<2011年10月>

【家歌】 2011年10月31日(月)

今、私の手元に「カ訓(かくん)」と書かれた1枚のメモがある。
「始めない」「引き受けない」「参加しない」「予定を増やさない」など、10カ条が手書きで書かれている。

朝から晩まで超過密スケジュールで、燃え尽き症候群になっていた数年前、妻が戒めとして書いてくれたものだ。
当時は結婚前だったので、まだ「家訓」ではなく、「カ訓(カップル訓)」だったわけだ。

今回は、我が家に国家や校歌ならぬ「家歌(かか)」が誕生した。
Eテレ「にほんごであそぼ」の今月の歌、「草にすわる」(八木重吉作)である。

わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる


朝の出勤前、ドタバタと準備しているとき、この短くてスローな曲が流れてくる。
子どもたちと一緒に淡々と、コニちゃん(元大相撲の小錦)が歌っている。
強烈なインパクトというわけではないが、なぜかずっと心にひっかかっていた。

旅行人山荘に泊まった夜、子どもが寝静まったあと、夫婦でワインを飲みながら遅くまで語り合った。
「こんな自分と一生一緒にいてもいいと思ってくれる人が、世界中に一人でもいてくれた、それだけでも感謝ではないか?」
みたいな話から始まって、私が「ところで最近、妙に心に刺さってくる歌があるんだけど…」。

わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる


家庭や職場でいさかいごとが起きたとき、「わたし」は相手に責任を転嫁し、自分を正当化しようとする。
しかし本当は、心の奥深くではわかっているのだ。
たしかに相手の言動にも改めてほしい部分はあるが、実は自分の対応にこそ、根本的な原因があったのだと。

たとえば仕事で疲れて帰ったとき、たまたま妻の機嫌が良くなかったり、子どもが言うことを聞かずに泣いたりする。
やっと家庭でくつろげると思っていたのに、期待を裏切られたように感じて、こちらまでイライラしてくる。
職場という戦場で戦ってきた兵士が、家庭まで戦場にされたらやりきれない、と憤りを感じる。

わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる


しかし考えてみれば、妻は24時間365日子どもにつきっきりで、自分のことは後回しなのだ。
私に同じことができるはずもなく、妻も私と同じように、いやそれ以上に疲れているのだ。
それに、まだ2年しか生きていない子に47歳の理想を押しつけるとは、これまた無茶な話ではないか。

そんな告白をしていると、妻も我が意を得たとばかりに、「私も同じだった!」と応じてきた。
たとえば寝かしつけに2時間近くもかかって、それでも眠らない子どもに、ついキツく当たってしまった日の翌朝。
食事の準備中にこの歌が流れてくると、まだ母親と遊びたかった子どもの気持ちに、胸がチクリと痛んでいたという。

お互い口には出さなかったが、それぞれがひそかに、「草にすわる」を耳にしながら反省していたわけだ。
いい歳をして(特に私!)、そのときのコンディションやタイミングによって、しょっちゅう痛いミスをしてしまう。
それでも、基本的な感性が似ているからこそ夫婦でいられるし、家族としてやっていけるのだと思っている。

*****

【備忘録】 2011年10月30日(日)

今日食べた店:
がまこう庵

今日泊った宿:
旅行人山荘

夫婦お気に入りの蕎麦屋&隠れ家。
妻の大学院合格お祝いシリーズ、家族のプチ旅行でした。

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【ブランコを押す男】 2011年10月24日(月)

秋晴れの昨日は、家族で空港近くの公園に遊びに行った。
ゴムボールをサッカーのようにドリブルしながら、元気に走り回る2歳の息子。
線路沿いなので、電車が来るたびに走って行って、運転手さんと手をふり合って喜んでいた。



すべり台で何度も遊んで、最後はブランコに乗って満足そうな顔。
後ろにかすかに映っているのが、ブランコを押す私。
なんか、父親の存在レベルを象徴するような写真だな〜(笑)。

