<2011年8月>
【体で考えて、心で記憶する。】 8月27日(土)
家族と濃密な時間を過ごした、この1ヶ月間。
総括として、今思うところを書いておく。
■一次情報を生きる
沖縄のリゾート地、恩納村のビーチサイドに滞在。
美ら海水族館まで海沿いをドライブし、ジンベエザメを見たあと、イルカショーを楽しんだ。
イルカショーでは夏休み特別企画として、体長4mのイルカがダイブした水しぶきを浴びる体験があった。
息子と最前列で参加したが、それはもう、巨大なバケツで海水を叩きつけられたような衝撃だった。
予想以上の興奮に奇声を発して爆笑しながら、「人生これだな」とひらめいた。
「実際に足を運び、その場に立って、生身の五感で体験する」こと。
自分自身が体感する「一次情報」の大切さを、久しぶりに思い出したのだ。
最近はテレビやインターネットで、世界さえ知りつくしたような錯覚に陥りがちだ。
だがそれは他人を介した二次情報、三次情報レベルの話であり、本当の意味で「生きた」ことにはならない。
「コピペ」が夏の雑草のように放置された空虚なネット社会に、そろそろ別れを告げる時期がきたようだ。
「一次情報」の思い出を持てば、その後の日常生活に与える影響は大きい。
勤務先の最上階から、遠くに見える海まで広がる平野を眺めるとき、私は不思議なリラックスを感じる。
学生時代にエアーズロック(オーストラリア)を登頂したときと似た条件であると、あるとき気づいた。
カオハガン島(フィリピン)の浜辺で、夕暮れ時に瞑想したことがある。
今でも静かな場所で目を閉じれば、その頃の感傷と生き方の路線変更を思い起こす。
街中や自然の中を問わず、風に吹かれるとき。
離婚後ボロボロになった10年間の末、グアムの熱風の中、家族に祝福された日の感謝を懐かしむ。
人から聞いたり、本で読んだり、テレビで見たり、ネットで知ったりした二次情報、三次情報はもう捨てよう。
たとえ数は少なくても、自分が直接体験して実感した一次情報を生きよう。
息子といっしょにずぶ濡れになりながら、そう思った。
できることなら、離れて暮らしている娘も連れてきて、一緒にずぶ濡れになって笑い合いたかった。
■普通が特別
今回は去年行けなかったエメラルドビーチを見ることができて、その透き通った美しさに感動した。
若い頃からなぜか惹かれる、南国特有のエメラルドブルーの海は、いつ眺めても魅力的だ。
ところが当然ながら、現地の人にとっては、ここは単なる生活の場。
ビーチ沿いの小道に何軒かの民家があったが、中途半端に開いた網戸の奥で淡々と過ごしていた。
私たちにとって「特別」なこの美しい海は、ここの人々にとっては「普通」の風景に過ぎない。
魚として水の中にいるのが当たり前のことで、陸に打ち上げられて初めて「後悔」するように。
いい悪いではなく、このビーチでは「特別が普通」の彼らより、「普通が特別」の私たちのほうが断然トクだ。
逆に言えば、宮崎の生活では気づきにくい「特別が普通」を見落としてはいけないな、とも思った。
■モノより思い出
窓からビーチが見えるホテルの部屋で、妻と息子が楽しそうにしているのを眺める。
海辺でバーベキューも楽しかったが、旅行に連れてきた家族が喜ぶ様子がいちばんうれしい。
沖縄から帰ってしばらくして、霧島温泉にも宿泊。
今回は「湯めぐりパスポート」がサービスでついてきて、5つの温泉を堪能できた。
幼い頃に両親が「ジャングル風呂」に連れてきてくれたことが、今でもいい思い出として残っている。
いろいろすれ違いはあったけれど、ああ、ちゃんと子どもを愛してくれていたんだな…と。
そんな私の感傷を気づかった妻が、どこのホテルか忘れていた「ジャングル風呂」を探し出してくれた。
そこに行ってみると、残念ながら今年の2月で閉鎖されたとのことだった。
昔にぎわっていたジャングル風呂
