<2011年2月>

【サプライズ】 2011年2月23日(水)

昨年の今日、妻の誕生日に、ホテル「シェラトン・グランデ・オーシャンリゾート」に宿泊。
まだ息子が乳離れしておらず、母親から離れられなかったので、3人で温泉と食事を楽しんだ。
その時に妻に約束したのが、宮崎一の高級スパ、ホテル39階にある「バンヤンツリー・スパ」に連れて行くこと。

一年後の今日、まだ話ができない息子とテレパシーで交信して、彼女をその究極のリラクゼーションに招待した。
私の最高の贅沢である、オヤジが集まるサウナ&マッサージ月イチ4500円とは比較にならない、目玉が飛び出るような料金設定。
宮崎の最高級ステーキが、何枚でも食べられる〜(^^;

〜メッセージカード〜
「ママへ
 ママ、お誕生日おめでとう。
 パパと遊んで待ってるから、今日はゆっくりスパを楽しんでね。
 いつもありがとう。
 いおり」

90分後、恍惚とした表情で出てきた妻に聞くと、まさに「お姫様状態」だったそうだ。
ダイエット中だから、ホテルのカフェバーでノンアルコールカクテルを飲もうと誘った、苦心のサプライズ。
喜んでくれてよかった。

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【またまた「死」について】 2011年2月18日(金)

実はある意味、私たちは毎日のように「死んでいる」。
ある時から意識がスッとなくなる、「睡眠」のことなのだが。
睡眠と目覚めのくり返しは、いわゆる「生まれ変わり」のようなシステムかもしれない。

しかし、私たちの死への本当の恐怖は、「自分の存在が永遠に消え去ってしまう」ことにある。
意識も記憶もすべて失って、暗闇か真っ白かわからないが、まったく無の状態に戻る。
生まれる前もそうだったから、別に構わない気もするが、一度手に入れたものは失いたくないのが人間のエゴだろう。

エゴ、つまり自意識過剰が、遅かれ早かれ誰でも100%死ぬ恐怖から逃れようと、「生」の時間を無駄にする。
どうせわかりゃしないことなのに、こんな駄文を書いて貴重な残り寿命を浪費している、今の私のように(笑)。
形は千の風でも何でもいいんだけど、生身の人間である私が思うに、自我を失うのは正直イヤだなあ。

ひとつのヒントとして、いや、なぐさめかもしれないが、こんなたとえ話を聞いたことがある。
海で、もうすぐ岩に当たって砕け散る1つの波が、「消えてなくなるのは嫌だ」とゴネた。
すると別の波が、「君は大きな海の一部なんだから、波としての姿が変わっても、ずっと海の中にいるのは同じだよ」。
私たちの命も、地球上に生命が誕生して何十億年かの歴史という「海」の、小さな波の1つとも考えられる。

岸見さんは大病をして以来、次のように思うようになったと書いている。
「何か大きなものと一体化することで個性が消えるとしても、死んだら何もかもなくなるとしても、それでもいいではないか」
今こうして生きている時も、自分という人格は一人で完結しておらず、他者との関係性においてのみ存在しているからだと。

姿形ある生き物として動いているのは、命を表現する方法の1つにすぎず、他にも存在パターンがあると思いたい。
実際、長年会っていない人のことを思えば、相手が生きていようが死んでいようが、お互いそう大きな問題ではない。
私の息子だって、自意識のない胎児の頃から、特に母親にとっては間違いなく、立派なひとつの「人格」だったし。

仮に両親が認知症や植物状態になったとしても、彼らは子である私にとって、かけがえのない「人間」であり続ける。
とすれば、人はたとえ死んでも、残された家族や親しかった人たちにとって、ずっと同じ存在のままともいえる。
多少、コミュニケーションの方法は変わってくるだろうが…。

それでも時々、こんな声が私をそそのかす。
「どーせ最後は死んじゃうんだから、ぶっちゃけ何やっても無駄だし、どーでもいいことばっかじゃない?」
これですっかりヤル気を失う場合もあるし、いい面としては、日常の悩みや問題がバカバカしく思えてくることもある。

