<2011年11月>
【アンガ―マネジメント】 2011年11月22日(火)
昨日の続きだが、では「怒りやすい人」には、どんな対処法がいいだろうか。
最近は「怒らない」ことをテーマにした本が、やたらと出ているみたいだが。
その前に、ちょっと余談。
11/7(月)のブログ(私が短気である話)を読んだ、私の筋トレの師匠スージーさんから、「とてもそうは見えない」とのコメント。
私は「何なら、私の妻に聞いてみてください」と答えた。
カッとなりやすい私の性格が、父親の遺伝であることはまず疑いないが、あるときその父に言われたことがある。
「自分の個性を無理に変える必要はない、怒りもひとつのエネルギーだろう。
もし怒らなくなったら、フヌケのようになって、それはおまえじゃないぞ」
若い頃から短気で、数々のトラブルに巻き込まれてきた(呼び込んできた?)私も、40歳を境にマイルド系に転向。
穏やかな日々を過ごせるようになった反面、その副作用として、戦って獲物を狩る「オスのオーラ」を失ったと感じた。
そこで最近は筋トレでパワーを取り戻し、物欲や性欲も否定せず、新たなる闘争心と生命力を呼び起こそうとしております。
さて、アンガー(怒り)マネジメントの話。
不登校の生徒を教室に復帰させるとき、カウンセラーの私は、「教室には、左足から入りなさいよ」と指導する。
縁起を担ぐわけではなく、「左足(別に右足でもいい)から入る」ことに集中させ、クラスの視線から意識をそらすためだ。
これを応用すると、ムッとしたとき、怒りの対象そのものから意識をそらすため、「怒りをランクづけする」ことが有効と考えられる。
『「怒り」のマネジメント術』という本にもあったものを参考に、格闘家バージョンを作ってみた。
レベル0 (ストレッチ) 穏やかな状態
レベル1〜3 (ローキック) イラッとする、不愉快、うっとうしい
レベル4〜6 (ボディブロー) 怒り、イライラする、腹が立つ
レベル7〜9 (ハイキック) カーッとする、動揺する、激怒、爆発寸前
レベル10 (顔面パンチ) 爆発、震えが止まらない、憤怒
上の本によると、レベル分けのメリットとして、次のようなことが考えられるという。
最近私も実践しているが、たしかに効果がある。
・レベルが低いと、「こんなことで怒ってもしかたがない」と、我に返ることができる。
・客観視してレベルを考えることで、意識が目の前の怒りにいかない。
・普段感じている怒りが、それほど強くないことに気づかされる。
・始めは高い点数をつけても、あとでふり返ると低かったことを発見でき、その後の点数のつけ方が適切なものになる。
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【点と線】 2011年11月21日(月)
自分の感情をマネジメントする方法のひとつに、「天使の声と悪魔の声」がある。
頭の中に何らかの考えが浮かんだら、すぐに「天使の声」と「悪魔の声」に仕分けするのだ。
そう、まるで工場の流れ作業で不良品を見つけたら、ポイッと別の箱に入れるように。
人の心には、それこそベルトコンベアーみたいに、次々とさまざまな感情が運ばれてくる。
一流企業の製品にも不良品が出るように、どんなに人格を磨いたところで、「悪魔の声」は必ず紛れ込む。
それを恥じたり許さないというのではなく、ただ淡々と「分ける作業」をしていけばいいのだ。
アスペルガー症候群の子どもを持つある母親は、子どもに次のようにアドバイスするという。
「点と線に分けなさい」
アスペルガーの人は、相手から発せられた言葉を、その通りに受け取る傾向がある。
いわゆる「空気を読」んだり、言葉の裏にある真意を汲み取ることが苦手だ。
そのため傷つきやすく、二次障害で不登校やうつ病になる可能性が高い。
その対策として、何かあったり言われたりしたとき、ただシンプルに「点または線」に分ける作業に意識を向けさせる。
「点」とは、その場限りであとにつながらないもの、たとえば他人からの不愉快な言動。
「線」とは、その後もずっと続いていくもの、つまり家族や友人、自分が好きなものや場所だ。
「分けるだけ」で、波立った心が治まるのか?
