、エラそうにせかすな。
怠けてるとしっぺ返しがくると、相手は自身の体験を通して、実感で学ぶ必要があるのだから。

私はよく、悩み相談を受けた人たちに次のように言う。
職場や学校に、プライベートな事情を「持ち込みましょう」。
それぞれ何かをかかえ、弱い部分があるのだから、みんなで助け合う社会にすべきだと。

使いものにならない今の自分に、いったい何ができる?
そう考えたとき、『それでも人生にイエスと言う』(V・フランクル著)の一節を思い出した。
ある売れっ子の広告デザイナーの若い男性が、悪性腫瘍で入院して死ぬまでの話だ。

彼は手足が麻痺し、仕事を続けられなくなった。
モノを創造する可能性を奪われ、ただ寝ているしかできなくなったのだ。
それでも彼は生きる意味を実現しようと、読書や音楽鑑賞、他の患者たちとの会話を楽しんだ。

やがて筋力が衰え、本を手にすることもできなくなった。
ヘッドフォンの重みにも耐えられず、音楽を聴いたり、話すことすらできなくなった。
この時点で彼は、体験という価値を持つ道をも断たれてしまった。

しかし彼は、次のような態度を選択することで、人生を意味あるものにすることができた。
自分の命があと数時間しかないと悟った彼は、医師であるフランクルに、こう伝えたという。

「先生、私には、死ぬ前に苦痛を和らげるモルヒネを打つよう、指示が出されたようです。
つまり、私の命は今夜でもう終わりということです。
そこで、今のうちに注射をすませておいていただけませんか。
そうすれば先生も、私のために安眠を妨げられずにすみますから」

フランクルは、のちに次のように語った。

↓↓↓↓↓
この人は、人生の最後の数時間でさえ周りの人をいたわり、気を配っている。
ここにはすばらしい業績がある。
どんなつらさ、苦しさにも耐えた勇気に加えて、こうしたさりげない言葉や、周りの人を思いやり続けたこの気持ちを見てほしい。
まさに死の数時間前のことなのだ。
職業上の業績ではなく、人間として比べようがないほどの業績がある。
↑↑↑↑↑

「健康がすべてではない。しかし、健康がなければすべてがない」
そんな言葉があり、病中の私もそう思ったが、上には上がある。
私ごときとはステージが違うが、せめて彼に0.1歩でも近づこうと、苦しみながら人々の幸せを祈った。

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【ひとりツイッター(3)】 12月14日(金)

「つぶや記」とか「はげま詩」などと、しょーもないことを書きそうになる自分を厳しく律する(笑)。
それって「顔晴る」とか「望年会」「成幸」「志事」「出愛」「縁会」などと同じくらい、今思えばハズカシー。
「夜露死苦」「愛羅武勇」なんかのほうが、ぜんぜん深く考えてなさそうで笑える。

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「〜ですけど、なにか?」
最近、耳ざわりな言葉のひとつ。
「いーえ、なーんにも!」と、ゆがんだ自己顕示欲の鼻っ柱を折ってやりたい(笑)。

アンチエイジング、サクセスフルエイジング、ウェルエイジング、ハッピーエイジング…。
結局、どれも同じだろ(笑)。
正直に「年とりたくない」って言おう。

「ギブ・アンド・テイク」より「ギブ・アンド・ギブ」、まずこちらから与えることが幸せの秘訣…。
そうなのかもしれないが、私のような俗人は、いつか見返りやお返しがくるの期待してしまう。
でも本当は、「テイク・アンド・ギブ」こそ真実でしょう。
赤ん坊として生まれてから世話になりっぱなしで、大人になって恩返ししていくのが人間だから。

「若いですね〜」
実際に若い人にはそんなこと言わないから、「けっこう年くってますね」と同義語(笑)。
「青春とは心の若さをいう」とかいう詩を好むのは、青春をとっくに過ぎた人だけ。

「英語ペラペラなんですね〜」
ピアノの先生に「ピアノがお上手ですね〜」とは言わないのに、なぜ英語教師だけがこんな目に。
アメリカ人に「英語うまいね」はありえないから、そう言われるうちは、オレもまだまだってことか。