これに対して、人生論っぽい本なんかに、よくこんなことが書かれてある。
「たとえあなたが死んでも、残された人々の記憶には思い出が残るから、本当に死んだことにはならない」
でもそれって、次に示す純然たる事実の前では、期間限定の気休めにすぎないことに気づく。

「たとえばあなたが偉大な文学作品を書き上げ、今から数千年に渡って読み継がれていくとする。
 しかしいつかは太陽系が冷却し、あるいは宇宙が徐々に縮小するか崩壊する。
 その結果、あなたの行った努力の痕跡は、あとかたもなく消え去ってしまうでしょう」(トマス・ネーゲル)

こりゃ困ったな〜(笑)。

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【ふたたび「死」について】 2011年2月17日(木)

「死は、我々にとって何ものでもない。
 なぜなら、我々が存在する時、死は存在せず、死が存在する時には、我々は存在しないからである」(エピクロス)

なるほど、確かにね(笑)。

「死が怖ろしいものだと考えるのは、知らないのに知っていると思っていることだ」(ソクラテス)

そう言われてみればそうで、怖いと思うのは、ひとつの「知ったかぶり」ともいえる。

哲学者の岸見一郎さんは、アリストテレスが論じた「キネーシス」と「エネルゲイア」で、生きることを説明している。
キネーシスとは、「始まりと終わり」がある、直線を進んでいく運動のこと。
ほとんどの人が、「生まれてから死ぬまで」を、このイメージでとらえているだろう。

キネーシスでは、目的地に着くことが重要になる。
だからその途中は、目的地に着いていないという意味で、未完成で不完全といえる。
若くして死ぬことを「道半ばで倒れる」と表現するのは、キネーシスのとらえ方だろう。

一方のエネルゲイアとは、「今ここでしていること」「今ここにあること」が、もうそれで「完結」しているという考え方。
この微妙なイメージを私の筆力で説明するのは難しいが、ロマンチックに表現すると、「一瞬が永遠につながる」みたいな。
それぞれの「今ここ」が完成品として、独立した1つの価値を持っており、単なる将来への準備行動ではない。

たとえばダンスは、今ここで踊ることに意味があって、ダンスでどこかへ行こうとする人はいない。
旅も同じで、家を出た瞬間も目的地に着く直前も、エネルゲイアの考え方では、それぞれの時点がそのまま「旅」。
これがキネーシスになると、途中の景色やハプニングなどより、効率的に目的地に到着することが望ましい。

幼い子どもは、まだ大人になっていないから未完成とはいえず、子どもとして「完全」な姿だ。
種から芽を出したところに、「おまえは花が咲いてないから、植物として未熟だ」と言うのもムチャだろう。
その時点で、芽としてはすでに「完成」の状態なのだ。

岸見さんは、人生を「エネルゲイア」の視点でとらえてはどうか、と提案している。
どこかに到達することを待たなくても、「今」「生きてしまっている」というのが、生きることではないかと。
そう考えられるようになると、人生の「時間」に対する見方がずいぶん変わってくるように思う。

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【ボーイズ・ビー・キリギリス】 2011年2月16日(水)

イソップ寓話の「アリとキリギリス」。
海外の結末では、アリはキリギリスを突っぱねて、キリギリスが餓死してしまうものが多い。
日本ではそれを書き換えて、キリギリスに同情したアリが、救いの手を差し伸べるパターンもある。

宗教評論家のひろさちやさんは、「ずぼら人生論」で、次のように書いている。
前者は、「勤勉なアリとして生きなさい、キリギリスのように怠けてはいけない」という価値観の押しつけ。
後者もまた、「困っている人に無関心ではいけない、親切にしなさい」という価値観の押しつけである。

そこで、かつて新人類と呼ばれた若い世代が、新たな結末を作り上げた。
キリギリスが何度ドアをノックしても、いっこうに返事がない。
不審に思ったキリギリスが裏口のドアを開けると、なんとアリたちはみな働きすぎて、過労死していた。
キリギリスはというと、アリが蓄えていた食糧で、悠々と冬を乗り切った。

最近の若い人たちは、さらに新しいバージョンを考え出した。
キリギリスは、夏の間に練習した音楽の腕を活かして、コンサートを開いて生計を立てる。
貯えがあるアリは、チケットを買って心ゆくまで音楽鑑賞を楽しんだ。

