<2012年10月>

【文章書きのひとりごと】 10月31日(水)

もう十数年間、著書やホームページで雑文を書いてきた。
それでも文章化したものは、私の伝えたいこと、持っている情報の2割程度だろう。
ネタ帳は増える一方で、頭の中の構想まで入れると、毎日書いてもまったく追いつかない。

「よくそんなに自分をさらけ出せますね?」
旧ホームページ『文武両道』で「娘への手紙」を書いていた頃、何人かにこう言われた。
冗談じゃない、私は当時、言いたいことの10分の1さえ書けなかった。

「文は人なり(The style is the man.)」というが、決して「人そのもの」ではない。
文章なんて、複雑な人間心理というジャングルの中では、せいぜい一筋の川にすぎない。
私の妻など、「文は人なり」どころか、「文と人とのギャップが大きすぎる」と手厳しい。

私は、画家が絵を描くように、一字一句だわりながら文章を書いていく。
彫刻家がノミを入れるように、何度も読み返しては、小さな修正を試みる。
結果的にかなりの遅筆になるから、相当な時間とエネルギーを消費してしまう。

ひょっとすると私の子どもたちが、いつかこれを読む日がくるかもしれない。
そう思うと、少しでも彼らの役に立つことを書きたくなってくる。
伝えたいことは山ほどあるが、上に書いた通り、残念ながら文章表現には物理的限界がある。

ガンのため30代で亡くなったある芸人さんの、息子さんへのメッセージをテレビで見た。
体が衰弱し、残された時間もあとわずかという状況で、それはたったひと言に集約されていた。
「自由に生きろ」

そうだよな、本当にそうだ。
違う時代に別の人生を歩んだ父親が、限られた時間で、すべてを息子に教えられるはずがない。
息子の生きる力を信頼して、彼が出合うものすべてを信頼して、任せて去るしかないのだ。

今後もし私が本を出すなら、エッセイは別として、やはり専門の「英語」と「カウンセリング」になるだろう。
しかし例によって書店を「パトロール」すると、似たような本がすでに掃いて捨てるほど出ている。
家族と過ごす時間や読書、喫茶店やジムの時間を削ってまで、わざわざ私がやる必要もなかろう。

子どもたち、特にまだ小さい息子は、友だちより早く父親を亡くすことになるだろう。
元気なうちに、できるだけ人生の知恵を書き残し、読むべき本、見るべき映画のリストも作っておきたい。
私の中にはずっと、そんな追い立てられるような欲求があった。

しかしその作業を始めると、私のことだから、妻と決めた「家訓」である「本末転倒禁止」に背きかねない。
たとえば、「パパ、遊ぼう」という息子に、「今、息子へのメッセージを書いてて忙しい!」みたいな。
マヌケもいいとこだよね〜。

私を介さなくても、息子が学ぶ材料は十分に用意されている。
そう考えると、私の焦りもいくらかは軽減されるというものだ。
本当に書きたいときに、本当に書きたいことを、生活のリズムを崩さない範囲で書いていこう。

*****

【合コンの思い出】 10月30日(火)

大阪の大学時代、私のアパートで、今でいう「合コン」をしたことがあった。
たしか3対3で、相手は女子高校生。
さすがにアルコールは抜きで、ジュースで乾杯して食事を楽しんだ。

今思えば私たちは、暇を持て余したバカな男子学生だった。
退屈しのぎに、近くの公園でハンドベースボールなど、つまらぬことで盛り上がっていた。
笑いながらそれを見ていた彼女たちと、いつの間にか仲よくなったというわけだ。

女子高生のうち2人は、いかにも男の目を引く容姿で、もう1人は地味な感じの子。
いかにも友だちから頼まれて、人数合わせで連れてこられた様子だった。
ほとんど自分から話すことはなく、5人の話に微笑みながらうなずくだけだった。

食事が終わったあと、ちょっと用事で出た私が部屋に戻ると、6人のうち4人が消えていた。
私以外の男どもが、派手目の彼女たちを、それぞれの部屋に「お持ち帰り」したというわけだ。
おとなしいその子は私に気づかないまま、流しのほうを向いて全員分の皿を洗っていた。

あのとき私は、どうしたんだっけ。
古い記憶は意外とウソをつくから、正確なことは思い出せない。
そのままそっとそこを離れたのか、彼女と世間話でもしたのか。

とにかく、他の2組のカップルは、その後けっこう長くつき合ったように思う。
私はうらやましさ半分で、彼らを「ロリコン1号・2号」と呼び続けたから。
そのとき生まれたばかりの赤ん坊(今の妻)と、40代子持ちで再婚するなんて、夢にも思わずに…。

ところで私は、いわゆる「ナンパ」をした経験は、人生の中で一度たりともない。
「またまた〜」とか言われるが、知らない女性に声をかけるのは、絶対に無理。
見かけと違って人見知りの私が、次の合コンに参加するのは、15年も先のことだった。

それは、30代半ばでバツイチの男どもを憐れんで、ある女友だちが場を設けてくれたものだ。
結果は惨敗で、この世のものとは思えないほどの盛下がりをみせた。
私たちは酒が飲めず、初対面の女性たちを楽しませる技術など、誰ひとり持ち合わせていなかた。

世話役の女性からはこってりしぼられ、自分と同類のダメ男どもを集めた私は、さんざんな目にあった。
その翌週、同じ女性たちをマスコミ関係者と合コンさせたら、全員めでたく「お持ち帰り」となったそうだ。
やっかみ半分だが、その軽さにすっかり嫌気がさした私は、もう二度と合コンなんかするもんかと誓った。

しかし年をとった今ふりかえってみると、大事にすべきだったのは、誰も見ていないのに皿を洗っていたあの子だった。
家事をしっかりやるという実利的な意味ではなく、いかにも人のよさがにじみ出ているではないか。
今ごろどうしているだろう、彼女には幸せになっていてほしいなあ。

*****

【感慨深い週末】 2012年10月29(月)

実家で飼っている柴犬のコロは、今日で14回目の誕生日を迎えた。
母親の再婚でマンションに住む娘に、動物とふれあう機会をと、生後まもなく引き取った。
残念ながら、娘とコロは十年以上会えないままだったが、今日まで元気でいてくれた。

土曜日の夕方、娘の通う高校まで車で迎えに行き、帰りに小さな洋食屋で食事をした。
3歳で離ればなれになった娘も、早いものでもう高3、年が明ければ大学受験だ。
十数年の時と私の再婚を経て、ようやく元妻の理解が得られ、時々会えるようになった。

娘との交流が再開したきっかけは、ある教え子の意志によるものだった。
彼女は私のエッセイ集『HOW TO 旅』を読み、娘を思う父親の気持ちに深く共感してくれた。
偶然娘と同じクラスだった妹さんを迎えに行ったとき、その本を娘に手渡したというのだ。

彼女は娘に、「お父さんに会いたいですか?」と聞いたそうだ。
「先生、娘さんは『会いたい』って言ってましたよ!」
その言葉を聞いたとき、私は不覚にも、生徒の前で涙を見せてしまった。

離婚後に面会した夜、どういう話の流れだったか、まだ幼い娘は私につぶやいた。
「パパが他の人と結婚すると、寂しい」
その言葉を、私は心のどこかでずっと引きずっていた。

教え子が娘に本を渡してくれたのは、まさにその再婚を決めた頃のことだ。
私は思い切って娘に手紙を書き、一度だけ自分から頼んで、教え子の妹さんに届けてもらった。
やがて私の手元に、「再婚お・め・で・と・う!」と、成長した娘から返事が届いた。

昨日の日曜日、家族と「コスモス牧場」に出かけた。
あの頃の娘と同じ3歳になった息子が、ポニーやヤギなどの動物とたわむれ、大喜びしている。
妻と3人で焼きそばやおにぎりを食べながら、もうこれ以上何も望むものはない、思った。

私が今こうしていられるのは、現在の妻のおかげだ。
“You made my life.”
お互いの価値観をすり合わせるために議論もするが、いつもそんな気持ちでいる。

彼女は私に新しい家族をつくってくれただけでなく、娘との関係もずっとサポートしてくれている。
娘への気持ちや、娘と会うことを、パートナーとして理解すべきだと自分を抑えているのではない。
ごく普通のこととして、自然体で受け入れられる人のようなのだ。

「コスモス牧場」では、もうひとつうれしいことがあった。
以前カウンセリングをしていたある人が、別人のように元気な笑顔で働いていたのだ。
再会を喜び合いながら、人をある一時期一場面で判断すべきではないと、改めて自分に言い聞かせた。

*****

【地獄に仏】 10月22日(月)

再婚して4年が過ぎたが、離婚を経験したのは、もう15年以上前だったか。
慰謝料の発生しない「円満な」調停離婚で、家庭裁判所には一度出向いただけだった。
当時3歳だった娘の養育費を私が払い、元妻は月2回の宿泊面会を認めることで合意した。

間もなく元妻に新しい相手が現れ、正式に文書化された約束事に異変が起きる。
相手は初婚ということで、彼の両親も含め、私と娘が会うことに否定的だった。
子持ちの再婚という不利な?条件の元妻が、このままでは再婚できないと訴えてきた。

元妻の立場は理解できたので、不本意ながら、娘との「月2回の宿泊面会」を宿泊なしに変更。
やがてそれが「月1回」となり、とうとう「もう会わないでほしい」が始まった。
少なくとも離婚後は誠実に対応してきた私としては、とうてい受け入れられる話ではなかった。

わずか月1回、しかも半日だけの娘との面会が、とてもつらいものになっていった。
私を見ると、いつも大喜びしていた娘の様子が、明らかに変わってしまったからだ。
会ったとたんに「早く帰らないと…」と言って、遊びにも行きたがらない。

その後元妻は再婚し、娘のことも考慮?して、面会は「半日」からわずか「2時間」となった。
父親として屈辱的だったのは、指定された場所で、彼ら夫婦の目の前で会うという条件だった。
娘に会いに来た私の母が、元妻の夫の心ない言葉に傷つけられた日が、私の我慢の限界だった。

私は家庭裁判所に「親権変更」の申立てを行い、再び調停の場に立つことになった。
元妻との面会も自由にさせる私が育てたほうが、娘が健全に成長できると信じたからだ。
彼女の夫は急きょ「養子縁組」をしてそれに対抗、結果的に私の申し出は却下された。

まだ幼い娘と最後に会った日のことは、まるで昨日のことのように覚えている。
元妻と夫にうながされた娘は、うつむいたまま、たったひとことつぶやいた。
「…もう、会いたくない」

私にはその瞬間、娘がそう言わざるを得ない背景が、すべて見通せた。
こんな小さな子が苦しむくらいなら、大人であり父親である自分が苦しもう、そう決めた。
もし将来、このことを娘が引け目に思うようなことがあれば、あれは私の選択だったと伝えたい。

事は思い通りに運ばなかったが、今思い返しても、私は娘のために精一杯闘ったと思う。
あれから15年経った今でも、娘に対する愛情は何ひとつ変わっていない。
「離婚しても親子は親子」という信念も、まったく揺らぐことはない。

当時の私は、思い出したくないほどの怒り、悔しさ、寂しさ、孤独感でおかしくなりそうだった。
職場など、人前で普段通りにふるまうだけで、すべてのエネルギーを消耗した。
それがどれだけつらい日々だったか、とても数行の文章で表現しきれるものではない。

2回目の調停には、弁護士を必要とした。
人脈を持つ叔父に、すがるような思いで紹介を頼んだが、恥を忍んで頭を下げる私に彼は冷たかった。
私の味方をしてくれたのは、弁護料を肩代わりまでして応援してくれた、私の父一人だけだった。

器の小ささを告白するようだが、見下された「恨み」というのは、なかなか消えるものではない。
それと同じくらい、弱い状態のときに手をさしのべてもらった「感謝」も、私は絶対に忘れない。
父さん、あのときはまさに「地獄に仏」だったよ、ありがとう。

父とは別の意味で、もう一人「地獄に仏」がいた。
調停の場で、私の代理人となってくれた弁護士さんだ。
「愛情と良識ある父親に対して、相手側の対応は不誠実きわまりない!」

もちろん個人的な感情などではなく、仕事上の発言だったにちがいない。
それでもその場にいた私にとっては、涙が出るほどありがたい言葉だった。
たとえビジネスとはいえ、つらい胸の内を代弁してくれる人が、初めて目の前に現れたのだから。

地獄の渦中にあって、なかなか感謝を伝えられなかったが、他にも「仏たち」はいた。
同じ境遇で互いに励まし合った、「ファーザーズ・ウェブサイト」の仲間たちだ。
その中には、「いつか親子同士で食事をしよう」と誓い合った人もいる。

あれこれ書いてしまったが、思い出話がしたかったわけではない。
「地獄に仏」のありがたさを実感した者が、どのようにその経験を生かすかが大事なことだ。
私はその後、現在の妻とともに、カウンセラーの資格を取得した。

今私は、英語教師と並行して、職場でカウンセラーをやらせてもらっている。
相談に訪れる人たちは、当人なりの「地獄」をかかえながら、ぽつぽつと悩みを打ち明け始める。
相談者との最初の出会いのとき、話を聴く前に、心の中で自分と約束することが3つある。

1.入ってきたときより心を軽くして、この部屋を出ていってもらおう。
2.「この人にとって」いちばんいいようになりますように、と祈ろう。
3.問題自体を解決できなくても、私だけはこの人の味方、「地獄に仏」に徹しよう。

*****

【五百円コーヒーの価値】 10月16日(火)

そろそろ家を買おうという話になって、最近いくつかの物件を見に行っている。
私は家を持つことにこだわりはないが、妻は理想の家を建ててみたいという。
妻の望みはかなえてやりたいので、家づくりは「家族共通の目標」となったわけだ。

私が持ち家に興味がなく、この歳までレンタル生活を選んできたきっかけを、最近思い出した。
15年以上前に読んだ、今と違ってまだ無名だった頃の著者の、ある本の一節がきっかけだった。
『口ぐせが人生をつくる』(佐藤富雄)

↓↓↓↓↓
本来、生活空間とは所有するものではなく、利用するものなのです。
所有することに努力をしてしまうから、自分がもてる限界のところで妥協しなければならなくなります。
しかし、それを自分が占有する場所だと考えれば、家自体にこだわる必要がなくなってくるでしょう。
なぜなら、今欲しい生活空間と来年欲しい生活空間は、状況の変化とともに変わっているかもしれないからです。

ある時期、私は東京の高輪プリンスホテルに住んでいたことがあります。
そして毎朝七時に、ホテルのコーヒーショップでコーヒーを飲むのを習慣としていました。
そのコーヒーの値段は一杯五百円くらいという、そのころとしてはかなり高いものだったと思います。

あるときホテルに私を訪ねてきた人が、五百円のコーヒーを飲む私を見て、えらく感心したのです。
そして、自分にはそういうまねはできないと言いました。
そこで私はこう答えました。

「私は今ここで、あなたの月給と同じくらいの三十五万円の家賃を払っているが、もったいないとは思っていません。
五百円のコーヒーを飲むことだって同じです。
このコーヒーショップから見える二千坪の庭を、私は自分の庭だと思っているからです。

これだけ広大な庭を持ち、しかもその手入れまでしてもらっている。
実にきれいな庭の景色を前に、おいしいコーヒーを飲むことができるうえ、五百円で庭の手入れまでしてもらっていると思えば、安いものでしょう。
そう考えると、このコーヒーはただと同じですよ」
↑↑↑↑↑

こういう考え方を私は好む、というより、単純に影響されやすい。
以来、地元宮崎のシーガイア・リゾートにある、「ホテルオーシャン45」最上階のカフェを利用するようになった。
一杯八百円!のコーヒーを注文すれば、眼下に一望する太平洋も、わが家の庭の池?となった。

「長期的選択は、短期的選択を不可能にする」

こういった言葉もまた、いい歳をして家の一軒も建てない私に、もっともらしい言い訳を与え続けている。
長期的選択、つまり数十年のローンを組んでしまうと、短期的選択、つまり生活の中の贅沢が楽しめなくなる。
家さえ建てなければ、毎年の海外旅行、車は外車、服はブランド、毎週末の豪華ディナーなんて楽勝なのに。

大学時代に北海道を野宿しながら一周し、オーストラリアとニュージーランドの貧乏旅行も経験した。
Tシャツにビーチサンダル、バックパック1個で、数ヶ月間は不自由なく旅ができた。
そのとき実感したのが、生きていくのに本当に必要なものは、思ったよりずいぶん少ないということだ。

まあしかし考えてみれば、結婚もまた究極の「長期的選択」ではないか。
この場合に失われる「短期的選択」は、複数の異性と交際できるということだろう。
それでも再婚した私は、やはり安定志向なのだろうし、住居が固定されても幸せでいられるのかもしれない。

*****

【ワクワク】 10月15日(月)

自己啓発セミナーやビジネス書で、「ワクワクすることを仕事にしよう」みたいな話がよく出る。
きっとそれが「天職」だから、がんばらなくても幸せに成功できますよ、というのだ。
これをまにうけて、「転職」どころか会社まで辞めてしまい、趣味に毛がはえた程度のスキルで起業する人もいる。

もちろんそれは彼らの自由だし、同じ選択をしないサラリーマンがどうこう言う話ではない。
ワクワクして失敗しようが成功しようが、私は自分の課題に集中するだけだ。
ただ、この「ワクワク」という言葉が子どもじみて聞こえて、個人的にはどうも好きになれない。

いい大人が公の場で「ワクワク」と平気で言うようになったのは、外国のスピリチュアル本がきっかけだ。
しかしそれらの原文には、「ワクワク」にあたる直接の英単語はなく、いくつかの類語が見られるのみ。
たとえばinterest(興味)、passion(情熱)、excitement(興奮)、curiosity(好奇心)など。

ということは、日本語に訳す段階で、出版社の戦略に基づく何らかの操作があったと考えられる。
そこに便乗したセミナー講師たちが、「ワクワク」をキーワードに、閉塞感を感じる人々を集客したのだろう。
それが悪いとは言わないが、受け取る側の多くがこの言葉を誤解し、ますます苦しい状況になっている事実もある。

ずっと前に『ソース―あなたの人生の源はワクワクすることにある。』という本を読んだ。
特に深く考えもせず、「おもしろかった」とホームページに書いたら、掲示板に反論があった。
「自分が離婚したのは、妻がその本に影響され、妙なことを始めたのがきっかけだ」と。

たぶん彼の元奥さんは、そのとき「ワクワク」したのだろう。
しかしその結果として、大切な家族を不幸にしてしまった。
それが悪いことか良いことか、長い目で見なければわからないみたいなヘリクツは、とりあえず横において。

似たような批判が増えてきた頃、セミナー族は「激しいワクワク」と「静かなワクワク」があると言い始めた。
「激しいワクワク」は一時的で長続きせず、「静かなワクワク」こそ、物心ともに豊かな生活につながると。
そういう面もあるかもしれないが、明らかに彼らが見落としていることがある。

それは、「今、自分がどんな状況にいて、どんな状態にあるのか」という視点だ。
ひとつのサンプルとして、将来の息子の参考のためにも、私自身の失敗談を書いておく。
状況は「離婚後」で、状態は「さびしい」だった。

「直感はメッセージ」とばかりに、当時の私は「ワクワクすること」を次々とやった。
ファーザーズ・ウェブサイト、テコンドー道場、英語教育達人セミナー、プチ紳士を探せ!運動、ピアノと書道のレッスン。
ホームページ運営、エッセイ集や英語本の出版、情報商材ビジネス、週末喫茶店まで開き、収入はいくつもの慈善事業に寄付。

はた目には、一教師がさまざまな分野で活躍しているように見えただろう。
そういえば車も、引き寄せの法則(笑)で手に入れた?メルセデスベンツに乗っていたし。
急速に広がった人脈との交流でチヤホヤされ、本業以外でも大忙しの私は、いっぱしの成功者を気取っていた。

ちょっと考えたらわかることだが、こんな生活が長く続くはずがない。
私は過労で体をこわし、不注意から大怪我をして、心の病まで経験することとなった。
あれだけがんばれた私のモチベーションは、離婚のトラウマから逃れることだったのだ。

今の私は、考え方も行動も、あの頃とは別人のように地味な生活をしている。
それなのに、状況は「温かい家庭」で、状態は「幸せ」といえる。
ワクワクする「必要性」など、ほとんど感じない。

そう、「ワクワク」は、自分の状況や状態がマイナス、ネガティブなときにわいてきやすい危険性があるのだ。
お金がない、仕事が嫌だ、人間関係がうまくいかない、孤独だ、自信がない、不健康だ、毎日がつまらない…。
心が十分に満たされているとき、わざわざセミナーに出かけてまで、ワクワクを求める必要があるだろうか?

自己啓発マニアやスピリチュアル好きの人びとは、基本的に、みな素直で善良だ。
お互いを「こんな素敵な人がいる」と紹介し合い、笑顔を絶やさず、いつも明るく元気にプラス思考。
そんなポジティブ人たちの奥にひそむトラウマを、私は昔の自分と重ね合わせ、思わずため息をついてしまう。

カウンセラーの私のもとへは、「ワクワク」被害者や家族の相談が、日々あとを絶たない。
パソコンのゲームにワクワクして不登校、不倫にワクワクして家族崩壊、ネオン街にワクワクして毎晩のように飲み会。
早朝からパチンコ屋に並ぶおじさんたちもワクワクしてるだろうし、儲け話にダマされた人もワクワクしていたはずだ。

「ワクワク」というキャッチコピーを、無批判に受け入れて安易に動くと、いずれ後悔することになる。
誰のアタマにも刷り込まれるような、シンプルすぎる言葉ひとつですむほど、人生も人間も薄っぺらなはずがない。
「元気ハツラツ」なのはオロナミンC」だけじゃないし、「やめられないとまらない」のはかっぱえびせんとはかぎらないのだ。

*****

【20円のお祝い】 10月12日(金)

勤務先の高校には「修練実習」という制度があって、男子も女子も10日間、それぞれの職員室を担当する。
早朝から登校して机をふいたり、休み時間に私たちにお茶をいれてくれたりしながら、忙しい日々を過ごす。
生徒はけっこう緊張するようで、最終日のあいさつでは、感極まって涙する子もいるほどだ。

私がいる教育相談室は一人部屋なので、修練生とは一対一での指導となる。
わが相談室のウリは、コーヒーを豆からひいていれるプロセスで、人生に必要なことが学べるというもの。
喫茶店のマスターを体験して、生きるコツもマスターできる「珈琲道」は、けっこう好評だ(と願う)。

10日目の放課後に生徒が最後のあいさつを終えると、教師が期間中をふり返って評価する番だ。
私はこのとき、紙テープが飛び出すクラッカーをパーン!と鳴らして、派手にお祝いをする。
実習中にあれこれアドバイスしているので、「終わったー!」という打上げのほうが楽しいと思って。

百均で買ってきた、5個入り100円のクラッカーだ。
私にしてみれば、たった20円のお祝いにすぎない。
しかし生徒のほうはけっこう喜んで、「これ、もらっていいですか?」と、みんな記念に?持って帰る。

今朝、一人の女子生徒が「先生、大学受かりました!」と、うれしい報告をしに来てくれた。
家庭の事情で悩み続け、不登校にはならなかったものの、3年間ちょくちょく相談室を訪れていた。
はた目に見ていても、何もいいことがなかった彼女の高校生活に、ようやく光がさしてきた。

私は例によってクラッカーをぶっ放し、バンザイ三唱をして、彼女と握手して頭をナデナデした。
「願かけ」でそのままにしていた、彼女が入試のおみやげにくれたクッキー箱を開けて、コーヒーをいれた。
うれしそうな彼女もまた、「これ、もらっていいですか?」と、まだ火薬くさい20円のお祝いを持っていった。

*****

【ささやかな瞬間(2)】 10月12日(金)

朝、信号のない横断歩道に、一人の中年男性が立っていた。
通勤の車の行き来が多くて、なかなか渡れない様子だった。
普通なら通り過ぎる道路状況だが、私は車を止めた。

彼は私に頭を下げ、ちょっと小走りで横断歩道を渡ってくれた。
後ろの車の人はどうかわからないが、朝からお互いに気持ちがよかった。
これもまた、慌ただしさの中に彩りをそえてくれる、ささやかな瞬間だ。

指一本ケガしても不便なように、小さなことは、意外と大きなことにつながったりする。
あえて書くほどのこともない、本当にわずかな差なのだが、私は車を止めるほうを選ぶ。
この選択基準に長く影響を与え続けているのもまた、「ささやかな瞬間」だった。

あの時、私は大学3年生。
オーストラリアを貧乏旅行して、砂漠から海辺の街へ出てきたばかりだった。
安モーテルからビーチへ横切る道で、向こうに車を見た私は立ち止まった。

信号も横断歩道もない、ビーチ沿いの見晴らしのいい一本道を、一台の車が快走する。
それを見送って砂浜に入ろうとする、やせこけてヒゲをはやしたビーチサンダルの若者。
ところがその車は、若者の前で当然のように停車したのである。

私は意外な展開に戸惑い、外国だというのにマヌケな一礼をして、小走りに道を渡った。
ところが運転席と助手席のカップルは、楽しそうに談笑していて、こちらを見もしない。
善意でも親切でもない、あたりまえすぎて意識さえもしない、そんな様子が印象的だった。

それで思い出したのが、グレイハウンドという庶民の長距離バスに乗ったときのこと。
老婦人が乗り降りするとき、半ズボンの毛むくじゃら運転手はさっと立ち、彼女の荷物を持った。
手伝ってもらうほうもごく自然で、遠慮や引け目などまったく感じていないように見えた。

宮崎市内のホームセンターから車で出るとき、私は体の不自由な男性から道を譲られたことがある。
もちろん私も止まったのだが、先に止まった相手から「お先にどうぞ」とやられてしまったのだ。
ヒゲづらの彼が車椅子でニッコリ笑った瞬間を、私は一生の間、見習い続けていこう。

*****

【ささやかな瞬間(1)】 10月11日(木)

朝、教育相談室のドアを開け、ゆっくりとコーヒー豆をひく。
ミルの持ち手を右回りに、禅の円相をイメージしながら。
慌ただしい雰囲気に巻き込まれぬよう、静かに心を整えて。

ひきたての豆の中心に少しお湯を落とし、しばらくの間むらす。
豆が十分にふくらんだら、口の細いポットで、円を描きながらお湯をそそぐ。
コーヒーのいい香りが、あたりに広がる。

「あ、いい香り」
廊下を歩いていた女子生徒が、一瞬だけ足を止める。
そしてまた、教室に向かって歩き始める。

秋になり、大学院から帰宅した妻は、保育園まで歩いて子どもを迎えに行くようになった。
手をつないで、川にかかった小さな橋を二人で渡るとき、風がさあーっと吹き抜けてゆく。
川の流れに沿った草ぐさが、夕映えに照らされながら、さわさわと自然の音色を奏でる。

公園のベンチに腰かけ、ブランコやすべり台と無心にたわむれる、幼いわが子を見つめる。
日常の喧騒を離れた一隅を、凪のように穏やかな時間が流れていく。
そんな思いがけない心の隠れ家が見つかると、また明日からがんばろうと思ったりもする。

ふと見逃してしまいそうな、生活の中のなにげない風景。
でも人は、こんなささやかな瞬間にこそ、小さな幸せを感じたりするものだ。
それに気づき、それを味わい、薄紙を一枚ずつ重ねるように日々を過ごしていきたい。

*****

【命の意味】 10月3日(水)



息子にとって、生まれて初めて世話をした生き物、「くわがたくん」。
そして、彼の人生で最初に「命に限りがあること」を教えてくれた存在。
ひと夏の友情をはぐくんで、最期は美味しい蜜をなめながら、自然の法則通りに死んだ。

お墓をつくっているとき、息子は私に「どうして死ぬの?」と何度も聞いてきた。
「生きてるものは、みんな死ぬんだよ。そういうものなの。パパもいつか死ぬよ」
味も素っ気もない答えだが、作り話でごまかしたりせず、根気強く事実を語っていきたい。

それにしても、ほんのこの前まで生きていたのに、今はもうただのぬけがらだ。
いったいこの昆虫の体を動かしていた命、エネルギーは、どこに行ったのだろう。
死んだことがないからわからないが、どうも肉体は魂の「着ぐるみ」に過ぎないようだ。

生命の神秘について考える機会を、少しずつでも家族でもつようにしたい。
そう思って、ドキュメンタリー「ライフ いのちをつなぐ物語」を自宅スクリーンで上映。
しかし10分もしないうちに飽きた息子に、「しまじろう」のDVDに替えられた。

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