古ぼけた窓にヤシの葉が貼りついているのを見て、もう過ぎ去った昔のことなんだと寂しくなった。
二度とあの頃には戻れないし、みんな年をとって死んでいくが、それでも確かに「その時」はあったのだ。
今まだ2歳の息子にも、そんな「モノより思い出」をたくさんつくってやりたい。
どれほど覚えているかわからないが、幼い頃の娘にも、会える限りそんな思い出づくりをしたつもりだ。
いつの日か、息子も娘も今の私のように、両親に愛されていたことを思い出してほしいから。
■本は読むな
この夏は、ある意味「人生最大の決意」を実行に移した。
現時点で持っていた本(約1000冊)を「すべて」、ブックオフに売ったのだ。
これまでも何度か、500冊単位で本を処分してきた。
自宅の本棚はもちろん、実家にある書庫にも収まりきらず、どうしようもなかったからだ。
しかし今回の「断行」は、まったく意味が異なる。
高校2年生から47歳の今まで、何度もフィルターにかけて生き残った「バイブル級」まで、すべて手放したのだ。
生きることに悩んで本に救いを求め、むさぼるように読んだ学生時代。
社会人となってからは、いい仕事をして生活と人生の質を高めるために、読書量はさらに加速した。
通算読破冊数は、間違いなく数万冊にのぼるだろう。
私という人間は、これまでに出合った本を「編集」してできている、と言っても過言ではない。
しかし、これは妻からも指摘されたことだが、「大量の蔵書が、生活のプレッシャーになっている」。
何度も読み返したい本ばかりだが、次々と新しい本が登場して、とてもふり返る時間はない。
10冊ほど平行して読むため、常に「読まねばならない」という強迫観念にストレスを感じている。
脳はサバイバルに関わる最重要事項以外は短期間で忘却するから、付箋をつけたフレーズさえ忘れて焦る。
「言葉狩り」をしたテーマで文章に落し込み、ホームページで公開までする意義が果たしてあるのか。
「自分に言い聞かせるように」とあるが、そのレベルでの成長は自分でも認めることはできない。
年齢と今後を考えたときに、人生のコストパフォーマンスが悪すぎる、いや弊害でさえある。
妻と一晩話し合った結果、今回は「厳選」さえやめて、思い切ってすべてを処分することに決めた。
流行りの「ダンシャリ(断捨離)」どころではない、まさに「バッサリ」である。
英語・自己啓発・格闘技に関しては、網羅していない本はないほど自慢のラインナップだった。
内容は実利として活かされなかったが、本が存在しているだけで心の支えとなっていた部分もある。
今は正直なところ喪失感のほうが大きく、今すぐ買い戻したい欲求に駆られそうになる。
その反面、自分で強制した義務感から解放され、「憑きもの」が落ちたような気分もまた事実である。
これからは「浅く広くこなす」のではなく、「1冊を深く味わう」スタイルを楽しめそうな予感がするからだ。
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【男はタ〜ンジュン】 8月13日(土)
スタバでアイスコーヒーを飲みながら読んだ本(※)に、実にユニークな男女の違いが書かれていた。
「男はプライド、女は美」の見出しで、男がいかに表面的で物質的なプライドにこだわるかということ。
常に問題や目標がないと生きられない理由が見事に説明してあって、思わず笑った。
著者のジェームス・スキナーさんは、次の5語があれば、世界中どんな男でも自由に操れると言う。
「今すぐ手帳を開いて、この単語のリストを書き込みましょう」。
「それに気づいた女性の人生って、意外と簡単です」。
その5語とはズバリ、これだ。
「すごい」
「ステキ」
「かっこいい」
「頼もしい」
「お殿様」(笑)←NHKドラマ「功名が辻」なんか見るとナットク!
