<2011年5月>
【子を持って知る「子」の恩】 2011年5月31日(火)
息子が毎日見ているNHK教育テレビに、「フックブックロー」がある。
子どもがいなかったら、絶対に見なかったはずの番組だ。
幼児向け番組とはいえ、オープニング曲の歌詞には、大人も癒される。
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はしっても あるいても
地球のスピードは おなじです
あせっても のんびりでも
ちゃんと あしたは くるんです
いそぐときほど くちぶえふこう
かなしいときほど にっこりえがお
しあわせは いつも うしろから
おいついてくるよ だからここらで
そよかぜを あおぞらを
ちょっと深呼吸
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子育ての大変さは言うまでもないが、特に私の歳で男児の父親になると、すぐに体力の限界を感じる。
お洒落なインテリアもぐちゃくちゃ、ごはんはボロボロこぼすで、本来の神経質な私なら発狂しかねない事態だ。
にもかかわらず、なんとか精神に異常をきたさずサバイバルしているのは、子どもに「鍛えられた」ということか。
よく行く市立図書館の中庭に、「親子」と題された石像がある。
子犬とたわむれる子どもを、両親が少し離れたところから見守っている。
独りになって十年以上、この像を見るのが辛かった。
今はその像の間を突き抜けて、芝生の上を幼い息子と走る。
キャッキャッと喜びながら、小さな息子が私を見上げてくる。
その無垢な笑顔が、今までの不幸をすべて帳消しにしてくれる。
たまに温泉に行くと、父親が幼い息子を連れてきていたりする。
お湯でキラキラ光る、その小さな背中を見ながら、うらやましくて仕方がなかった。
今はこの腕の中に、誰よりも可愛くて愛おしい、私を頼りにしてくれる存在がある。
「子を持って知る親の恩」のことわざも、たしかにその通り。
でも今はそれ以上に、「子の恩」をしみじみ感じていたい。
「妻の恩」もね!
今日は、3回目の結婚記念日。
3年前の今頃は、グアムのエメラルドグリーンの海を見下ろす教会で式を挙げていた。
再婚して、本当によかった…。
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【寂しいもんか】 2011年5月25日(水)
映画「ライフ・オン・ザ・ロングボード」は、定年退職後にサーフィンにチャレンジするオジサンの話だ。
亡き妻が、ロングボードに悪戦苦闘していた若い頃の男を懐かしがっていたのを思い出し、種子島に渡る。
中年男の再生物語は、内容にかかわらず、私の「ツボ」である。
その中で、50年間一人暮らしだという老女に、男が語りかける。
「…寂しくないですか?」
「寂しいもんか!
あたしの連れ合いや息子は、戦争で逝っちまった。
生きたくとも生きられない人間が、いっぱいいるんだ。
人間、生きてるだけで幸せだと思わないと。
亡くなった人の分まで、長生きしなくちゃね」
たしかにそうかもな〜。
寂しいと「思う」のは仕方ないが、寂しいと泣きごとを「言う」のは、亡くなった人たちに失礼だ。
人の分まで生きるパワーはないが、縁あって生き残っている以上、しっかり生きないと。
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【人生のたった1つの理想】 2011年5月24日(火)
「TED Conference」という、アメリカで定期的に行われる講演会がある。
さまざまな分野の人による、短時間に凝縮されたプレゼンを、ネット上で公開してくれている。
英語や日本語など、音声や字幕が好きなように変えられるところも、とてもありがたい。
この中で最近目に止まったのが、リック・エリアス氏による、5分間のスピーチだ。
http://www.ted.com/talks/lang/jpn/ric_elias.html
彼は2009年1月、ニューヨークのハドソン川に不時着した飛行機の、最前列に座っていた。
タイトルは、「不時着事故から学んだ3つのこと」。
人が死さえ覚悟してつかんだ人生の真実も、たったの5分で、わずか3つにまとめられる。
そして私たちは、コーヒーなど飲みながら、ネット上でその「言葉」を手に入れる。
しかしそのシンプルな言葉に凝縮された意味は、彼と私たちでは天と地の差があるのだ。
それを承知で、いちばん印象に残った3つ目を紹介する。
“The only thing that matters in my life is being a great dad.
