<2010年03月>
【少し長い「遺書」】 2010年03月17日
「いちばん大切なことは
いちばん大切なことを
いちばん大切にすること」
「良いこと」にあれこれ足を突っ込み過ぎて、「最良のこと」を犠牲にしてきた反省から、今さらながら気づいたこと。
では、
「いちばん大切な時はいつ?」
「いちばん大切な人は誰?」
「いちばん大切なことは何?」
これは、900年前のチベットの聖人が人々に投げかけた質問。
あなたは、どう答えますか?
聖人自身が遺した答えは、次の通りだった。
「いちばん大切な時は、今」
「いちばん大切な人は、今、目の前にいる人」
「いちばん大切なことは、今ここで、その人にとって良い存在であること」
+++++
ある人がピカソに言った。
「あんたの絵は、わけがわからない。
顔も体もメチャクチャで、実物とは全然違うじゃないか」
ピカソは、その人の奥さんの写真を見せてもらいながら言った。
「ほう、あなたの奥さんは、こんなに薄っぺらで小さいのですか?」
ピカソ風に言わせてもらえば、今まで書き綴ってきた文章は、私の一部であってすべてではない。
「ほう、私の思いを、数十センチ四方のパソコン画面で判断されますか?」
みたいな。
「よくそんなにさらけ出せますね?」
決して自分を表現しない人に、安全圏から皮肉めいたことを言われることがある。
過去にも書いたが、私は自分の10%もさらけ出せてはいない。
+++++
“Since Feb. 27. 2000
Dedicated to my daughter Shieri.”
エッセイ集「HOW TO 旅」を上梓した後、ホームページ「文武両道」をインターネット上で始めたのが、10年前。
そして今日は、そのきっかけとなった娘の、中学校の卒業式。
ひとつの物語が終わり、新しいドラマが始まる今朝の宮崎の空は、見事に晴れ渡った。
私もまた、「人生の義務教育」を、今日をもって終了としたい。
ずいぶん長い間、回り道をしてしまったが…。
同じく「文武両道」およびこのブログも、この良き日を「卒業式」としよう。
+++++
孤独の闇に身動きがとれなかった頃、アメリカ人の友人から与えられたiMac。
薄暗い部屋に浮かぶパソコンの画面が、全国の悩める同志とつながる入口だった。
私の心を寂しさと悲しさが襲ったあと、怒りに似た感情エネルギーが姿を現す。
まずそれが形となったものが、今や大きな市民活動へと発展した「ファーザーズ・ウェブサイト」だった。
「離婚しても、親子は親子」
私が言いたかったのは、たったそれだけのことである。
しかし日本の母(父)親だけが親権を乱用し、罪のない子どもを父(母)親や祖父母に会わせない。
「ファーザーズ」の趣旨が伝わった証拠に、意外なほど多くの「母親」が入会した。
出産現場に二度立ち会った者として個人的見解を述べれば、父親に会わせない母親より、母親に会わせない父親のほうが罪は重い。
ファーザーズは当初、独りで悩んでいる人たちを慰め、励ますのが目的だった。
希望を失わず、またいつか子どもと会える日まで、お互いにがんばって生きていこうと。
だが組織が大きくなるにつれ、数滴だった水はやがて川となり、「法改正」の海へと流れていく。
日本の法律が遅れているのは事実であり、守るべき法がない以上、別れた相手に好きで子どもを会わせる者などいないと。
一方で私は、結局そこまで考えて「行動」することができなかった。
法律で禁止されていても、心すさんだ人たちによる盗みや殺人は、あとを絶たない。
仮に法改正が実現し、法によって規制すれば、「本当の意味で」この悲劇の連鎖を断ち切ることができるのか?
+++++
そんなある日、高校を中退した元教え子の女性が私に言った。
離婚して、水商売で生計を立てながら子どもを育てる、シングルマザーだ。
彼女が他の母親と違うのは、「子どもを父親に自由に会わせている」ことだった。
「センセー、そんなの当たり前やわ〜。
別れたのはウチとダンナの問題やっちゃから、子どもには責任ねーし。
子どもにとったら、あんヒトが世界でたった一人の父親やろ?
会わせてやらんとかわいそうやがね!」
彼女は決して、いわゆる学校の基準として「優等生」ではなかった。
しかし根本的な部分で、他の「優秀」な母親を人間的に上回っていると思えた。
この時から私は、「法」よりずっと遠回りになりそうな「心」に、焦点を当てようと考え始めた。
大雑把に言えば、目的が同じであれば、そこまでの道筋や方法論は「人それぞれ」でいい。
忘れてはならないのは、「どうやるかより、どんな気持ちでやるか」、「何をやるかより、なぜやるか」。
大事なのは、「やり方より、あり方」ではないだろうか。
+++++
この10年間、自らが起こした運動、または賛同して応援した活動を、いくつも軌道に乗せてきた。
気まぐれというかアマノジャクというか、それらを全国的にメジャーにしては、任せて身を引く結果となった。
執着しないといえば聞こえがいいが、飽きっぽいのかなあ、とにかくそれが事実であり、現在はすべて手放している。
ただ、これだけは言っておきたい。
映画「カッコーの巣の上で」の、ジャック・ニコルソンのセリフを使わせてもらう。
「少なくともオレはやってみたぞ、くそったれ!」
(At least I did it, goddammit!)
+++++
その意味で、ホームページが10年続いたというのは、私としては奇跡に近い。
ひとつのことに10年も取り組めば、人間さすがに少しは成長する。
「スクラップ・アンド・ビルド」ではないが、平気で過去に書いた内容を否定することも書くし、読者の期待?も裏切り続けている。
自分なりのプライドもある。
文章を書くのに私が費やす時間とエネルギーは、たぶん読み手の誰も想像できないくらい大きいと思う。
最後に言わせてもらうと、会えない娘への遺書のつもりで始めた「文武両道」、私は命を削りながら文章を書いてきた。
その覚悟の表現として、私は当初から本名で打って出た。
恥ずかしいハンドルネームを使って、どうでもいい文章は書かないと決めた。
もういい加減、インターネットも本名を使うべきだと思うが、どうだろうか?
お気楽ブログを否定するつもりはないが、私には暇つぶしの余裕はなかった。
この「落書き」でさえ、練りに練って、日々真剣勝負でキーを叩いてきた。
サッと目を通してコメントも残さず読み逃げしたり、mixiで足あとだけ残して義務を果たしたつもりの人には、決して読みとれなかったはずだ。
「読んだよ〜?」なんて、軽く扱ってほしくなかったのが本音。
仲良しグループみたいに、その他大勢を広く浅くキープするつもりもない。
たとえ少数の人でも、たった一人でも、心の中心を射抜ければ満足だ。
+++++
悪態をつくのはこれくらいにして、とにもかくにも今日はめでたい日。
だって、別れた時に3歳だったあの娘が、もう中学校を卒業したんだよ?
幼い子どもに親として酷い事をしたのに、両親を恨みもせず、明るく元気に育ってくれて(涙)。
ホームページ更新を生活の中心に置くのも、今日が最後。
アルコールを飲まない日を「休肝日」というそうだが、これからは毎日が「休コン日」。
パソコン画面を眺める暇があったら、妻と一緒に、日々の息子のかすかな変化を見つめたい。
さて、そのラストシーンをどうやって締めくくるか?
山口百恵さんみたいに、ステージの足元にマイクを置くとか(笑)。
キャンディーズよろしく、「普通のオジサンに戻りたい!」って叫ぶか。
それで思い出したけど、人生の前半、私はどうしてこんなに生き急いだのか?
大学時代の恋人からは、いつも焦っていて「受験生みたい」。
前妻からは、テレビなんか出てないで「マイホームパパになって」。
離婚後に出会った人たちも、結局は傷つけたり、ふり回したりしてしまった。
私には、謝らなければいけない人ばっかりだ。
罪ほろぼしのようなつもりで人生後半リセットしたんだけど、誰かの役に立っているのかどうか。
武田鉄也さんじゃないけど、思えば遠くへ来たもんだ。
今頃リクエストに応えても遅すぎるかもしれないけど、ようやく私は「マイホームパパ」になれそうだよ。
離婚後に独りで行っていた、空港が見える「さつまラーメン」の、野菜ラーメンと焼き飯セットが食べたくなった。
今なら、どんな味がするのかな…。
バイバイ。
*****
【なんて素晴らしい世界】 2010年03月16日
ホームページ卒業式、一日前。
愛する娘と息子に、ルイ・アームストロングさんの「この素晴らしき世界」を贈りたい。
+++++
(日本語意訳:中元)
緑の木々
赤いバラ
僕たちのために
咲き繁っている
僕はつぶやく
なんて素晴らしい世界
青い空
白い雲
明るく輝く日
暗く神秘的な夜
僕はつぶやく
なんて素晴らしい世界
七色の虹
空に美しく映える
通りゆく人々の
表情にも
はじめましてと
握手を交わす友
本当に言いたいのは
愛しています
赤ん坊の泣く声
僕たちは成長を見守る
きっと僕たちよりも
たくさんのことを学ぶだろう
僕はつぶやく
なんて素晴らしい世界
I see trees of green
red roses too
I see them bloom
for me and you
And I think to myself
what a wonderful world
I see skies of blue
and clouds of white
The bright blessed day
the dark sacred night
And I think to myself
what a wonderful world
The colors of the rainbow
so pretty in the sky
And also on the faces
of people going by
I see friends shaking hands
saying how do you do
They're really saying
I love you
I hear babies cry
I watch them grow
They'll learn much more
than I'll ever know
And I think to myself
what a wonderful world
+++++
あの時代にあれだけの差別を受けながら、「なんて素晴らしい世界」と歌った人もいる。
私もいろいろあったけど、これまで生きてきて今思うのは、やはり「なんて素晴らしい世界」。
高速道路からパーキングエリアに入って、一杯の珈琲をゆっくりと味わう。
今まであんなスピードで走り続けていたんだ、と気づく。
たまには、田舎の田んぼ道を散歩してみるのもいいかな、と。
風になびく稲の葉、淡いピンク色がそよぐレンゲ草。
陽光を浴びた草の匂い、飛び立つ小鳥の群れ。
慌ただしい生活に追われて見過ごしていたものを、次々と発見することだろう。
仏教では「化身」といって、仏が人々を救い導くため、さまざまな姿になって現れるという考え方があるそうだ。
私の好きなお坊さん(順空和尚さん)は、この歌を聴いて次のように語っている。
「その教えをそこに重ねるなら、この人は『赤ちゃんの泣き声』を通して説法を聞いたのであり、『赤ちゃんの存在』の中に救いや希望を見出したのです」
生まれてきてくれて、ありがとう。
育てさせてくれて、ありがとう。
この素晴らしい世界を、ありがとう。
*****
【「恋患い」それは「病気」】 2010年03月15日
若い人から、失恋の相談を受けたりもします。
男女関係なく。
辛いんだよね〜、「一方通行の行き止まり」って。
「進入禁止」なんだから。
「拒否拒絶」なんだから。
気持ちどころか、存在を否定されたのと同じだもんね。
片思いで終わったなら、まだいいかも。
ビタースイート、ほろ苦くても思い出は残るから。
つき合ってて別れた、ってのがいちばん始末が悪い。
「彼(彼女)のことが、どうしても忘れられない」
そう訴えては何度も私のもとを訪れるのだが、すぐに効く魔法の薬などない。
「いつまで引きずってるんだ」
「ほかにも女(男)はいるぞ」
「これをバネに見返してやれ」
これほど無力というか、何の意味もない言葉もない。
そんなことは、わかってるんだよ。
わかってるけどできないから、苦しんでるんだよ。
どこに行っても、それはかつて相手と来た場所。
街を歩くと流れてくる、いつか二人で聞いた曲。
あの人が大好きだった映画、本、しぐさ、言葉。
見るもの聞くものすべてが、幸せだった頃の思い出につながる。
考えないようにしても、何もかもが相手のことを連想させるきっかけとなる。
旅をして大自然を目の前にしても、そのカケラにも満たないちっぽけな存在が、壮大な風景以上の影響力で迫ってくる。
「今がいちばん辛いだろうね、私にも経験があるからわかるよ」
「すぐ割り切って前を向ける人より、引きずってメソメソしている人のほうが、私は好きだな」
「恋患いというだけあって、今の状態は病気なんだから、症状が治まるまで時間をかけるしかないよ」
話をじっくり聴く以外に、私が言えるのはこの程度である。
第三者が聞けば「そんなことくらいで」と思う理由で、人は自殺さえしてしまう。
不器用な若者にとって、まだ狭い世界の中で体験する別れの打撃は、大人の想像をはるかに上回るのだろう。
自分の過去の恋愛をふり返っても、よくまああれだけバカなことをやらかしたものだと、我ながらあきれ返ってしまう。
大学時代の恋人とケンカした夜、電車を乗り継いで彼女の自宅まで行ったが入れてもらえず、そのまま明け方まで過ごしたことがあった。
喫茶店に入るお金もなく、時間をもて余して眠くなった私は、近くの田んぼで寝た(笑)。
どこまでも愚かしく、恥ずかしい青春だった。
程度の差こそあれ、誰でも昔は「ビョーキ」だったのだ。
自分が「重病人」だったことをまだ覚えている私は、彼らを嘲笑する気にはなれない。
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【スイングする生き方】 2010年03月15日
五木寛之さんの本「健康問答」のまえがきに、「我が意を得たり!」という文章があったので紹介する。
+++++
「中道」などという言葉も、誤解されやすい考え方である。
中道とは、右と左の、ちょうど中間ということではない。
左右の距離を計って、ちょうどその2分の1の場所のことでもない。
また両者をそれぞれ折衷して、どちらの要素も少しずつ取り入れる、という折衷主義でもない。
右へぶれ、左へぶれしながらも、最終の針路は一定である、といった進み方が中道だ。
いうなればスイングする生き方、とでもいおうか。
+++++
あ、軸ぶれてていいんだ〜(笑)。
人生ぶれまくりの私、ちょっぴり安心。
この本は、世にあふれるさまざまな健康法(アヤシゲ含む)について、医者の帯津良一さんに質問する形式。
「どちらともいえない」と正直に発言する帯津医師を、五木さんは「とても信頼できる感じがする」と評する。
「玄米さえ食べていれば」
「背骨の歪みをまっすぐに直すことで、万病が治る」
「ありがとうの言葉さえ忘れなければ、すべてうまくいく」
などなど、キリがなく次々と「教祖」が出てくる民間療法についての、五木さんのコメント。
+++++
私は、これは怪しい、と思っている。
世の中というものは、そんなに簡単ではない。
人間も、すこぶる複雑にできている。
何十、いや、何百何千もの要素が入り組んで因果関係を織りなしているのだから、「これ一つ」で、なにもかもがうまくいくわけがない。
+++++
考えてみれば、当たり前のことである。
しかしなぜか、人は「法則」探しに夢中になる。
私も趣向として法則好きだが、万人に100%当てはまる法則などないことは知っている。
誰もがみな違う人生を歩むのだから、全員の夢の扉を開く「合鍵」などない。
一人一人に一つ一つ、別の鍵が必要なのだ。
自分に合った鍵を探す、または作る旅、それが人生だと思う。
「出来事に対する見方を変える」という法則自体、すでに「見方は1つではない=1つの法則では対応できない」ことを認めている。
これに人の性格や、そのときの気分、経済状態など複雑な要素を計算に入れて組み合わせれば、いったい何億種類の「法則」ができ上がることか?
+++++
といって、できるだけ多くの視点からものを見る、というのにも限りがある。
では、どうするか。
せめて二つの立場から考えてみる、というぐらいが精いっぱいだろう。
西洋医学も尊重するが、東洋医学も決しておろそかにしない。
理論も馬鹿にせず、経験からくる直感も大事にする、といった月並みな姿勢だ。
これが実際には、なかなか難しい。
まして安易に両者を折衷せず、中同という第三の道を探すとなれば、なおさらである。
それでも、私たちは「これ一つ」という、わかりやすい考え方に走るべきではないと思う。
世の中のこと、「これ一つ」ではダメなのだ、と覚悟するしかない、というのが私のようやくたどりついた結論である。
+++++
五木さんの造詣には足元にも及ばないが、私も自分なりの結論を書いておく。
「どちらがベターか、何がベストか、いちがいにはいえない」
*****
【いつか夢見た坂道】 2010年03月14日
7ヶ月になった息子を連れて、フェニックス自然動物園に行った。
「〜に行ってきました」みたいな個人的なことは書かない、と宣言したばかりだが、「店じまい」まであと3日だから、大目に見てもらいたい。
ゲートを入ると、動物たちが見える場所まで、歩いて坂道を上っていく。
子どもの頃から、春は動物園や遊園地、夏は流れるプールまで、何十回も上った坂道だ。
動物園だから、幸せそうな家族連れが多い。
12年間「家族」のいなかった私が、ずっと避けてきた坂道だ。
大人になった私が、上れなくなってしまった坂道だ。
あの頃若かった両親も、幼い私の手をひいて、この坂道を上ったのだ。
こんな歳になって、やっと人並みの家族を手に入れた私が、今この坂を上っている。
晴れ渡った空に似合わず、一人感傷的になっている自分がいた。
まだ赤ん坊の息子も、いずれは父親として子の手をひいて、この坂道を上るのだろうか。
願わくばその場に、祖父となった私も立っていたい。
そしてさらに望めるものなら、彼のまだ見ぬ姉、私の娘の家族も一緒に…。
それが、今日妻と息子に夢を叶えさせてもらった私の、もうひとつの贅沢な夢である。
*****
【いかなる成功も家庭の失敗を償うことはできない】 2010年03月13日
流行の唄も歌えなくて ダサイはずのこの俺
おまえと離れ 一年が過ぎ いい男になったつもりが
それでもこの歳までおれが 育てた裸の心は
オシャレをしても 車替えても 結局変化もないまま
(「シングルベッド」シャ乱Q)
+++++
今さらながら心の傷口にしみるねえ、この歌(笑)。
「一年」どころか十年たっても、「結局変化のないまま」の自分に打ちのめされる。
離婚して再起を誓った12年前。
人間として成長しようともがく私を、絶えず脅かしてきたひとつの言葉がある。
「いかなる成功も、家庭の失敗を償うことはできない」
(No other success can compensate for failure in the home.)
(ベンジャミン・ディズレイリ/イギリスの政治家)
「今に見てろよ」
そんな気持ちがあったのかなかったのか、自分でもよくわらからないが、とにかく「頑張って」きた。
それなりに「成功」も経験したが、果たして「成長」できたのかどうか…。
本人は壊れかけているのに、自分に言い聞かせるつもりで書いた文章に「励まされた」と言ってくれる人もいた。
しかし正直に告白すると、過去に書いた文章をいくつか読み返すたびに、ホームページを削除してしまいたい衝動に駆られる。
ある読者の方に、意図は不明だが指摘されたことがある。
(1)「言っていることが次々と変わっている」(矛盾)
(2)「昔の主張に影響された人をどう思うか」(責任)
(1)について。
はぐらかすわけではないが、赤ん坊から老人に至る段階で、考え方や人生観の変わらない人っているのだろうか?
要はそれを表現する人と、表現しない人との差であって、誰だって過去は未熟さや失敗や後悔に満ちているはずだ。
(2)について。
どう思うかって言われれば、「申し訳ないなあ」と思う(笑)。
いちばんそう思うのが、卒業生なんかに「先生、『ツイてる』って言えば、ツイてることが起きるんですよね?」みたいなことを言われる時。
そんなことを、恥ずかしげもなく熱く語った時期もあったなあ(汗)。
あのねキミ、そういうこともあるだろうけど、人生そうじゃないことも多いんだよ…。
この前なんかさあ、
「感謝して頼まれごとをこなしていれば、幸せになれる。
私はこの数十年間、カゼひとつ引いたことはない。
『ありがとう』を唱え続けたら、白髪が全部黒髪に変わった」
なんて、常識で考えればムチャクチャな講演をしていた人が、過労で倒れて死にかけて、入院したしさあ(笑)。
ガチガチの現実主義も、極端なスピリチュアリズムも、「偏っている」ことに変わりはないっしょ。
何事もそうだけど、バランスが大切なんであって。
たった1つの戦略ですべてがうまくいくほど、人の感情も現実生活も単純じゃないんだから。
そういえば先日、市立図書館で会った高校時代の友人カンベくん(バツなし独身)から、キビシイ追求を受けた。
離婚直後の夜逃げのような引っ越し(本と服しか残ってなかったけどさ…)を、いきなりの電話呼出しで手伝いに来てくれたヒトだ。
「ナカモト、おまえよお。
あん時は『結婚なんて絶対するもんじゃねえ』って言ったやろうが。
『おれはもう二度と結婚はせん』って。
『カンベ、おまえも彼女とつき合うのはいいけど、結婚だけはすんなよ』って」
「結局、おれは彼女と別れて、今でも独りやけどよ。
あれだけおれに説教したおまえが、なんで再婚して子どもまでつくっちょるとや?
ゆっちょることとやっちょることが、違うっちゃねーと?」
おっしゃる通りですが、おそれながら、自分の人生哲学は「自己責任」で決めてくださいな。
今のおれはね、カンベくん、そもそも哲学なんか持たないようにしてるの。
持った瞬間に、その哲学に縛られてしまうから。
「いかなる成功も、家庭の失敗を償うことはできない」
今まで何千冊の本を読んだ?
何千人の人と人生を語った?
何千種類の考え方を知った?
「感動しました」
「元気をもらいました」
「癒されました」
「その結果が、まともな家庭ひとつつくれない自分かよ?」
この自分への究極のツッコミは、いつも心のどこかに留めておこう。
*****
【30パーセントの真実】 2010年03月12日
フリーのウェディングプランナー・骨盤セラピストとして活躍中のさいたみつこさんとランチ。
お店は、私のこよなく愛する「ケチャップ・オムライス」を食べさせてくれる、昔ながらの食堂「MAEUMI」♪
さいたさんの連載記事が載っている雑誌を見て、お店の人が、
「骨盤セラピーって、ダイエットにもいいとか?
テレビで10キロやせた、とか言ってましたけど」
さいたさんの答えは、
「そんなことありませんよ(笑)」
さいたさんが言うに、日常生活の送り方や、自分で自分の体を管理することこそ大切。
そのために、施術に限らず、さまざまなワークショップで「自己管理法」を指導しているのだと。
「私がサポートできるのは、全体の30パーセント程度ですから」
これは、よほど自信がある場合の余裕か、よほど自信のない場合の言い訳のどちらかだ。
さいたさんは当然前者なのだが、それで生活しているとしたら、私ならつい言ってしまうかも。
「はい、ダイエットにも効果抜群ですよ〜!」
ダイエットでもエステでも健康でも治療でも英会話でも、すべてに共通して、インチキと見破るキーワードがある。
「これ1つですべて解決!」
ダイエットなら、「○○(単品の食品など)ダイエット」「〜だけ(回すとか巻くとか)ダイエット」など。
英会話なら「CDを聞き流すだけ」みたいなやつ。
ある結果が出る背景には、たった1つの要因だけでなく、さまざまな理由が絡み合っている。
たとえば生徒が一流大学に合格した時、「数学教師一人だけのおかげ」と信じる人がいるだろうか?
本人の資質や努力は?
他教科や担任の教師の指導は?
健康面や精神面をサポートした保健室や相談室は?
塾や予備校の授業は…?
私が通っている「SHAPE UP DOJO」を個人経営している、スージー(中筋清人)さんの口ぐせ。
「うちが提供できるのは、筋トレ、有酸素運動、ストレッチ、食事の指導だけです」
「週1回ジムに来る程度でやせるわけないですよ、自宅でも食事に気をつけて運動してください」
テレビ番組がその性質上、過剰な演出で視聴者の気を引くのは、視聴率競争の現実のためやむを得ないのだろう。
魔法のような方法で、数分後には小顔になったウエストがサイズダウンしたと、出演中の芸能人たちが「えーっ!?」。
私にとって、お笑い番組より爆笑できる瞬間である。
「これ1つですべて解決!」と同じくらい、信じられない言葉がある。
「私に任せておけば大丈夫」
理由はくり返さないが、自分をカリスマ性のある教祖に見せて商売する、新興宗教的手法にひっかかる人は後を絶たない。
遠回りに見えても、誠実な人に指導を受けたい。
遠回りに見えても、誠実な指導者でありたい。
+++++
追記:
一方で、「誠実さ」をアピールして、無防備なカモに近づく輩もいるのよね…。
先日、私の知人がまさにそのタイプの詐欺に引っかかって。
あえて警告したけど、もうすっかり洗脳されちゃてて、余計なお世話と関係拒絶(苦笑)。
結局、私のように高〜い授業料を払って、自分で気づくしかないのかね?
+++++
「逃げる」
絶対に逃げたらダメだ?
地震でも? 火事でも?
自分を傷つける人がいても?
自分をダメにする場所でも?
何事も「区別」が必要だ
「わがままで 怠けて」逃げるのと
「自分の環境をつくるために」逃げるのと
大切なのは
「何から」逃げるのかではなく
「何に向かって」逃げるのか。
*****
【無償の愛】 2010年03月11日
生まれてから3歳頃までのことは、ほとんどの人は記憶していないという。
それなのに親は、ミルクからウンチまで、3年間24時間体制で一生懸命に世話をする。
見返りを期待しない、まさに無償の愛。
3年間あれだけ可愛がられ、愛されたことを覚えていないとは、ちょっともったいないような。
だから私は、自分の子どもが生まれた日の感激や、悪戦苦闘して育てた喜びを、いつか本人に語って聞かせよう。
それが成長した子どもの自信や自尊心、つまり「自分は愛されるに値する人間なんだ」という生きる力の基礎になるはずだ。
誰かに無条件に愛された経験のない、またはないと思いこんでいる人は、自分を嫌う。
その流れで、嫌いな自分をこの世に誕生させた親のことも恨む。
リストカットなどの自傷行為や、犯罪に走る例も多い。
離れて暮らす娘の、中学の卒業式まで、残りあと一週間。
彼女の義務教育の終わりとともに、私の人生の義務教育も一応の区切りとしよう。
彼女の誕生と3歳までの成長を、どれだけの愛情で見つめていたか、きっと伝わったと思うから…。
そんなことを考えながら、CNNニュースを見ていたら、次のようなニュースが目に止まった。
1月にハイチに派遣された空軍のKen Bourland氏が、到着後わずか2日に起きた大地震で亡くなったそうだ。
妻のPeggyさんは、今しがた「アイラブユー」と言って彼女と子どもたちにキスをして出て行った夫の急死に、信じられない思いでいる。
+++++
この映像の、特に2分20秒からを見てほしい。
http://www.cnn.com/2010/US/03/10/airforce.major.haiti/index.html?hpt=C1
“The dad.
The husband.
Nobody called him rich or famous.
They use words like honest, confident and dedicated.”
(父親として。
夫として。
彼を金持ちだとか、有名だと評する人はいない。
彼に使われるのは、「誠実な」「自信に満ちた」「ひたむきな」といった言葉だ)
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娘にとって、そして息子にとって、彼のような父親になりたい。
妻にとって、彼のような夫でありたい。
+++++
「最初の1メートル」
三輪車に乗っていた子どもが
自転車で初めて進んだ1メートル
泳げなかった子どもが
プールで初めて進んだ1メートル
その1メートルが
5メートルになり
25メートルに伸びていった
今の自信の元になったのは
最初のたった1メートルだった
いきなり25メートル進もうとすると
身がすくむ
最初は目の前のすぐにできること
「1メートル」から始めよう。
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【人生初のエアロビで学ぶ&英語のコツ】 2010年03月10日
先月から通い始めたスージーさんの「SHAPE UP DOJO」に、「脂肪燃焼クラス」というのがある。
月曜日の「腹筋エクセレンツ」(腹筋を集中的に鍛える)に続いて、昨夜試しに参加してみた。
そしたらフツーに、今まで徹底して避けてきた「エアロビクス」だった(笑)。
テンションの高いインストラクターと、全員で同じ動きをするのが恥ずかしくて。
前のジムでも何度か誘われたが断りまくって、一人黙々と筋肉を鍛え、淡々と走っていた。
今回はスタジオに入ってしまったので、一生に一度だけと誓って観念することに。
寒い夜に汗びっしょりになるのも、エクササイズをしていればこそ。
それ以上に、だんだん複雑になる動きについていくのは、「脳トレ」にいいかも。
でもいちばんの気づきは、「小さく変えると、大きな変化を感じる」と実感したこと。
同じステップに慣れてきたあたりで、「ちょっとだけ」変化を加える。
それだけで新鮮味を感じて、体だけでなく脳にもいい刺激が与えられる。
「大きく変えようとせず、小さく変える」、これはちょっとした(でも効果抜群の)生きるコツかもしれない。
私の英語授業でも、音読でこれを応用している。
教科書本文の英語を、仮に3回くり返して読ませたいとする。
「はい、じゃあ39ページを3回読め〜」なんて指示して、誰が夢中になって読む?(笑)
たとえば全員立たせて、時計回りで1回目は右の廊下を向いて、2回目は教室の後ろ、3回目は窓に向かって読み、終わったら座る(無意識に周りと競争)。
持っている教科書を時計回りに90度ずつ右、逆さ、左に回して読む。
ペアでじゃんけんさせ、勝ったほうが3秒早く読み始め、負けたほうがそれを追い抜くまで追いかけっこ。
それが何?と言うなかれ。
ちょっとしたお遊びだからこそ、意外と楽しい活動に変わるものだ。
もちろんプロの英語教師なら、音読指導の30パターンくらいは普通に使えて当然。
余談2つ。
「英語商売」は音読ブームみたいだけど、音読はせいぜいウォーミングアップ程度でね。
さっさと黙読に移行しないと、まず間違いなく英語を理解するスピードが落ちるから。
発音は、ギリギリまでネイティブに近づくように!
「日本人英語で十分」なんてことを言う英語教師がいたら、まずニセモノ(評論家は素人だから何を言おうが関心の外)。
たとえば楽器なら、間違った音を千回練習したとして、何になりますか?
というわけで、英語教師としての私は、発音には超キビシイからね。
それを前提に音読を楽しませてるんだから、大学みたいな講義形式は論外として、見かけだけ盛り上がっているゲーム授業とも一緒にしないでほしいよ。
脱線しすぎた、何の話だったっけ?(笑)
そうそう、“Start Small, