<2011年3月>

【断・捨・離】 2011年3月8日(火)

今の私を知る人には、ちょっと意外なタイトルでしょ?
私はアマノジャクだから、一時的なブームに近づかない。
踊るのはいいが、踊らされるのがイヤなのだ。

最近なら、トイレ掃除とか。
掃除をすると清潔になるし、気分もスッキリしていい。
しかし汚いイメージのトイレに限定すること自体、裏に隠れた商魂を感じてしまう。

引き寄せの法則、なんてのもあったな。
キミは磁石か!(笑)
ていうか、悲劇に見舞われた人に「あなたが引き寄せた」なんて言えるのかよ?

昔々、いわゆる学のない人々の間に、「念仏宗教」が流行した。
ただ「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで、往生できるのだと。
教養ある(はずの)現代人にも、似たような「口ぐせ」にハマっている一群がある。

誰がどう見ても嫌なことが起きているのに、「幸運」や「感謝」の言葉をくり返す。
理屈屋の私にはマネできない、彼らの素直な信仰の実践には、敬意を表したい。
だが「教祖」の教えを盲信するだけで、自分の頭で考えようとしない傾向はどうか?

とにかく、自己啓発ブームにはもう飽きた。
ビジネス本、スピリチュアル系も同じ。
不自然ハイテンションな人々に、断捨離〜(笑)。

断捨離は、数年前の話題本「捨てる!技術」の焼き直しだが、独特なネーミングがウケた。
当時続かなかった人たちの、「今度こそ!」という再燃が火をつけた模様。
極論には落とし穴がつきもので、やがてブームは去り、幸せになるのは本の著者のみ。

独身時代の私は、無駄な物は一切ない部屋に住む、まさに「ダンシャリアン」(笑)。
モデルルームのようにシンプルだったが、当時の彼女(今の妻)に言わせると、「くつろげない」。
心の整理のつもりで整理整頓したら、その心が落ち着かなくなるという本末転倒。

批判は誰でもできるので、断捨離のコンセプトで学ぶべきポイントを。
まず基準として、「時間軸は今、重要軸は私」の視点。
まあ、これも禅の「今・ここ・私」の言い換えにすぎないが、つい忘れて「迷ってブレ」がちではある。

モノが捨てられないのは、「過去執着」「現実逃避」「未来不安」のどれかに陥っている。
「思い出の物は捨てられない」「そのうちやろう」「いつか必要になるだろう」などだ。
私は3つとも当てはまるが、その気持ちを「断って捨てて離れ」ないといかんわけね。

ただね〜、居心地のよさって、それぞれ違うものだから。
作家のように、本と資料に囲まれた、穴蔵のような部屋が落ち着く人もいるだろうし。
心の病気の人がやると、ついには自分自身を「断捨離」する気になりかねない。

個人的には、娘が幼いこ頃に使っていた小さな水着を処分したのが、今でも心残りだ。
本には「写真に撮って残しておく」と書いてあるが、ウェットである人間性を無視した「技術」だ。
目の前に存在する「小ささ」や「手ざわり」が、思い出を生き生きとよみがえらせたはずなのに。

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【ジャック・アマノ理論】 2011年3月7日(月)

私の寝つきは、妻によると、「30秒」というほどいいらしい。
ところが、夜中にトイレに起きたり夜明け前に目が覚めて、二度寝ができない。
たぶん、年のせいだろう。

寝ておかないと、明日キツイぞ…などと考えると、ますます眠れなくなる。
そこで、もう眠らなくてもいいや!と開き直って、思索の時間と位置づけた。
すると、いつの間にか深い眠りにおちて、今朝も遅刻ギリギリだ(笑)。

どうも人間は、アマノジャクな生き物のようだ。
「せねばならない」と思うと、できなくなる。
「しなくてもいい」と思うと、できてしまう。

「しなさい」と言われると、するもんかと思う。
「してはいけない」と言われると、したくなる。
「してもいい」と言われると、したくなくなる。

子どもの勉強なんか、そうだろう。
大人だって、似たようなものだ。
「手放せば、手に入る」というパラドックスに満ちている。

幸せなんかいらないと言える人は、けっこう幸せな人じゃないか?
ストレスがあって当然と思えば、ストレスを感じなくなる。
腹を立ててもいいと決めれば、腹が立つことが少なくなりそうだ。

成功について語る人の多くは、まだ成功していない人。
「自然体で」と言う人を見ると、落ち着かず不自然な様子。
「リラックス」と自分に言い聞かせる人が、いちばん緊張している。

言葉にして意識したために、かえってそこから遠ざかってしまう皮肉。
そういえば、若かった頃は、若さなんて意識していなかった。
健康とはある意味、健康のことを意識しない状態でもある。

人生、「こだわらない」ことが大切ですね。
と、「こだわらない」ことに「こだわっている」私です。
いや、「こだわる・こだわらない」という問題に「こだわらない」んだ、とムキになる(笑)。

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【自前の幸せ】 2011年3月4日(金)

感情には、外からくるものと、内からくるものとがある。
外からくるものは、出来事や他人に反応し、一喜一憂する感情。
内からくるものは、外とは関係なく、自分の中でつくり出す感情だ。

「おいしいものを食べる」と、「おいしく食べる」の違いは?
前者は、自分の外側にあるものに反応している。
おいしい料理がそこにないと、不満に感じてしまう。

後者は自分自身、つまり内側の感じ方による。
フランス料理フルコースからカップヌードルまで、何でも楽しめる。
一見マイナスな出来事の中にも、プラスの種を見つけ出せる人だ。

外側を求めると、キリがない。
内側を求めれば、条件はない。
「出前」の幸せから「自前」の幸せへ、なんてね。

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【珈琲の味わい方】 2011年3月3日(木)

焙煎された珈琲豆は、ストレートもよし、ブレンドもよし。
まずは、ブラックでそのまま味わってみる。

次に、好みによってミルクや砂糖を入れて、アレンジする。
「邪道だ」というのも一つの好みにすぎず、飲み方は自由だ。

嫌な出来事や感情についても、同じようなことがいえそうだ。
まずは事実として、そのまま味わってみる。

次に、好みによってプラス思考でもマイナス思考でも、アレンジする。
もちろん、何もせずに放っておくのも自由だ。

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【理不尽】 2011年3月2日(水)

信じられないような理不尽を経験した者にとっては、日常の小さな理不尽など気にならないもの。
私の場合、祖母が殺害されたことと、離婚後に娘との面会を拒否されたことが、過去最大の「理不尽」だった。
あの頃のことを思えば、日々聞かされる相談の内容など、失礼ながら悩みのうちには入らない。

あるカウンセラーは、子どもが小児がんと診断され、突然の入院。
その間、不登校の親が涙ながらに語るのを見て、「健康なんだから十分じゃないか」と怒りさえ感じたという。
私もまた、毎日目の前に子どもの姿を見て、あれこれ悩むことのできる親が「うらやましい」とも思う。

自分がいちばん不幸のように感じる人は、実話映画「潜水服は蝶の夢を見る」を見るといい。
フランスのファッション誌「ELLE」の編集長だった主人公が、42歳のとき突然脳梗塞で倒れ、左目以外は動かなくなった。
潜水服に閉じ込められたような彼から見た、普通の人々の「楽園のような」映像に、自分がいかに幸せか思い知るだろう。

成功や幸せばかり求めて、上ばかり見てるんじゃない。
たまには、「下」を向いて歩こうよ。
ほとんどのことは、どうでもいいこと。

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【言い訳】 2011年3月1日(火)

ちょっと面白かった本「読む!深イイ話」より。

伊集院光のラジオ番組に、立川談志が出演したときのこと。
伊集院は「僕が落語をやめた理由は、若い頃の談志師匠の落語をテープで聞いた時に、実力の差を痛感してしまったからなんです」。
その時、談志は言った。

「うまい理屈を見つけたじゃねえか。
 そん時のおまえさんは、ただ単に落語がやめたかったんですよ。
 そん時に、たまたま俺の落語を聞いた。
 他人のせいにしてやめるなら、自分にもよそにも理屈が通る。
 まあ、嫌になるのに理屈なんぞはねぇわな」

さ・す・が!
下手なカウンセラーより、よほど人間の心理に精通している。
人はうまくいかない「理由」を挙げるが、実はその裏には「目的」が潜んでいる。

「人間関係のトラブルで学校や職場に行きづらい、やめたい」
カウンセラーの私のもとには、そんな訴えが毎日のように寄せられる。
しかしそのトラブルが解決しても、また別の「理由」を探してきて、結局行こうとはしないのだ。

本音では、集団で学ぶことや、働くことから逃れたい。
だがそれでは単なる怠け者と見られるので、無意識?に問題や理由を見つけ出して訴える。
「被害者」の立場にいれば、談志さんが言うように、「自分にもよそにも理屈が通る」わけだ。

昔やっていた武道の道場で、「黒帯の先輩たちの指導に納得できないから」やめる、と言った人がいた。
その時に師範は、「本当の理由が他にあるのに、人のせいにして辞めるのは卑怯じゃないか!」と一喝。
本人は「正しい弱者」を演じているつもりでも、師範には「ずるい言い訳」と見抜かれていた。

私もこれまで、あれこれ始めては、次々とやめてきた。
そのたびに「自分以外」のせいにしてきたが、今考えると、要するに自分がダルかっただけ(笑)。
厳しい見方ではあるが、この事実を避けていては、いつまでたっても「心の平安」は得られないよ。

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