答えはイエスで、習慣になるまでは練習が必要だが、間違いなく効果はある。
誘惑に弱い人は「天使の声と悪魔の声」、落ち込みやすい人は「点と線」、ためしてみてはいかがだろうか。
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【本は読めないものだから心配するな】 2011年11月16日(水)
ノーベル文学賞の大江健三郎さんの師匠、フランス文学者の渡辺一夫さん。
ある日古いフランス本を読もうとしたが、ラテン語の引用文がどうしてもわからない。
注釈に参照本が紹介されてあったので、たまたま持っていた同じ本を見ると、なんと自分の筆跡で余白に正確な訳まで書き込んである。
「私は昔この本から、一体何を読み取っていたのであろうか?
昔読んだことをすべて忘れて、読まないのとまったく同じ結果になっているのである」
「思わず、こっちも顔がほころぶ」。
そう書いているのは、この話を紹介した『本は読めないものだから心配するな』の著者、管啓次郎さん。
「本は読めないものだから心配するな。
あらゆる読書論の真実は、これにつきるんじゃないだろうか」
著名な大学者にしてこのようであれば、凡庸な私たちが読んだ本の内容を覚えていなくても、何の不思議もない。
そもそも人間の脳は、この社会で生きていくのに最低限必要な情報以外は、どんどん忘れていく仕組みになっているのだ。
まして自己啓発の講師か何かから、「本で読んだことはすぐ実行しないと無意味」なんてことを言われたら、たまったもんじゃない。
最近、しばらく消していた旧ホームページ「文武両道」を、少しずつ復活させている。
昔の文章を恥じ入りながら読み返していると、たま〜にいいことが書かれていたりもするが、書いた本人はすっかり忘れている。
その度にちょっぴりションボリしていたが、まあ、誰でも現実はこんなもんだろ。
その意味では、アヤシゲな速読術みたいなもので「何百冊読んだ」などというのも、疑わしいものだ。
近頃は私もすっかり「遅読」派になり、冊数をこなすよりも、じっくり考えながら少しずつ読み進めるほうが大事だと感じるようになった。
管さんはここで、またも心強いことを言ってくれる。
「本に『冊』という単位はない。
とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。
本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。
ぼくらが読みうるものは、テクスト(文章)だけである」
そうだそうだ、一冊の本というより、たまたまひとかたまりになったテクストだと思えばいいのだ。
読書とは「ここからここまでで終わり」というものではなく、何かの縁によって出合ったテクストを、そのときどきで楽しみながら味わうこと。
いくつもの川の流れがやがて海に出るように、さまざまな文章が時の流れとともに自分の中でぶつかって、自分らしさの栄養になれば儲けものだ。
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【夢の後払い】 2011年11月16日(水)
ある小さな会社を経営している人が、部下からこんな話を聞いたそうだ。
「家族で海外旅行するのが夢なんです。
そのために、これから一生懸命に働いてお金を貯めます」
その経営者は、「この発想は、少しおかしいのではないか」と思ったそうだ。
夢が海外旅行というのなら、すぐにでもチケットを購入して、さっさと実現させたほうがいい。
そのあとで仕事をしてお金を貯め、旅行の出費を補てんしていくべきではないかと。
つまり、目的と手段を取り違えているのでは、というわけだ。
目的(海外旅行)のための手段(仕事)に夢中になると、いつの間にか手段が目的のようになってしまうことは、たしかにある。
私たち夫婦がいつも合言葉のように「避けようね」と確認し合っている、「本末転倒」というやつだ。
もちろん、どちらが100%いいとか悪いとかいうことはない。
現にうちの家族も毎年夏には沖縄に滞在し、数年に一度は海外に出かけるが、それを楽しみに節約や貯金をしている。
借金やローンは、一切(と言いたいところだが、ほとんど)かかえていない。
ちなみにこの経営者、理想に燃えてつくった自分の会社を2度ほど倒産させたらしい(^^;
結局、「要はバランス」という結論に達するしかないわけだが。
しかしまあ、人間いつ死ぬかわからんという現実もあるし、社会経済がひっくり返って貯蓄が紙切れにならないとも限らない。
それを思えば、自分がやりたいことの優先順位はやはり、たまには真剣に考えてみるべきではなかろうか。
将来のために今を犠牲にするばかりの生き方は、どうにも世知辛くなってしまうから。
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【一息禅】 2011年11月15日(火)
昨日書いたことに関連するが、「とっつきやすさ」というのは、結果的に物事が深まる大切なキーワードである。
実は私、心と体を統一させるため、以前から座禅もしくは瞑想を習慣にしたいと考えていた。
しかし家族がいる自宅リビングにおいて、いきなり雲水のごとく半眼で座る親父がいる光景は、どう見ても異様である。
ていうか、息子にイス代わりに使われたりして、ますます悟りの世界から遠のくのは明らかだ。
求めよ、さらば与えられん。
ある禅の本に、ほんの数行ではあるが、「一息禅」のことが書かれてあった。
結論から書くと、この一息禅、実践しはじめてから大きな効果を実感している。
高名な禅僧に、ある会社の重役が聞いたそうだ。
「座禅がいいのはわかりましたが、仕事が忙しすぎてやる時間がありません。
なんとか手軽に実践できる方法はないでしょうか」
「時間がないというのは言い訳で、時間はつくるものです。
本当に必要だと思うことは、どんなに忙しくてもやっているはずです」
な〜んて無粋なことは、この高僧は言わなかった。
「それなら、一息つきなさい」
仕事に忙殺されるとき、問題で頭が混乱したとき、ここ一番の直前、疲れたとき、怒ったとき、「フーッ」と息を吐きなさい。
そう言われた重役は、事あるごとにこの「一息禅」を実践し、やがて大きな「智慧」を得たという。
そんなん、ただの「ため息」といっしょやん!とツッコむなかれ。
一息禅の数秒間だけは、あらゆる「とらわれ」や「こだわり」を捨てるよう、無心に努めるのだ。
煩悩だらけの人間が、座禅の間だけは仏の状態となるように、一息禅の瞬間だけは「仏であろう」と心がける。
「やらないより100倍マシ」のご利益は、「はじめの0.1歩」が波紋のごとく広がっていくプロセスと同じである。
一息禅だけで「悟り」を開くのは到底無理な話だが、その入口に立つことくらいはできよう。
要は、ちょこっとやってみて目に見える変化や快感が得られれば、放っておいても人はハマッていくのだ。
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【反・地道な努力の積み重ね】 2011年11月14日(月)
どの分野でも「達人」と呼ばれる人にその秘訣を聞けば、「地道な努力の積み重ねしかない」と答えるはずだ。
もちろん、各段階においてそれなりの「コツ」や「近道」は存在する。
ただしそれは、圧倒的な量稽古をこなす中で、一部が「質」に転換するというだけの話だ。
ろくに運動したこともないような人が、ベンチプレス100キロを挙げるコツを知ったところでどうなるのか。
その情報が役に立つのは、少しずつウェイトを増やしながら、何千回もバーベルを上げ下げしたあとのことだろう。
格闘技で必殺コンビネーションを教わっても、基礎体力やパワーがなければ、蚊トンボのように吹っ飛ばされるだけだ。
ダイエットしかり、英会話しかり。
ちょっとストレッチしたらウエストが細くなったなんて、急に体内から脂肪が消えたらオカルトやろ?
聞き流すだけで英語ペラペラって、じゃあ知らない国の原住民の会話を聞き流しても突然しゃべれるんか?
ラクな方法も奇跡もないし、実際キツイことの連続で、その中にささやかな上達の喜びがあるのみ。
その結果、仮に目標を達成できたとしても、気を抜いて努力をやめればすぐに元に戻る。
そのレベルを保ち続ける本物の成功者は、全体のわずか1%にすぎないというのが現実だ。
…というような「正論」をふまえた上で、今日は逆の主張についても耳を傾けて、楽しみながら受け入れてみたい。
だって上の理屈って、言うほうも聞くほうも、少なくともあまりおもしろくはなさそうだから。
これから何かを始めようとする人には、「じゃあやめとこう」というネガティブ反応しか起こさないだろう。
今、『準備は3日間だけ!練習ゼロで完走できる非常識フルマラソン術』という本を読んでいる。
タイトルだけ見るとトンデモ本で、予想通り、真面目なランナーたちからアマゾンのレビューで酷評されている。
しかし私は、ある程度は練習した上での話だが、この本の情報を活用してフルマラソンに挑戦してみようと考えている。
なぜこんなハウツー本を評価できるかというと、完走すること以外は「割り切っている」からだ。
「このマラソン術は“歩く”の延長スタイルの走法ですから、5時間を切りたい場合は、この方法では絶対に無理です」
その上で、筋肉やスタミナに負担をかけないグッズやテクニックを、これでもかというくらい調査して使っている。
フルマラソンに向けた厳しい練習でも、そのステップとしてのハーフマラソンでも、結果的に痛みや怪我を体験するのは同じだと。
それならフルマラソンにエントリーして、最低記録でもいいから、まず完走する喜びを体験したほうがいいのではという提案だ。
私もハーフマラソンに出場したとき、自力のみに頼って走って激しい筋肉痛になり、一度フルマラソン挑戦をあきらめた過去がある。
少なくとも専門分野においては「正統派」の私がひっくり返ったのは、『30分で英語が話せる』というフザケたタイトルの本だ。
まあ「疑問形は語尾を上げるだけ」「過去形は動詞にdidをつけるだけ」「前置詞はinだけ」で通じる!という、ド素人用英語なのだが。
私が読んだ類似本に『「銅メダル英語」をめざせ!発想を変えれば今すぐ話せる』もあるが、ややマトモながら似たような主張だった。
ただ、「完璧な日本語を話せるまで一言もしゃべらない、そしていきなり完璧な日本語で話し出す赤ちゃんっている!?」のコンセプトには賛同。
この著者は成功法則オタクなので、いわゆる「80対20の法則(主要な20%が全体の80%をカバーする)」を英語学習に応用したというわけだ。
たとえ下手くそでも最低限の目的が果たせれば十分という世界観もあっていいし、はじめから上級者と比べられたらたまったもんじゃない。
「はじめの一歩」さえキツイなら、「はじめの0.1歩」でも、やらないよりは100倍マシではないか。
「三日坊主」でもくり返せば、それはやがて立派な「断続的継続」となる。
その小さな「楽しい体験」がきっかけでハマり、いつの間にかハイレベル集団の仲間入りをしていたというなら、それもまたよしだろう。
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【犬のように扱え】 2011年11月7日(月)
「まるで他人のように、家族に接しなさい」というような箴言を目にしたことがある。
他人行儀になれというのではなく、他人になら遠慮するストレートな感情を家族にぶつけるな、ということ。
いつも一緒にいて、自分ととても近い関係にある家族に対しては、どうしても甘えが出てしまうからだ。
普段好感の持てる人物が、夫婦や親子ではとたんにトゲトゲしい口をきくのを見ると、興ざめする。
第三者からすると、そんなキツイ言い方しなくてもいいのに…と、思わずため息が出る。
言われたほうの辛そうな表情や、それを我慢する様子を見ると、こちらまでやるせなくなってくる。
ところが日頃の自分をふり返ってみても、同じことをやらかしているのだ。
妻や息子の反応が自分の好みや期待と違ったとき、ついカッとなったり、不機嫌になってしまう。
あとで必ず反省するはめになるし、もしこれが最後のふれあいだったらと考えると、絶対後悔するとわかっているのだが…。
今朝も、私が作ったニンジン&リンゴの生ジュースを、息子が「いらない」とひっくり返したとき、思わずテーブルを叩いてしまった。
しつけのために「叱った」のではなく、明らかに大人げない「怒り」だった。
「禅」や「アンガー(怒り)マネジメント」の本を読んでいるのに、何の役にも立っちゃいねえ。
その点、母親である妻はエライよ、まだ若いのに。
毎朝毎晩ハミガキを嫌がって大泣きする息子を、あの手この手で辛抱強く世話している。
最初は私がやっていたが、忍耐力が弱くて発狂しそうになったので、代わってもらったのだ。
「あなたにとって大事な人は、犬のように扱いなさい!」
あるコミュニケーションの講師が発したこの言葉には、ちょっとビックリさせられた。
一瞬、私の聞き違いかと思ったが、真意は次の通りだった。
ペットの犬なら、思い通りに動かなくても、「しょうがねえなあ、まったく」で終わる。
つまり、相手を無理に変えようとせず、「ありのまま」に受け入れることができる。
ところが多くの人が、自分のパートナーに対しては「犬以下」の扱いをしているというわけだ(ナットク)。
「魔の2歳児」と言われる時期に、妙に期待なんかするからすぐに裏切られて、怒りがこみ上げるのだ。
愛する息子を、断じて「犬以下」の存在におとしめてはならない。
次にイタズラをやらかしたら、自分に言い聞かせよう、「こいつは犬だ、犬なんだ!」と(笑)。