「もし億万長者だったら、その仕事をしますか?」
「もしあと3日の命だったら、その仕事をしますか?」
するかよ(笑)。
本当に好きなことをしましょう、って言いたいんだろうけど、とりあえず男は生活費稼いでナンボ。

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またまた保育園から呼び出し、先日吐いたのに続いて、今日は熱があって下痢。
いったいいつまで続くのか、家族かわりばんこの通院アリ地獄。
自分のことだけ考えればいい独身時代って、今考えたらどれだけ気楽だったか。

家族に一人でも病人がいたら、趣味のジムには行かないという暗黙のルール。
健康目的で、半分は家族のために鍛えてるんだから、ここで行くのは本末転倒もいいところ。
私がいっしょにいることで安心してもらえるなら、喜んで一日メタボになりましょう。

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24歳で他界した俳優ジェームス・ディーンは、高校の卒業文集に、こんな言葉を残している。
「僕にとっての人生の成功とは、多くの人々の心に、永く残ることです」
予想とは違ったかもしれないが、たしかに彼の望んだ通りになった。

息子のいる病院に車をとばしながら、ふと思い出したのだ。
この状況はまぎれもなく、かつて私自身が望んだものだ。

離婚で長い間娘に会えなかった私は、普通の親らしいことをしたくてたまらなかったのだ。
たとえそれが、子どもの病気の心配や、悪さをして学校に呼び出されるようなことであっても。
考えようによっては、息子が娘の分まで私をドタバタさせてくれているのかも。

自己啓発オタクが言うところの、「引き寄せの法則」のパワーはあなどれない(笑)。
ストレスまみれだった私は、「どうも早死にくさい」と、どこかに書いたことがある。
いかんいかん今さらながら訂正だ、「長生き長生き長生き長生き」!

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市立図書館でいっぺんに16冊本を借りて、妻にあきれ返られる。
しかも現時点で、新刊を15冊予約してるし。
でも小説とかじゃないから、その気になれば期限の2週間で目が通せるんだよね。

「本と珈琲があれば、何もいらない」
この感覚だけは、30年近くも前の学生時代と、ほとんど変わっていない。
私はきっと死ぬまで本を読み、コーヒーを飲み続けるのだろう。

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映画『最高の人生の見つけ方』で知った、幻のコーヒー「コピ・ルアク」。
その正体は、ジャコウネコの糞から採られる未消化のコーヒー豆(笑)。

希少価値で、一杯数千円することもあるらしいが、同僚のコネで本場から入手。
味は…まあ、珍味として1回飲めば十分かな。

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先月いとこの結婚式で、福岡に行った。
いい子にしていた反動で、帰りに疲れて寝てしまった息子。
「おれはまだまだ死ねない」と、改めて今後の健康管理を誓った。

その2日間は皮肉なことに、中学からの同級M君の通夜と葬儀に重なっていた。
脳出血による、48歳での急死だった。
すぐ近くの中学校で教師をしていたが、真面目な性格でストレスが重なったのか…。

心のやさしい、本当にいい友だちだった。
通夜の会場には人があふれ、中に入れない人も多かったと聞く。
陰ながら冥福を祈りつつ、死んだらそれまでなんだと、彼に教えられた気もしている。

彼の訃報で、連絡不通だったG君からも、久しぶりに電話があった。
都会で経営していた会社をたたみ、いずれ宮崎に帰る予定だという。
人生、何度でもリセットできるさ、生きてさえいれば。

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【当たり前】 12月12日(水)

ある貧しい家庭に、善意ある人から米一俵が与えられた。
大喜びしたのもつかの間、一晩にしてその米は盗まれてしまった。
あくる朝、事に気づいた家族は失望し、そして憤慨した。

しかしその家の主人は、家族を次のように語り諭した。
「それでも、みんなで感謝しようではないか」
さて、この状況において、感謝できることなどあるのだろうか?