Above all, the only goal I have in life is to be a good dad.”
(人生で大切なことは1つ、それは良き父であること。
何にもまして大切な人生のたった1つの目標は、良き父であることです)
極限の体験をした人がそう確信した以上、理屈抜きでその通りなのだろう。
だから私も、良き父であることを「人生のたった1つの目標」としよう。
いや、器の小ささという「現実」があるから、目標ではなく「理想」としておこう。
「良き父」の定義の中には、健康管理や、子どもの母親である妻との関係も含めよう。
尊敬など、されなくてもいい。
良き父で「あろうとしたこと」が、理解されれば。
“I no longer try to be right.
I choose to be happy.”
(今私が優先するのは、「正しさ」より「幸せ」です)
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【東国原英夫を見よ】 2011年5月19日(木)
気持ちの切り替えの下手な私は、まだ今日も引きずって、朝からムカついていた。
一方で単純でもある私は、息子の作ってくれたホットサンドと妻の弁当を食べたら、すっかり機嫌が直ってしまった。
いつものようにトイレに座って、東国原さんのツイッターをチェック。
最近彼がある問題提起をしたところ、賛否両論の意見が多数寄せられたらしい。
はじめは律儀な東国原さんらしく、いちいち返答していたようだ。
ネット上の匿名の書込みって、すべてとは言わないが、昔よくあった「便所の落書き」みたいなものが多い。
言葉を上品にさせていただくと、400戦無敗のヒクソン・グレイシーに、街のゴロツキがいきなり挑戦できる無法地帯。
口蹄疫や津波被害に寄付さえしないような連中が、東国原さんほど努力した人に、誹謗中傷さえ許されている。
笑ったのは、対する東国原さんの返答。
たった3つしかなかった。
「そうですか。」「なるほど。」「ほう。」
最近は「ほう」が続いていて、どの無責任コメントに対しても「ほう。ほう。ほう。」と答えている(笑)。
「ポウ!」はあのマイコー・ジェアクスン、「ほう。」は我らが東国原英夫である。
1対大多数でもあるし、時間のない人だからそうなるのも無理はないが、「ほう。」でも一応返事なんだ。
考えてみれば、あれほど酷いことを言われても前に進み続ける彼と比べると、私の不快感など「屁」みたいなものだ。
東国原英夫がヒーローである私としては、昨日から続いている「八つ当たり」に対しても、「ほう。」で受け流すとしよう。
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【そんなつもりじゃなかった】 2011年5月18日(水)
「『そんなつもりじゃなかった』というあとからの言い訳は、その言葉によって現に怒ったり、傷ついたりした人がいる以上、通りません」
そう喝破したのは、学者で武道家の内田樹さんだった。
コミュニケーションを「自分の言葉が原因で引き起こした相手の反応、結果」と定義すれば、たしかにその通り。
「そういう意味で言ったんじゃない」というのは、「あんたの受け取り方が間違ってる」「悪いのはあんただ」と言っているのと同じだ。
巧みな言い逃れで相手を悪者に仕立て上げることで、自分は「善人」の立場を確保しようとする人が、どれだけ多いか。
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや(親鸞)」という、一見矛盾した言葉の本当の意味は、きっとそこにある。
…と、47年と1ヶ月ちょっとの間、ほんの数日まで、私はそう思っていた。
もちろん100%絶対そうだということはないわけで、まさに今日は、その逆の立場にさらされている。
カウンセリングの相談者から、私の言葉じりをとらえられ、その人がうまくいかない「原因」とされたのだ。
5年間で最も理不尽な相談者家族からのクレームに、私もできた人間ではないので、正直とても不愉快に感じる。
相談者の多くに共通するのが、基本的に「他人のせい・環境のせい・条件のせい」、つまり「自分以外のせい」。