そう、親ができるのは、ほんの少しばかりのこと。
前に進む子どもを後ろから見守りながら、ちょっとブランコを押してやる役割だ。
自我を消すのは無理としても、なるべく抑えて和らげながら、親という名の裏方であり続けたい。

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【例外のない規則はない】 2011年10月22日(土)

「最良の敵は、良である」

私たちは「まあまあ良いこと」で時間を浪費して、「いちばん良いこと」が後回しになる。
たとえば、仕事に没頭しすぎて、家庭をおろそかにしてしまったり。
仕事で生活が成り立つのだから、「悪いこと」でなくむしろ「良いこと」だけに、難しいところだ。

では逆に、「最良の友」は何か?
実は私は(というか我が家では)、上の格言をもじって、冗談半分で次のように考えている。
「最良の友は、悪である!」

くだらないテレビ番組をダラダラ見たり、健康に悪そうな食べ物を夜中に食べるのは、明らかな「悪」のカテゴリー。
私と妻にとって、これらの無意味かつ有害でさえある「不良」のひとときこそ、何より「最良」に貢献しているといえる。
例外的な「規則違反」を楽しむゆとりがあるから、また元気が出て、やるべきときに真剣に頑張れるのだ。

筋トレにも、似たようなところがある。
あるボティビルダーに聞いた話だと、週に1回は好きな物をたらふく食べる日をつくっているそうだ。
オフシーズンは筋肉を大きくするためにたくさん食べ、一時的に太ることもあるという。

筋肉痛がなくなるまでは、無理なトレーニングは重ねない。
睡眠中に成長ホルモンが出て、休んでいる間に「超回復」が起きることで筋肉が発達するから。
「最良」の筋トレのためには、「筋トレをしないこと」という逆説的な時間もまた必要なのだ。

ということで、4日「デス・エデュケーション」および、15日「筋トレが教えてくれた」の補足でした。
これらを読んで、私の人間性を誤解されては困ると思って。
時間を無駄にせず最優先の活動に集中し、肉体的・精神的に鍛え上げているヒト!みたいな。

何でもかんでも効率一辺倒で、彫刻のようにぜい肉を削ぎ落とせばいいというものではない。
人間は不完全で、中途半端で適当でファジーな生き物だから、無駄を楽しめる余裕はちゃんと残しておきたい。
一見無駄だと思えるものが、実は何よりも大切なものだったりする、これが人生のおもしろいところなのだ。

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【筋トレが教えてくれた】 2011年10月15日(土)

「人生で大切なことは、すべて○○が教えてくれた」
そんなタイトルの本が、さまざまな分野の人によって書かれている。
どんな仕事を選んでも、うまく事を運ぶためには共通するポイントがある、ということだろう。

私は、老後に家族のために残すものは、「お金と、思い出と、筋肉」だと考えている。
妻や子どもと年が離れているため、できるだけ肉体的能力を落したくない。
そこで、病弱で大怪我もした中年として無理のない程度に、週2〜3回ジムに行っている。

そうしたら、先日ベンチプレス90キロ、昨夜はデッドリフト100キロが挙がってしまった。
空手をやっていた学生時代にさえ、ベンチプレス80キロがビクともしなかった覚えがある。
まさか40代後半でこういう自分になっていようとは、予想だにしていなかった。

「人生で大切なことは、すべて筋トレが教えてくれた」

今私が本を書くなら(家族と過ごす時間を奪われたくないから書かないが)、こんなタイトルになるかも?
お金を稼ぐための「金トレ」、心を鍛える「心トレ」、脳を活性化する「脳トレ」も大事だが、基本は「筋トレ」だ。
筋トレと人生に共通するポイントとして、今感じていることをいくつかメモしておこうと思う。

(1)本当は疲れていない

仕事が終わって疲れ果てた平日の夜、今日はもうこのまま寝てしまおうか…という気になる。
ジムに行くことにした日も、軽くちょこちょこっとやってすぐ帰ろう、と本気で思っている。
ところがジムを出るときには、さっきとは別人かと思うくらい、すっかり元気になっている。

「疲れた、疲れた」と言うが、それは精神的ストレスの疲労であって、実は体力とは何の関係もない。
そんなことはない、体がダルくて動けないのだと言い張っても、少し汗をかけばすぐにウソだとバレる。
その証拠に、好きな人からデートにでも誘われれば、すぐにテンションが上がって夜中まで遊べるだろう。

心と体は、密接につながっている。
心が疲れ果てたときは、何も考えずに体を動かせば、心も動き始めるのだ。
人生においても、悩んだときにはまず筋トレ、すぐにアドレナリンが噴出する。

(2)はじめの0.1歩

毎日仕事を終えて帰宅すると、家族で夕食をとって、子どもを風呂に入れる。
夜になって妻が子どもの寝かしつけを始めると、ようやく私がジムに行く時間となる。
すっかりゆるんでしまった状態で、さあジムに行って鍛えようなどという気には、とてもなれない。

そこで、目標を「結果」にではなく、「経過」に置くことにする。
「100キロ挙げる」などと、大きくて最終的な結果のためジムに向かうのは、意志の弱い私にはとうてい無理。
せいぜい「ジムに顔を出す」程度の、ささやかな「行動」を達成目標にしないと、私の気持ちは動けない。

全体をもっと細かく刻んで、とりあえずの目標を、そのずっと手前まで引き寄せる。
「ジムまで行く」のもダルければ、「車に乗る」でも、「家を出る」でも、「着替える」だけでもいい。
はじめの1歩、いや「0.1歩」だけでも踏み出せば、あとは不思議なくらい「結果」へと自動操縦される。

「はじめの0.1歩」は、100歩以上の大きな意味と価値がある。
どんなに小さな行動でも、「始めなければ、始まらない」し、「始めれば、始まる」のだ。
あとは徐々に体が温まって、気がついたら100キロを挙げている、これが現実的な目標達成の技術だろう。

(3)負荷を増やす

筋肉は同じ刺激に慣れてしまうから、パワーアップのためには、負荷を増やしていかねばならない。
仕事や人間関係のスキルを磨くのも、精神的ストレスに強くなるのも、同じことがいえる。
1つクリアしたらさらに負荷を与えることで、フィジカルもメンタルも耐性がアップする。

もちろん、急に負荷を増やしたら、体が壊れてしまう。
心も同じことで、少しずつ時間をかけて積み重ね、「自己新記録」を更新すればいい。
現状維持で満足するにしても、そのレベルを保つための努力と工夫の継続がなければ、退化していくだけだ。

先日ある友人から、どうせいつかは死ぬのだから、筋肉なんか鍛えても無駄だと言われた。
それもひとつの考え方かもしれないが、どうせ死ぬからこそ、少しでも強く生きたいと願う。
単なる「生存」ではなく「生きる」ことが大事で、死ぬのはいいが、「生きなかった」ことは後悔するはずだから。

(4)結果はすぐには出ない

世の中、すっかりインスタント社会になってしまった。
携帯メールの返事がすぐこないと不安、ダイエットは1週間で5キロくらいやせないと不満。
DVDを見てちょっと踊ればウエストがくびれ、聞き流すだけで英語ペラペラなど、インチキ商品だらけ。

どこのジムでも、最初だけテンション高く毎日のように通う人に限って、すぐやめてしまう傾向がある。
「待てない文化」に洗脳され、「ラクして手に入る幻想」に翻弄されていることに気がつかない。
「超」短期間で効果が出ないと、短絡的に次の「画期的な方法」にとびつくパターンのくり返し。

肉体を改造するには、かなりの年数がかかるという覚悟が必要だ。
数十年も甘やかしてきたブヨブヨな体が、たかが数ヶ月で理想通りになるなら、それはもはや人類ではない。
人生も「待てる文化」、「努力と工夫で手に入る現実」にシフトチェンジしないと、危険なリバウンドをくり返すだけだ。

(5)外から内へ

何かを実現させる基本は、まず心の中にイメージを抱き、それを外に出して形にするのが順番だ。
筋トレも同じであると同時に、ある意味「唯一の例外」ともいえる。
特に私の場合は根性がないので、「内→外」だけでは不十分、どうしても「外→内」の刺激が必要となる。

一人でバーベルを挙げていて、「あっ、もうダメ」と思ってやめるのは、ほとんどが「精神的限界」のようだ。
すぐ横にトレーナーがついていて、「あと1回!上がる!」などと言ってもらうと、思った以上の力がふり絞れる。
俗に言う「追い込んでもらう」というやつだが、これが1つの「外から内へ」。

もう1つの「外」は、ジムメイトの存在だ。
私がここまで筋肉をつけることができたのは、彼ら抜きでは考えられないことだった。
やる気のない日も、周りが「ウオーッ!」と雄叫びを上げてバーベルを持ち上げていると、ついこちらも影響される。

一人での自宅トレーニングとのいちばん大きな違いは、ここだ。
人間は他人の行動を真似る「ミラーニューロン細胞」を持つから、その場の環境や空気こそ最重要事項なのだ。
だからこそ、ただひとことあいさつするだけでも、とにかくジムに「顔を出す」ことが筋トレに大きく影響する。

“80 % of success is just showing up.”
(ただそこに姿を見せるだけで、成功の80%が決まる)

―ウッディ・アレン

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【平凡にして偉大】 2011年10月10日(月)

久しぶりに映画館で、「海洋天堂」という映画を見た。
妻を亡くし、ガンで余命いくばくもない父親が、自閉症の一人息子に生きる術と思い出を与えようとする物語。
脚本を読んで号泣したジェット・リーさんが、ノーギャラで、初のアクションなしで出演。

映画の印象は、それぞれが置かれた状況やタイミングによって変わってくるので、単純におすすめはしない。
「海洋天堂」も、息子との年齢がかなり離れている私は、どうしてもオーバーラップして見てしまう。
ただ、私はいい映画だと思ったし、まだ幼い息子に「自伝的な本でも書き残そうか」との考えも生まれた。

「親孝行などしてくれなくていい。
 そのままでいい。
 あの子のままで生きていってほしい」

死期の迫った父親のセリフだ。
いちばんいいと思ったのは、実はこの映画のキャッチフレーズだった。
とても深い言葉で、本当にそう思うし、これこそいちばんすごいことだ。

「平凡にして偉大なるすべての父と母へ―。」

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【肩車をしてやれるなら】 2011年10月9日(日)

家族3人でドライブ、西都原古墳群にコスモスを見に行った。
そしたらなんと、時期が早すぎて、まだ1本も咲いていなかった。
それどころか、秋だというのに夏みたいに暑く、セミまでうるさく鳴いていた(笑)。

しかたがないから、博物館の先にある山上の展望台まで、息子と歩いて登った。
まだ2歳だというのに、息子がてっぺんまで自分の足で登りきったのには驚いた。
下のほうに小さく見える母親を見つけて、「ママー、おーい!」と叫んでいた。

ヘトヘトになって下りると、今度は芝生の上で「高い高い」を数十回。
筋トレしてないとまず無理な、数メートル放り上げてはキャッチする、「俺ジナル高い高い」だ。
何度やっても「もいっかい、もいっかい!」と興奮して言うので、47歳のパパは頑張った。

さらにリクエストがあり、肩車をして、超長い階段をジャンプしながら何度も往復。
いくら鍛えているといっても、さすがに汗びっしょりでグッタリとなった。
ちょっとオーバーワークだったが、意地になって続けたのは、ある「成功者」の告白を思い出したから。

「息子が育ち盛りの頃、いつも肩車をしてくれとせがまれました。
 肩車が大好きなのはわかっていましたけど、私はいつも忙しくて、子どもと遊んでやれなかったんです。
 読まなければならない報告書、出席しなければならない会議、かけなければならない電話がありましたから。
 子どもが大きくなって独立した今、ひとつのことに気づきましたよ。
 あの小さな息子に肩車をしてやれるなら、私は何でもするでしょう」