前者は働きすぎに警告を発し、未来はどう転ぶかわからないことを示唆している。
後者は、それぞれ自由な価値観で生きて、お互い余計な干渉をせず、認め合いながら楽しく生きる世界。

どちらも単純に面白いと同時に、今の日本社会をつくった大人たちへのアンチテーゼともいえる。
将来のために今を犠牲にするという、今まで教えられてきた生き方だけでは、もはや通用しない。
新しい時代にマッチした生き方のヒントが含まれる、意外と深い「寓話」なのかもしれない。

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【みんな物語を持っている】 2011年2月15日(火)

珈琲豆を手で挽いている時、1粒飛び出て床に落ちたとする。
私はそれを水で洗い、ティッシュでふいて、またミルに入れる。
別にケチでやってるわけではないし、そうすべきと言うつもりもない。

ブラジルでコーヒー農家に育てられ、実に熟して収穫され、はるばる海を越えて日本にやって来た。
そして宮崎の地で焙煎され、色と香りを変えて、美味しく飲まれるために私の手元に届いたのだ。
この1粒の珈琲豆がたどってきた道のりを想像すると、床に落ちたくらいでポイと捨てる気にはなれない。

心理カウンセラーの衛藤信之さんが、コップ1杯の水について、禅寺の住職から学んだエピソードを紹介している。
今飲んでいる水は、ただの水でも、いつもの水でもない。
雲から降った雨が地面にしみこみ、大地の栄養分を吸収しながら土の中を通り、貯水池から水道管へ運ばれ、蛇口からそのコップへ注がれた。

しかもそれは、蛇口をひねってコップを差し出した時に、たまたま流れ出た水だ。
その時間が少しでもずれていたら、決して出合うことのなかった「特別」な水。
そのコップ1杯の水は、今日この時しか出合えない、とても縁の深い水なのだと。

同じく衛藤さんは、1個のハンバーガーについても、アメリカインディアンから聞いた「物語」について書いている。
ハンバーガーくらいつべこべ言わずに食えよ、という見方もアリだろう。
それでも、たかがジャンクフードの背景に、ここまで詩的に空想を広げられるのも、心豊かだからこそだろう。

「そのパンはアメリカの大地を渡る風の中で揺れていた小麦からできているだろう。
 そのビーフはまた別の大地で草を食み、ゆっくり流れる雲を見ながら成長した牛が姿を変えたものかもしれない。
 そのレタスは大地の香りを嗅ぎ、虫たちのささやきを聴きながら大きく育ったに違いない。
 そのトマトは太陽の光を吸い込み、朝露に輝きながら色づいていったのだろう。
 今、君の手の中にあるハンバーガーには、そうした自然すべてが詰まっている。
 君は大自然とつながっているんだ。
 単なるハンバーガーと思って食べる時、そのストーリーは死んでしまう。
 しかし、ハンバーガーにも自然や宇宙を感じる時、それは特別なごちそうになる」

この深く温かい視点は、人や出来事を目の前にしても、同じことがいえる。
今過ごしている時間をじっくりと味わえて、思考の奥行きもずいぶん違ってくると思う。

そう考えると、日本人の「いただきます」と「ごちそうさま」は、実に素晴らしい言葉であることに気がつく。
命をいただくことはもちろん、食事として出されるまでにかかわった、すべてに感謝する気持ちが表されている。
自然の中で生かされていることを思い出させてくれる、古くからの日本の教育の結晶といえるだろう。

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【鈴木重子を聴きながら】 2011年2月14日(月)

昨日は朝から、家族でクタクタになるまで遊び回った。
夜、妻が2階の寝室で息子を寝かしつける間、私は1階のキッチンで皿洗い。
BGMは、久しぶりの鈴木重子“Just Beside You”。

十数年前、離婚して娘と会えなかった頃、同じ境遇の父親であるSさんと知り合った。
Sさんは当時、大手企業の中間管理職で、高級マンション最上階の角部屋に住んでいた。
意気投合した私たちは、ネット上でもオフ会でも、よく絡むようになった。

だがしばらく経つと、仲間内の母親から苦情が出るようになった。
彼女のホームページ掲示版に、Sさんからテンションの高い書きこみがあり、困っていると。
心苦しかったが、リーダー的立場の連名で、Sさんにグループを抜けてもらうよう伝えることになった。