原始時代から男の本質は「戦士」であり、目に見える獲物や成果を勝ち取らない限り尊敬されない(と思い込んでいる)。
女性から見たらどうでもいいようなことにムキになって、プライドのためには命さえかける勢いだ。
男性には理解しがたい、女性の美への異常なこだわりと同じくらい、いやそれ以上に大事なことなのだ。
男なら誰だって、お金を儲けて美しい女性を連れて、高級車に乗って豪邸に住みたいもの。
戦士として自信を持つには腕っ節の強さも必要で、筋トレや格闘技にハマる。
それができなくなると「キツネとブドウ」のように、禅とか無とか言い始めるのだ、きっと(笑)。
なんだかんだ男は仕事で社会的な評価を受け、地位や名誉や経済力がモノをいう。
結婚しようとすると、相手の父親から「どれくらい愛しているか」ではなく、「どれくらいの給料か」を問われる。
男社会の現実から落ちこぼれたか、最初から逃げているのが、いわゆる「草食系」だろう。
私は40歳を境に「競わない・比べない・争わない」生き方にシフトチェンジし、座右の銘は「足るを知る」。
…と宣言したはずが、ジムの焼き肉パーティーのラムネ早飲み競争で不本意な3位に終わり、今でも悔しくて悔しくて。
優勝するつもりがビー玉が飲み口にひっかかって、妻と息子の前で恥をかかされ、世が世なら切腹ものである。
人生後半で波風の立たない心穏やかな日々を得た反面、オスのオーラが薄まった感じがして、ひそかに迷っていた。
定年退職後に存在意義を見失ったような、「男の人生、これでホンマにエエんか?」的な心の葛藤が続いた。
ヒトとして「生存して」はいるが、オトコとして「生きて」いないことに、野生と肉食のDNAが疑問を抱き始めたのだ。
男はみな見栄っ張りでプライドのかたまりのガキだから、「この女性といればプライドが高まる」と判断すれば好きになる。
逆に(非常に大切なポイントだが)、男のちっぽけなプライドを軽んじる言動を(たとえ無意識にでも)されたら冷める。
男が自分をおだてない(積極的に表現しない)妻より、(たとえ演技でも)飲み屋のママさんのもとに通う理由がそれだ。
そういえば昔私が別れた女性も、私のささやかな、しかし強くこだわっている「プライド」に何の関心も示さない人だった。
自分としては命を削る思いで書いている文章の感想どころか、読んでいるのかいないのかさえわからない。
悪口ではなくこのテーマに関して、言葉にしてもせいぜい2〜3秒なのに、単細胞な男のツボを見事に外した例だと思う。
「すごい」「ステキ」「かっこいい」「頼もしい」「お殿様」を会話にはさむだけで、男なんて単純に喜んで何でもやっちゃう。
なんで女性にはこんな簡単でお得なことができないのかなあ…と、つくづく疑問に思う。
その反面、女性も同じように「どうして男は…」なんて思ってるんだろうな。
ただじっくり話を聞いてくれるだけでいいのに、とか。
※定価1万円の本「愛の億万長者」、柳沢きみお研究家のHONDASANさん(HP)のご好意で貸していただきました。
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【生き直し】 8月12日(金)
母の大けがもようやく山場を越え、退院して自宅療養に入っている。
予定していた霧島温泉旅行も延期になり、楽しみにしていた妻と息子には申し訳なかった。
睡眠不足を解消できたので、気分転換に高城町の観音池公園の流れるプールに連れてきた。
去年連れてきたときは、まだ1歳の息子の反応はいまひとつだった。
2歳になった今年は大はしゃぎで、ハンドルのついたビニールボートに乗ってゴキゲン。
私が水中から目の前に飛び出すのが気に入ったようで、何度も潜水させられた。
息子の水にぬれた小さな背中を見つめながら、親子の不思議さを思った。
この子は今から成長し、やがて大人になり、男としての人生を歩んでいく。
と同時に、血のつながった私も何らかの形で、もう一度生き直しをさせてもらうような気がした。
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【何が起こるかわからない】 8月11日(木)
以下は今日、地元新聞社の読者欄に投稿した文章だ。
時数に制限があるため十分な表現ではないが、備忘録として転記しておく。
+++++
8月9日火曜日、夜8時32分、宮崎市大塚台東1丁目ひまわり保育園東側の下り坂。