だから心が安らがないのだが、それに気づくことだけは、頑なに拒否する。
私も含めて、人は誰でも、言い訳探しの天才である。
その相談者も、周りがいくら「原因」を取り除いてやっても、予想だにしなかった「新原因」を次々と見つけてきた。
自分からは一切動こうとせず、延々と人間不信の恨み事をくり返し、引きこもるのみだった。
実は今日、その人の今後に影響する、ある「イベント」があった。
詳しくは書けないが、それに参加さえすれば、結果は問わないという好意的なものだ。
ところが本人はそれさえも嫌い、以前から「出たくない」と逃げ腰だった。
その相談者は、イベント直前になって私と話がしたいと言い出し、1時間ほど話を聞いた。
アドバイスを求められたので、できる限りの配慮をして、風邪でろくに出ない声で「あくまで私個人の意見」と断って述べた。
すると今日突然そのイベントを無断欠席し、「参加するつもりだった」が、私に「傷つけられた」と家族から苦情の電話。
心が弱くなっている相談者が、行動することから「逃げる」ことは、十分に「理解」できる。
しかし、その理由を人のせいにする「ズルさ」には、「共感」することは難しい。
そんな人ばかりを相手にする「因果な商売」を選んでしまったのも、何かの縁だろうが。
とはいうものの、相手に言わせれば、まったく違ったストーリーができ上がるはずだ。
水かけ論は世の常で、みんな自分の都合のいいようにしか言わないからね。
今の気持ちをひとことで言うと、「そんなつもりじゃなかったのに!」(笑)。
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【沈黙で語る男】 2011年5月12日(木)
ある塾講師が、耳の聞こえない生徒が一人だけいたため、一年間黒板だけで講義をした。
本来なら口で説明することを、ものすごい勢いでチョークで書いていくのだ。
その様子がテレビで放映されたのを見て、いたく感銘を受けた。
いつか自分も…と思っていたら、今日が「その日」になった。
本当にひと言もしゃべらずに、いくつかの授業をこなした。
風邪で声が出ないからという、どうにも情けない理由だが。
しかも一年間どころか、一日でギブアップ気味。
黙ったっま板書と身ぶり手ぶりというのが、もどかしくてしょうがない。
つい声を出そうとして、ヒーヒー音を出すだけという情けなさ。
でも生徒たちの学習量を見ると、いつもより今日のほうが多いかも(笑)。
教師は必要以上に教えたがりで、しゃべり過ぎなのかもしれない。
声が出るようになったら、少し口数を減らしてみよう。
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【のど元過ぎても熱さ忘れず】 2011年5月11日(水)
少し前まで、歯の痛みで夜中に何度も目が覚めていた。
昔から歯が弱く、デンタルフロス、歯間ブラシ、ジェットウォッシャーまで使っている。
それでも虫歯に悩まされ続け、今日に至っても状況は変わらない。
ここ最近は、たて続けに風邪をひき、体が重く不快感が抜けない。
食事のバランスや運動など、自分なりに健康には注意している。
授業が終わるたび、石鹸で手と鼻・口周りまで洗っているのに、理由がわからない。
昨日は声がまったく出なくなり、午後からは仕事を早退。
そして今日はとうとう、まる一日休んでしまった。
あれこれ言われず休みが取れるだけでも、ありがたい職場なのだが。
仕事とはいえ、生徒の相手はしながら、家では寝込んで息子の遊び相手ができない。
妻には職場まで送り迎えをさせて、病院にまで連れて行ってもらった。
私が最も自己嫌悪におちいる、典型的な「本末転倒」だ。
薬を飲んで、ただゴロゴロと過ごすだけ。
本を読む気力もなく、ボーッとしていた。
そして、ある意味「悟った」。
歯ものども頭も痛まず、せきも熱も出ず、普通に夫や父としての役割をこなした日。
これといって何も起きない、ごく平凡な、何の変哲もなかった一日。
これをもって「幸福な一日」と定義し、夜寝る前に手を合わせて「感謝」しよう。
今日から、もし「座右の銘は?」と聞かれたら、「少欲知足」と答えよう。
このいまいましい風邪が抜けて、のど元過ぎても、決してその熱さを忘れまい。