少しくらい疲れたからといって、幼い息子が遊んでほしがっているのに、大人の都合でやめるわけにはいかない。
大喜びする息子の笑顔を見て、このままぶっ倒れてもいいや、そんな気持ちになったのだ。
息子が中学生にでもなってしまえば、もう二度と、こんなことはできないのだから。

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【やったぜカトちゃん】 2011年10月7日(金)

朝から家族3人で車をとばし、地元の国立大学まで、妻の大学院受験の合格発表を見に行った。
結果は、無事合格。
現役学生ならともかく、家庭の主婦として大学院に受かるとは、身内ながら大したものだ。

この瞬間、妻のほうが高学歴となり、夫は保育園の送り迎えをしながら、ひたすら稼ぐことに決定。
そして、息子の妹か弟に会えるのは、ずっと先のことになった。
こうなったら、カトちゃんを見習って頑張るしかない。

本当は仕事が嫌いな私の、今のささやかな夢。
妻が臨床心理士となって働き、私は隠居して「主夫」となる。
そして私はレースを編み、子犬の横にはあなたがいてほしい。

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【デス・エデュケーション】 2011年10月4日(火)

デス・エデュケーション(死への準備教育)は、主に英語圏に広がっているようだ。
「いつかこの自分も死を迎える」ことを前提に、今を考え直すというもの。
たまたま英語の授業で関連事項が出てきたので、以前聞いた話を改めて考えてみた。

質問1:「あなたは自分の墓碑銘に、何と記してほしいですか?」

よく例に出されるのが、次のような著名人の墓碑銘。
作家スタンダールは、「生きた、書いた、愛した」。
鉄鋼王アンドリュー・カーネギーは、「自分より賢き者を近づける術知りたる者、ここに眠る」。

一般人でも、「いつも明るい笑顔を絶やさなかった○○、ここに眠る」みたいな。
「いつも悩み、他人を恨み呪い、死ぬまで嫌われた××、ここに死す」なんて、誰も書かれたくはないはず。
だからこそ、これからどう生きるべきか?

ちなみに私が見た中でウケたのは、「バンザーイ、不眠症が治った!」(笑)。
いいな〜と思ったのは、「今日はありがとう、帰りは気をつけてね」。
深イイと思ったのは、「生まれた、生きた、死んだ」。

質問2:「その言葉を墓標に記すために、今日からどう生きますか?」

自分の人生のゴールから逆算して、今日の生き方を決めるというわけだ。
目的や目標を意識しておくメリットは、「ふるいにかける」効果にあるのだろう。
それらに役立つ情報は目に飛び込んできて、しないものは削ぎ落される。

質問3:「もしあと3日で死ぬとしたら、何をしますか?」

「仕事でストレスをためたい」「人間関係に悩みたい」「今の問題を解決したい」
といった望みは、もちろん出なかった。
そんなこと、もうすぐ死ぬと決まっているなら、ど〜でもいいことだから。

「家族と旅行に行きたい」「あの人に謝りたい」「大切な人にアイラブユー、ありがとうと言いたい」
やはりそういった、人とのつながりにかかわる願いが多かった。
つい忘れがちだが、いちばん大事なことはカネやモノではなく、ヒトなのだ。

質問4:「それではなぜ、今すぐにそれをしないのですか?」

人生の終わりまであと3日かもしれないし、それ以上か、ひょっとすると以下かもしれない。
有限であることに変わりがないなら、当然ながら「優先順位」が必要となってくる。
最優先事項とわかっていることがたった3日でできるなら、今日・明日・明後日でやることだ。

しかし多くの人は、それらに直接向き合って実行する勇気がない。
そこで自分を日常の雑用で多忙にして、あえて目をそらし気をまぎらしている。
人間関係の悩みも、実は、本当の最優先事項から逃れるための「雑用」なのかもしれない。

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