犬の散歩中だった私の母が、無灯火のバイクに急接近され、驚いた犬に引っ張られ転倒。
妹の連絡で現場に駆けつけた。
頭部と顔面を強打し前歯は折れ、意識が正常でなかったため救急車を呼んだ。
幸い命に別状はなかったが、70代の母は一歩間違えたら死んだかもしれぬ大けがを負わされ入院。
男は一度バイクを止めて振り返り、様子を見て逃走した。
ひき逃げではないが、家族にとってはそれに相当する行為だ。
男が逃げずに協力したら、もっと早く対処できた。
反射テープを身につけても、相手が無灯火の場合は無意味だ。
妹はバイクと男は目撃したが、無灯火でナンバーは確認できず。
再発を防ぐ目的で警察には届けるが、特定は難しいだろう。
このケースは泣き寝入りするしかないのか。
少しでも良心があるなら、男には母に謝ってほしい。
運転者のみなさん、無灯火は絶対にやめてください。
歩行者のみなさんは、くれぐれもご注意ください。
運転する責任を軽く考えている者は、思ったより多いようだ。
誰の身にも、二度とこんなことが起こってほしくない。
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別人のように腫れ上がった母の顔を、私は氷水を絞ったタオルで冷やし続けた。
脳内出血がなかったのは不幸中の幸いだったが、やり場のない怒りを静めるにはまだ時間が必要だ。
母親を殺人事件で失い地獄を見た母に、老後までこんなひどい目にあわせたくなかった。
余談だが、こんな状況の中で「引き寄せの法則」などとバカげたことを言われたら、私は大反論する。
東日本大震災のように、いきなり理由もなく理不尽な被害に遭うことも現実にあるのだ。
人生は、ゼムクリップが磁石にくっつくような単純なものではない。
母は夜中に何度も、うわごとのようにつぶやいた。
「(人生は次の瞬間に)何が起こるかわからない…」
この言葉だけは、一生胸に刻みつけておこうと思う。
それが今回の事故の私なりの意味であるし、意味のない事故では意地でも終わらせたくない。
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【自分への復讐】 8月8日(月)
昨夜は、家族で宮崎の花火大会に行った。
ドンドン!という音とともに夜空に大輪の花を咲かせる花火の連発に、息子は大喜び。
夜の闇と花火の明かりで点滅する息子の横顔を見ながら、思わず涙ぐみそうになった。
フラッシュバック。
あの年の花火大会の夜、娘を乗せた車の中で、私と前妻は不愉快な口喧嘩になった。
会場が見渡せる橘橋にさしかかったとき、幼い娘が悲しそうに「帰る…」とつぶやいた。
それ以来、私は花火大会が嫌いになって、10年以上近づくことはなかった。
夏も盛りになると、部屋にいてもドンドン!という音が耳に入り、辛くてしかたがなかった。
夏と花火から逃げなくなったのは、2年前の8月に息子が生まれてからのことだ。
「過去はふり返るな」などと気楽におっしゃるが、そんなことができるなら誰も悩み苦しみはしない。
私にはまだいくつも、娘の望みをかなえてあげられなかった場面が、心の傷となって残っている。
あの頃の自分をぶん殴ってやりたい気持ちは、今後の人生のテーマとして忘れるつもりはない。
離婚後の娘との面会日。
一ツ葉の「フローランテ宮崎」の公園で、面会時間の終わりが近づいたとき。
「まだ遊びたい…」と半べそをかく娘を、やむを得ず説得して車に乗せた。
鹿児島の水族館に連れて行って、イルカのショーを見せたことがあった。
大勢の子どもたちから3名だけ、プールサイドに上がったイルカをさわることができた。
手を上げたが残念ながら指名されなかった娘が、「さわりたい…」と残念そうに私を見上げた。
そういうせつない記憶のためか、2歳の息子が悲しそうに泣くと、必要以上に動揺してしまう。
時にはこちらまで目がうるんだりして、あきれた妻に笑われている。
こんなことでは父親失格なのかもしれないが、それがありのままの私なのだ。
大人になってからの人生は、「子ども時代への復讐だ」と言う人がいる。
欲しい物が買えなかった悔しさが忘れられず、一見無駄なコレクションに走るパターンがそれだ。
その意味で私の場合、「離婚時代の自分への復讐」なのかもしれない。
おかげさまで、この歳になってまた最初から、「夫と父親のやり直し」をさせてもらっている。
今の妻と子どもを大切にして、幸せな家族を守ることで、あの頃の自分を打ち消そうとしているかのようだ。
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【自分へのメッセージ】 8月7日(日)
先日は綾町の河原、今日は平和台公園と、妻の手作り弁当を持って家族で自然を満喫している。
真夏の宮崎だというのに、水面や木々の間を吹き抜ける風はほどよく冷えて、この上なく気持ちがいい。
これもまた、クーラーなしの生活に慣れてきた証拠か(笑)。
ベンチに座った2人組の女性が、ギターを弾きながらハモッて歌っていた。
幼い息子が立ち止まって、珍しそうにずっと見つめていた。
その歌詞が印象的だったので、うろ覚えではあるが、書いておきたい。
「今この時を大切に思いながら生きていますか」
「大切な人と過ごしていることに感謝していますか」
「この幸せは永遠に続くのではないと知っていますか」
ありきたりな言葉のようで、今の私にはいちばん心に響く問いかけだった。
スピリチュアルなことを書くつもりはないが、何かからのメッセージ?のようにさえ感じられた。
自分が生きるヒントは、意外なほど平凡な身の回りに転がっているのかもしれない。
遠くに旅をしたり、難しい本を読んだりする必要もない。
ただ、それに気づけばいいのだと思う。
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【運ではなく縁】 8月6日(土)
夕方の公園でにわか雨にあい、家族で屋根つきのベンチに駆け込んだ。
ウォーキングしていた人や犬の散歩中だった人なども、何人か入ってきた。
5分たらずの間、それぞれ声をかけたりして過ごした。
限られた時間とわかっていたので、誰もが終始笑顔で穏やかだった。
相手の欠点が気に障ったり、言葉や態度がもとで争いが起きることはなかった。
人生もまた、明らかに「限られた時間」であることに違いはないのだが…。
やがて雨が上がり、それぞれが元の場所へと戻っていった。
彼らの後ろ姿を見送りながら、これもまたささやかな「縁」なのかなあと思った。
息子を公園で遊ばせなかったり、にわか雨が降らなかったら、私たちがすれ違うことはなかった。
人との出会いに限らず、すべては「運」ではなく「縁」なのかもしれない。
そして「運がいい・悪い」はあるが、「縁がいい・悪い」はない。
「運を呪う」とは言うが、「縁を呪う」とは言わない。
「運」は切り開くもので、「縁」は受け入れるもの。
何かあったら「これもまた縁」と、できれば心を静めてあきらめる。
そうすれば、なんとなくいい感じで生きられそうだ。
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【ホルミシス仮説】 8月4日(木)
昨日のブログを書きながら、「ホルミシス仮説」のことを思い出した。
「たとえ人体に有害とされるものでも、まったく排除してしまうよりは、少しだけあったほうが長生きできる」。
この学説の発表当時は、各国の学会でちょっとした騒ぎになったとか。
放射線でさえ、「少々の被爆は体内機能を活性化させるので健康に貢献する」というのだから。
その他の有害物質や刺激、肉体的・精神的ストレスについても同じことがいえるらしい。
筋トレに励む私が心配していた、運動による活性酸素の発生についても当てはまる。
むしろ活性酸素を除去する酵素や、細胞エンジンのミトコンドリアの性能が高まるそうだ。
何事も悪玉が発生すると同時に、それを駆逐する善玉が生まれるという法則なのかもしれない(逆もまた真なり?)。
それでピンときたのが、「ベジタリアンや玄米食主義者は体が弱くなる」という噂。
化学調味料入りの加工食品を食べるとき、いちいち「これは毒だ」と思わねばならないのは、どれだけ苦痛だろう。
色つきのアイスキャンディーを平気で口にするほうが、かえって免疫力が高そうな印象はある。
ということは、たまにある辛い出来事や悩み事も、いい意味で「必要悪」と考えられるのではないか。
それに気を取られるからこそ、最悪の対象から目をそらしていられるという見えない利得もある。
何も問題がなくなった人の状態とは、意外と「恐ろしいもの」なのかもしれない。
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【自律エネルギー】 8月3日(水)
フィンランドが実施した、健康管理に関する調査の話。
以前、朝日新聞の「天声人語」で紹介されたものだ。
40代前半の男性を600人ずつ、2つのグループに分けた。
Aグループには睡眠・食事・運動など医学的に最も良い生活を指導し、定期的な健康診断を義務づけた。
Bグループには何も指示せず好きなように生活させ、健康診断だけを行った。
15年後、両者の間には大きな違いが現れた。
心臓や血管などの病気や死亡者数で、一方が他方を大きく上回ったのだ。
その「一方」とはなんと、正しい健康管理を徹底させた「Aグループ」だった。
驚いた医師たちは、この調査結果の公表を控えたという。
短絡的に「健康管理は無意味だ」と結論づけられるのを避けるためだろう。
では、この事実が私たちに教えてくれるのは、一体どういうことなのか。
数ヶ月前、私は右手親指のつけ根に痛みを感じ、病院でレントゲンを撮った。
医師からは「老化現象で完治は無理、痛み止めを飲んで週3回の電気治療、右手は使わない」との指示。
もう幼い息子に「たかいたかーい!」ができないのかと思うと、やりきれなかった。
100歳のスキーヤー、故・三浦敬三さんが骨折を逆療法で克服したのを思い出し、自己流で治すと決意。
通院はせず、テーピングでジムの筋トレを続け、結果的にベンチプレスで過去最高を記録。
ふと気がつくと、悩みのタネだった痛みはすっかり消えていた。
この体験談もまた、「医者の言うことを信じるな」などというバカげた主張のためでは決してない。
病院嫌いの頑固者が手遅れになった例はいくらでもあるように、医学のプロをなめてはならない。
フィンランドの例も含めて心すべきは、「自分のアタマで考え行動する」こととのバランスだ。
自分の健康を他者に「おまかせ」「まる投げ」すると、いい結果につながらないということ。
理論的に正しくても、「依存」や「過保護」が抵抗力を奪い、弱さとして現れるのだろう。
逆に考えれば、何事も「自律」の気持ちがエネルギーを生み、強さにつながるはずだ。
そういう視点で、一度自分や周囲の人たちをじっくり観察してみよう。
著名人の言葉ばかり引用したり、次々と起こるブームにふり回されてはいないか。
いつまでたっても成功しない理由、幸せになれない理由が見えてくるはずだ。
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【月の土地】 8月2日(火)
息子の2回目の誕生日プレゼントに、「不動産」を購入した。
といっても地球上のものではなく、「月の土地」なのだが。
冗談のようで、実はエージェントを通じて国連や米・ロに提出される正式な権利書らしい。
広さは約1200坪、深さ約3キロの盆地なので、隕石が飛び散る月面では比較的安全な場所。
地球から見ると満月の左下側、うさぎの模様の尻尾あたりになる。
空気や重力の条件が悪いためか(笑)、拍子抜けするほど安く買えた。
将来月に別荘が建つかどうかはともかく、私は「ロマン」を買ったと思っている。
これからは妻も息子も、死ぬまでずっと、月を見上げただけで幸せな気分にひたれるのだから。
妻は母親になった記念日、息子はこの世に生まれてきた記念日、おめでとう。
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【にわかエコハウス】 8月1日(月)
この暑い中、自宅1階にあるエアコンが、突然ウンともスンともいわなくなった。
15畳のリビングが、一瞬で熱帯と化した。
もともと貸家についていた古いもので、契約上、大家さんには修理の義務はない。
メーカーに修理を依頼したが、部品が製造中止となっていて不可能との返事。
となると、次の引越しのときに無駄になる覚悟で、新しいものを購入するしかない。
さて、どうしたものか?
妻と相談した結論は、「クーラーなしでこの夏を乗り切ろう!」というものだった。
これまでの人生経験と、東日本大震災の教訓から、私の中にはひとつの哲学が生まれていた。
「誰にでも、いつでも、どんなことでも起こり得る」
今回のハプニングなど、十分な想定内(でないと恥ずかしくないですか?)。
「負け惜しみプラス思考」に走るつもりはないが、いくつかの意外なメリットにも気がついた。
どこまで続けられるか自信はないが、初の試みに家族でチャレンジしてみようと思う。
「にわかエコハウス」の体験報告は、いずれまた。