(1) まず、私たちに米を与えてくれた人がいたことを、感謝しよう。
(2) 少しの間でも、与えられた喜びを味わうことができたことを、感謝しよう。
(3) 盗んだ人も、貧しいだろう。その米によって、その人の空腹が満たされることを感謝しよう。
(4) まだこの家に、盗まれるほどの価値あるものがあったことに、感謝しよう。
(5) 世の中には、こういう悪事をはたらく者もいるのだという、教訓を得たことに感謝しよう。
(6) 何よりも、そのような悪事をはたらく者が、この家から出なかったことに感謝しよう。

なるほどな〜。
こんな発想は、私にはとてもできそうにない。
実話だと聞いたが、このご主人は、宗教的悟りのレベルにあった人なのだろう。

負け犬の言い訳でも、泣き寝入りの屁理屈でもない、足るを知る感謝の発想。
われわれ凡夫も、100パーセントは無理だが、半分の50%くらいはめざしたいものだ。
たとえ果汁50%でも、十分飲むに値する飲み物なのだから。

「感謝」の反対は、傲慢な「当たり前」。
「当たり前」の意識をなくせないまでも、「当たりは前」くらいのことは言いたいね。
自分にとっての「当たり」は、目の「前」にいるよ、みたいな。

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【ひとりツイッター(2)】 12月11日(火)

どういうわけか、今週は原因不明のバッド・コンディション。
先週まで絶好調だったウエイト・トレーニングも、今夜はなぜか力がわいてこない。
ベンチプレス100キロが、1回も挙げられなかった。

こういうときはあまりがんばらずに、さっさと寝てしまったほうがいい。
Let's call it a day.(今日はここまでにしよう=これを一日と呼ぼう)
「こんな日もあるさ」

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ジムで、ウェイトリフティング計量会(12/1)。
当初の目標はスクワット100キロ、ベンチプレス100キロ、デッドリフト100キロ。
結果はスクワット90キロ、ベンチプレス90キロ、デッドリフト100キロ。

スクワットはともかく、ベンチプレス100キロを失敗したのは情けない。
まあ、普通のオジサンならせいぜい40〜50キロだろうけど。
ていうか、英語授業やカウンセリングに筋肉はいらないんだけど。

+++++

トレーニングは、結果だけではない。
トレーニングができていること、ジムに行けること自体がありがたいのだ。
怪我や病気をしたり、年をとってくると、そんな部分も見えるようになってくる。

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さあ、気分も新たにトレーニングの日々!
そう思った矢先、出鼻をくじくように、息子→妻→私の順番で高熱を出す。
交代で送り迎えしながら病院通いの一週間、ある意味絶妙のチームワーク。

50を前にして保育園に呼び出され、仕事を早退して息子を迎えに行く。
なんだか笑えてきて、不謹慎だが、車の中で「わはは!」と声をあげてしまった。
そういう一場面も私の人生にあったという事実を、一応ここに書き残しておこう。

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通勤に使っている橋が工事中で、一車線になっている。
合流地点で割り込みしようと、隣の車線を使って十数台追い越していく人もいる。
そんな才覚も必要なのかもしれないが、小賢しくて要領のいい生き方、私はやめとこう。

+++++

友人から期限切れのパンをもらったが、食欲は起きなかった。
今飢えているならともかく、そうでない状態でありがたみは起きない。

同じように、甘えて育った子どもたちに、「恵まれていることに感謝しなさい」と言ってもムリ。
その証拠に、あれほどの大災害を知りながら、あいかわらずくだらないことで悩み続けている。

「重い病気になってはじめて、生きている喜びを感じるようになった」
人間なんて勝手なもので、自分自身が死ぬ目にあわないかぎり、謙虚な気持ちにはなれないものだ。

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「身の秋や今宵をしのぶ明日もあり」(蕪村)

これは本当だったな。
今は身の不幸を嘆いていても、いつか今日のことを懐かしく思い出す日がくる。
あの頃は、そう自分に言い聞かせていた。

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買い物に来た店の中を、声をあげて走り回る幼い息子の姿を見て、いいオッサンが涙ぐむ。
その理由をすべて承知の妻が、「また泣いてる」と苦笑い。
できれば反抗期になっても、「成長したなあ…」と涙ぐめる父親になりたいものだ。

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3歳がいちばんかわいいというが、娘は息子と同じ頃に、私と離ればなれにされた。
事情がわかってくる最初の時期に、私と元妻はそれぞれ、幼い娘の気持ちを傷つけたのだ。
いくら関係が再開しても、この事実と失われた十数年間は、一生背負っていかねばと思っている。

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夜中に息子がぐずって、何回も起こされてはトイレに立ち、そのあとなかなか寝つけなくなる。
でもまあ、目をつぶって横になっているだけでも、睡眠状態の60%は休養になっているというし。
そう思いながら、脳がα波になっている状態でひらめいたアイディアを、暗闇の中で携帯にメモする。

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「自分の望むものリストを書き出す」という自己啓発セミナー的作業が、今まで苦手だった。
物欲が減ってきて、「モノ」への関心が薄れ、特にこれといって思いつかないからだ。
しかしこれこそが、「モノ」にとらわれた、一昔前の成功哲学的発想だった。

「望むもの」には、形のある物だけではなく、「健康」や「心の成長」もあっていい。
特に心の成長には、「これでアガリ」というゴールがない。
「少しでも機嫌よく、笑顔で、人にやさしい」自分をめざしたい。

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本当は「モノ」ではなくて、みんな「気持ち」が欲しいのだ。
ブランドものや高級車を手に入れて、自分は豊かなのだと感じる「気持ち」。
有名になってチヤホヤされる「気持ち」、恋人ができて毎日が楽しい「気持ち」。

望む「気持ち」を得るための手段は、お金のかかる「モノ」だけとは限らない。
結果的に、そういう感情、状態になれればいいのだ。
このあたりが、「心の時代」に幸せになるポイントだと思う。

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都会のカラスは、食べ物に困ることがないので、特にやることもなく遊ぶことが多いそうだ。
生きる目的もなく、シカの耳の中にシカのフンを入れて、退屈しのぎをするらしい。
人も同じで、安定した収入を得るところまできたら、ただ毎日を楽しんでだらいいのかもね。

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小学生の頃、野球がヘタでチームに入れない子だけを集めて、別のチームをつくった。
どの子も運動神経が鈍く、うまい子たちからバカにされ、劣等感を持っていた。
みんなヘタだから楽しくて、ミスしても責められないから安心で、ヘタなりに上達してうれしかった。

「成功の秘訣は、成功への意識が高く、能力のある人だけを相手にすること」だそうだ。
ポジティブな人たちは自己投資を惜しまないから、情報商材も買うし、セミナーにも参加する。
ネガティブな人たちを引き上げるより、コストパフォーマンスがはるかに高いというわけだ。

自分のこれまでをふり返ると、そのまったく逆をやってきたような気がする。
落ちこぼれクラスの英語授業を選んだことも、カウンセラーの資格を取って悩み相談をしているのも。
それでよかったと、私は思っている。

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毎年書くことになっている、来年のジムトレーニングの目標、何にしようかな。
「50前とは思えない“彫刻のような肉体”を手に入れる」とか(笑)。
ポップサーカスで「リボン・アクロバット」を演じた人の逆三角形の体、カッコよかったな〜。

でも西城秀樹さんの闘病記によると、無酸素運動(筋トレ)は脳梗塞のリスクを高めるらしい。
「健康を維持しながら」という枕言葉をつけておかないとな。
いずれにしても2013年は、今までとは違ったさまざまな刺激を、老いつつある体に入れていこう。

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優れたトレーナーを見つけるのは、簡単なことだ。
その人の体を見ればいい。
たるんだ体の人から筋トレを習っても、英語を話せない英語教師と同じで、何の説得力もない。

ジムを選ぶのも、最新式のマシンや豪華さなど関係ない。
説得力のある肉体を造るなら、重いものを持ち上げることに変わりはないからだ。
これまた、英会話学校と同じ理屈となる。

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年の離れた妻や息子のために、若々しくありたいとは思っている。
でも、全身から必死感が伝わってくるような、イタい若づくりはしないでいよう。
ちょっと風通しのいいオジサンになりたいだけ。

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