風の噂によると、その後Sさんは会社を辞め、友人と共同で起業を計画していたという。
今頃どうしているのだろう、鈴木重子の癒し系の声を聞きながら、Sさんのことを思い出した。
私の誕生日に、CD“Just Beside You”をプレゼントしてくれたのが、Sさんだったのだ。

当時Sさんとの関係が切れたのは、やむを得ぬ事情もあったが、もう少しやりようがあったのではないか。
私と同じように、突然愛する子どもと引き離され、もうどうしようもなくメチャクチャ寂しかったのだ。
少しくらい普通の人より言動にズレがあって当然だし、私自身をふり返っても、顔で笑って心で「狂って」いた。

あの頃まだ3歳だった娘も、もう高校生。
私は再婚して、1歳の息子の父親となった。
暗闇の中でもがいた10年間にゾッとする分、現在の幸せを怖いくらいありがたく感じる。

今夜は鈴木重子を聴きながら、ちょっとせつない気持ちになった。
Sさんも、幸せになっているといいなあ。

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【頑張る・目標を持つ・逃げない】 2011年2月10日(木)

この十数年間、私の意志にかかわらず、頭の中でくり返し流れるフレーズがある。
「頑張るぞ〜!」

これは、あまりいい習慣とはいえない。
自宅でもこんな状態では、交感神経が優位になって、リラックスできないではないか。

人生後半では「頑張らない」がモットーのはずなのに、なぜ?
たぶん、離婚したあとの「見返してやる」という気持ちを、ずっと引きずってきたんだと思う。

そこで、得意の言葉遊びで、少々軌道修正を。
「頑張らないように、がんばる」
漢字とひらがなに表したニュアンスの違いに、注目してほしい。

その延長で、私の「心のクセ」から脱却して「ゆるく生きる」フレーズを、あと3つ作った。
1つは、何をするにも目標を設定して、達成まで走り続ける自分の特性を逆手に取って。
「目標を持たない、という目標を持つ」。

次は数年前、それまで取り組んできた多くの活動から、いっさい手を引く決断をした時のもの。
「逃げるのか?」という内外からの声を、無理にねじ伏せるのではなく、サラリとかわす言葉だ。
「逃げるという選択から、逃げない」。

常に何かしていないと落ち着かない、せっかちで貧乏症な自分に、もうひとこと。
「何もしないことを、する」
どう?

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【「なる」ことと「ある」こと】 2011年2月9日(水)

ひそかに始めていた、ゆる〜いダイエット。
が、早くも路線変更(笑)。

たまたま妻が「美容体重」とやらをめざし、今月中に2〜3キロの減量をスタート。
毎日のようにDVD「フィギュアロビクス」で鍛えて、ずいぶんスリムになったのに。
すさまじきもの、女性の美追求の執念。

つい私もつき合う気になって、昨日から朝昼晩、すべてダイエット食に。
当然、ジムで筋肉もしっかり鍛える。
このまま続ければ、月末には二人とも、かなりシャープな体になるだろう。

ある女優が語った。
「女優になるのはやさしい。
 女優であり続けることは難しい」

ダイエットも、またしかり。
そう「なる」のは、難しいことではない。
そう「ある」こと、「あり続ける」ことが難しい。

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【究極の「計るだけダイエット」】 2011年2月8日(火)

最近「朝晩ダイエット」という本を読んで、ゲーム感覚で始めてみた。
起床後と就寝前に、素っ裸で体重を計り、折れ線グラフに記録していくだけだ。
ただし、わずかな体重変化でもわかるように、体重計は100グラム単位のものを使うこと。

準備として3日間、朝起きた時と夜寝る前の「体重差」を計り、平均値を出す。
私の場合、その差は約1.0kgだった。
人間の体重は朝がいちばん軽く、夜がいちばん重い。

翌日からは、朝晩の体重差が平均値より小さかったら「勝ち」、大きかったら「負け」。
私は始めて5日間で、3勝1敗1引分け。
初日の朝と今日の朝を比べると、600gの減。

この方法のいいところは、勝ち負けの原因を「自分の頭で考え、気づく」ことだ。
勝った日は、食事は低カロリーで、運動を行っている。
負けた日は、実家に行って食べ過ぎたなど、必ず思い当たるフシがあるわけだ。

ちょっと面白いので、しばらくこれでゆる〜くダイエットしていこう。
40代後半で極端な節制というのも、健康上どうかと思うから。
医学的データによると、「ちょい太」のほうが長生きするそうだし。

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【夢かうつつか幻か】 2011年2月7日(月)

「夢っていうのは、見てる時は現実だと思ってる。
 目が覚めて初めて、『あれ、何か変だぞ』と思うんだ。
 君だってそうだろう。
 ここからが夢ってわかって見てる夢なんて、ないはずだ。
 いつだって気づくと、夢の世界に入っている。
 どうやってここに来た?(How did you get here?)
 今はどこにいる?(Where are you right now?)」

映画「インセプション」で、コブを演ずるレオナルド・ディカプリオのセリフ。
コブは、他人の夢(=潜在意識)に入って、ある情報を盗んだり植えつけたりするプロ。
(ネタバレ注意→)上の質問のあとは、実はそこは夢の世界だった、というオチだ。

おもしろかったのは、相手の夢の中でさらに夢を見せて、より深い夢に降りていく設定。
誰の、何階層下の夢の場面なのか、途中でワケがわからなくなってくる。
そのうち、今映画を見ている自分という存在と状況が一体何なのか、ふと疑問に思い始めた。

考えてみたら私たちは、「気がついたら」この世に生まれ育っていた。
ものごころついて生まれたのではなく、生まれたあとで「ものごころついた」のだ。
生きている今は、これが本物の現実だとすっかり信じ込んでいる。

しかしこれって、コブの語る「夢」の定義と同じではないか?
「どうやってここに来た?」の問いに、確信を持って答えることすらできない。
「今はどこにいる?」
ひょっとして、今この文章を書いている私も、読んでいるあなたも、実は「夢」の中なのかも…。

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【死は「拡散」】 2011年2月4日(金)

プロレスラーの三沢光晴さんは、現在の私と同じ46歳で、あの世へと旅立った。
もうすぐ迎える47歳では、哲学者の池田晶子さんが亡くなっている。
こうして見ると、自分もいつお迎えが来るかわかったものではない。

まあ、私は著名人のように大きな仕事を成したり、顔が売れて気をつかう必要もない。
それでも、ストレスレベルがトップに位置づけられる「離婚」で苦しんだので、身心ともにかなり負担を強いた。
正直、今まで重い病気に倒れなかったのが不思議なくらいだ。

自分はいつまで生きられるのだろう、と最近考えるようになった。
わけのわからないうち無に帰してしまう、「死」の意味についても。
40代後半になって子どもが生まれたから、そういう発想に向かうのかもしれないが。

衛藤信之さんの本「今日は、心をみつめる日。」に、私がしっくりくる答えがあった(以下要約)。
遠い昔、宇宙はビッグバンを起こし、その瞬間から現在まで膨張し続けている。
「拡散」は宇宙の本質といえ、したがって宇宙に存在するすべての事物も、同じ性質を持つ。

自然界の原理では、すべては必ず時間とともに分散、崩壊して、秩序から無秩序へと移行する運命にある。
人間の「いのち」も、生きている間は懸命に「形」を保つが、死と同時にその営みを放棄して形なき世界に入る。
ならば「死」は、宇宙にゆだねる最大の安らぎであり、本来の場所へと「帰っていく」行為で、怖いことでも忌むべきことでもない。

日々成長する息子を見つめながら、不思議な感覚にとらわれることがある。
「すっかり一人前の家族ヅラしてるけど、ちょっと前まで存在すらしてなかったんだよなあ…」
こうして人口が一人増えたのだから、一人去っていくのは当然のことだな、とも。

「生」の最大最後のイベント、それもハッピーエンドとして「死」を位置づけられれば、老いるのも楽しくなる。
それがどれだけ難しいか言うまでもないが、どうにか理屈づけしてでも、そんな人生を歩んでみたい。

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【火山】 2011年2月3日(木)

「今でも盛んに噴煙を吹く、活火山。
 時折思い出したように火柱を上げる、休火山。
 ほぼ活動を中止してしまった、死火山。
 いずれにせよ皆、意識下にはマグマが溜まっている」(茂木健一郎)

宮崎では、新燃岳が52年ぶりの大噴火を起こし、全国ニュースになっている。
宮崎市もけっこう灰が降るが、被害で大変な地域の方々には、心からお見舞い申し上げます。
東国原英夫元知事が、今でも何かと宮崎を気にかけてくれるのは、県民としてとてもありがたい。

週末にいつもの喫茶店でモーニングしていたら、いつも地味〜なマスターが、ボソッとつぶやいた。
「オレも生まれてきて52年、そろそろ噴火せんといかんかな…」
私の文章ごときでは説明不可能な、微妙にユニークなキャラの人なので、思わず笑ってしまった。

でも実際、今の私は「何火山」状態なんだろう。
ひょっとして私の無意識には、何らかのマグマが渦巻いているのか?
「足るを知る」で十分幸せだと思っているが、このあと生きているうちに「爆発的噴火」はあるのだろうか。

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【人生の特別な一瞬】 2011年2月2日(水)

「人生には特別な一瞬がある。
 あのときだったのだと、ずっと後になってから、鮮やかに思い出される一瞬がある。
 その、遠く過ぎた一瞬の光景が、そこだけ切りぬかれたように、ありありとした言葉になって、じぶんのなかにもどってくる」(長田弘)

さすが詩人、きれいな言葉だな〜、と思う。
だけど、なぜか私の「特別な一瞬」というのは、どれもこれもヘンテコなものばかり。
「なんであんなクダラナイ、ドーデモイー瞬間をいつまでも忘れないの?」という感じ。

1つだけ例をあげれば、小林小学校5年生の、ある朝の出来事。
横断歩道の誘導係として、止まってくれていた車を手旗で進ませた時のこと。
運転していたオネエ系の男が、突然私に投げキッスをして去って行ったのだ。

困ったことに、37年経った今でも、その光景を鮮明に覚えている。
相手はもう老人か、下手すると、すでにこの世の人ではないかもしれないのに。
あのわずか2秒ほどの珍妙な出来事は、ついに棺桶に入るまで、私の記憶にへばりついたままなのか(>_<)

これを書くのは初めてだけど、私には幼い頃から、妙なクセがあった。
たとえば汽車(当時)に乗っていて、窓の風景からたまたま目に入った、1本のススキに思いをめぐらせる。
「あのススキを見るのは、ボクの一生でこれが最後となるのか…」

日常生活においても、この特異な性癖はいかんなく発揮される。
たまたま通りがかった、他人の家のレンガ塀の一角を見て、「この1個のレンガを見るのは〜」とやる。

ススキやレンガが何かのメッセージを送ってくるかのように、彼らと私の間に不思議な連帯感を持つのだ。
これもまたある意味、一風変わった少年なりの、「人生の特別な一瞬」の感じ方であったかも。

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【見れば必ずピンとくる】 2011年2月1日(火)

映画「優しい嘘と贈り物」で、好きな女性へのプレゼントを買い物に来た老人のセリフ。
ちなみにこの映画の主人公は、おじいちゃんとおばあちゃんだ。

“I don't know what it is yet, but I will know what it is when I see it.”
(何にするか今はわからないが、見れば必ずピンとくる)

こういうセンスっていいな〜。
私はプレゼント選びが超苦手なので、これからは、まずお店に足を運んでみようと思う。
今月、妻の誕生日もくることだし。

いきなり話が飛ぶが、人が生きるの意味や目的も、似たようなものかもしれない。
ビクトール・フランクルは、まさに目からウロコの至言を残している。

「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に問いを発してきている。
 だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである」

何か大いなる力によって「創られた」人間ごときが、人生の意味など考えちゃいけない、というのだ。
大自然のカケラに過ぎない人間には想像もつかない、壮大なストーリーが存在するのかもしれない。
我々凡夫がやるべきは、ただ目の前に「問われた」出来事の「意味」を、深く読んで解くことだろう。

「この人を好きになれ」と命令されて、機械的に恋に落ちることはできない。
意味は人生のほうから与えられるのだから、「見れば必ずピンとくる」。
異性の好みさえ、実は自分の意志で決められない事実に気づき、ガクゼンとなる。

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