普通がいちばん、退屈はすばらしい、平凡ほど大きな理想はない。
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【サウナで泣け】 2011年5月7日(土)
週2回ほど、ジムでウェイト・トレーニングをしている。
ベンチプレスのあと、両ひざに手を置いて、うつむいたまましばらく休憩。
筋肉への強い刺激で、血液が体中を駆け巡るのがわかる。
この感覚って何かと似てるなあ、と思っていたら、サウナのあと水風呂から出た時。
熱くなった体に水をかけて汗を流し、指で耳栓をして、冷たい水風呂に頭の先までつかる。
上がってデッキチェアに寝転ぶと、全身がジンジンしてきて、すごく気持ちがいい。
これらの感覚は、変な話だが、私にとっては「禅」のような状態だ。
何かに集中して力を使い果たすと、頭の中が真っ白になって、他のことを考えなくなる。
わざわざお寺で座禅を組んだり、怪しげな音楽を流して瞑想する必要はない。
というわけで、日頃のモヤモヤをかかえながら、今夜も一人でサウナへ。
行くまでは面倒くさいが、行ってしまうとチョー気持ちイイあたりも、ジムと同じ。
いつも「来てよかった、やっぱり定期的に来んといかんな…」と思う。
サウナ→水風呂のワンセットは、最初の一回がいちばんいい。
ビールの最初の一杯で「カーッ、ウマイ!」というのに似た感じか。
アルコールを飲まないからわからないが、きっとそうだろう。
素っ裸で寝転んで、空を見上げる。
こんな真似ができるのも、露天風呂ならではだ。
ボーッとしているうちに、過去のいろんな出来事が頭に浮かんでくる。
今夜はなぜか、じいちゃんとばあちゃんに可愛がられていた、初孫の自分の姿。
もうすぐ2歳になる息子を、昔の自分と重ねて見るからかもしれない。
彼も中年を過ぎた頃、こんなふうに、今まで自分がしてもらったことを思い出すだろうか。
ばあちゃんが殺されて、半狂乱になった母の姿を見ながら生き抜いた、地獄の数年間。
そんなことがありながら、離婚などやらかして親不幸を重ねた、バカヤロウな自分。
娘と引き離されて、たぶん精神にどこか異常をきたしたまま過ごした、灰色の10年間。
もし今、目の前にいる幼い息子と、突然会えなくなってしまったら…。
想像しただけでもゾッとするが、当時はそれが、現実に強いられたのだ。
だからこそ、今回の津波で子どもを失った人たちの悲しみが、胸に突き刺さる。
どれだけ辛く悲しい時を耐えていることだろう、そう思っただけで、涙が出てくる。
親が子どもの遺体を見つけたというニュースなど、とてもまともには見られない。
サウナのテレビに、避難所で天皇皇后両陛下の訪問を受け、感激する被災者の笑顔が映された。
前向きに生きようとする姿は力強く、流れるBGMも明るめで、「希望」が強調されていた。
しかしそれは、なんだかんだいっても、生き残った人たちの話だろう。
ヒネクレ者の私は、どうしても、ネガティブな側面を見つめてしまう。
取材画面の裏に隠された、亡くなった多くの人々の無念を思うと、素直に受け入れられないのだ。
とまあこのように、私はサウナにおいて、無意識のうちに「内観」を行なっている。
世間で流行っているのとは真逆の、後ろ向きでマイナスなメンタリティで、だ。
うす暗い中で、水びたしの体で涙を流したところで、誰も気づきはしない。
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【パターンの中断】 2011年5月6日(金)
昔、ある自己啓発セミナーに出たときのこと。
参加者同士で語り合う「ワーク」に煮詰まってきた私は、外の空気を吸いに会場を出た。
他にも似たような参加者たちがぶらついていて、安心感のようなものを持った。
しばらくして会場に戻ると、こちらの様子を見ていた講師が、マイクで声をかけてきた。
「あなた方が今までどんな生き方をしてきたか、これからどうなのか、すべてわかります」
そして彼は、ひとつの話を始めた。
その内容は、あれから10年が過ぎた今の私にとっても、大きなテーマとして残ったままだ。
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生活の中でくり返し発生する問題の多くは、同じ行動パターンが原因となっています。
たとえば、何度も恋愛に失敗して、いつも次の相手を探している人がいます。
あなたは、その人にはっきり言ってあげなければなりません。
「新しい関係に入っても、そこにあなた自身を連れて行くのだから、問題は解決しませんよ」と。
不景気だからうちの会社は儲からない、と言う経営者がいます。
もし景気が良くなっても、やはりそこに自分自身を連れて行くから、結局はダメなんです。
発想を変えなければいけないんですね。
必要なのは、新しい恋人ではない、新しい伴侶ではない。
新しい環境ではない、新しい状況ではない、新しい出来事ではない。
新しい景気ではない、新しい上司ではない、新しい政治家ではない。
必要なのは、「新しいあなた」なのです。
今の状況は、あなたに与えられているのだと、私は思います。
あなたに成長をもたらすために、この状況があるのだと。
あなたがその教訓を学ぶまでは、同じようなチャレンジが与えられ続けるでしょう。
あなたはまだ、問題の本当の原因が、自分自身にあることに気づいていません。
しかし自分の人生には、自分で責任を取らねばならないのです。
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必要なのは、新しい自分。
気づいていないのではなく、気づきたくなくて、気づかないふりをしているのかもしれない。
いや、自分の行動パターンを変えるのは、大人でもそれだけ難しいということか。
カウンセラーとして日々相手をしている、不登校の生徒たち。
教室に行けない理由を次々と訴えてくるが、すべて解決したところで、頑として動こうとしない。
クラスが変わってもやはり行けないのは、ひょっとして自分自身に原因があるのでは…。
その部分だけには、本人も親も、決して触れようとはしない。
次々と転職したり、離婚をくり返す人。
いつでもどこでも、同じような人間関係のトラブルを起こす人。
巧みな言い逃れで、他人を「悪者」に仕立て上げる、自分だけは罪のない「善人」たち。
私たちは日常生活において、どのようなパターンをくり返しているか、真剣に考える必要がある。
そして、強烈な感情を持ってそのパターンを中断し、断ち切るべきだ。
「もう一度 やり直せたら…/ばかだぜ/そんな話はもう止めよう
僕が僕である限り/何度やっても/同じことの繰り返し」(浜田省吾「ラスト・ダンス」)
しょぼくれた人生を一変させるため、「一生に一度だけ」の前提で参加した、自己啓発セミナー。
思えばあれもまた、当時の私なりに必死な、「パターン中断」のための行動だった。
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【麻の束と金のかめ】 2011年5月1日(日)
ある男が、険しい山道を、麻の束を背負って歩いていた。
途中で、金のかめを見つけた。
男は荷物を下ろし、一晩中悩んだ。
麻を背負って行けば、金のかめは持って行けない。
金のかめを背負えば、麻は置いていかねばならない。
金のかめも大事だが、せっかく麻を背負って険しい山道を歩いてきた苦労が惜しい。
男は結局、金のかめは置いたまま、また麻を背負って歩き始めた。
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この短いストーリーは、今の私に大きな教訓を与えてくれる。
男の選択はいかにも愚かなこと、という仏教の教えだ。
本物の宝に出会ったなら、いくら苦労して手に入れたものでも、「ガラクタは捨てる」。
古くさい知識、手あかのついた悟り、先入観と偏見のすべてを打ち捨てよ、とある。
年を取るということは、自然の「事実」であると同時に、「技術(アート)」でもある。
「すべきでないこと」が「すべきこと」より多くなるのは、当然のことだ。
これまでの何を捨てて、これからは何を持って行くか(最終的にはすべて手放すわけだが)。
50年近くも生きていると、相当な金と時間を費やして手に入れた、物や能力が手元にある。
しかしそれらも、「今・ここ・自分」に意味をなさない時代遅れなものだと素直に認め、切り離す。
いちばん大切なことは、いちばん大切なことを、いちばん大切にすること。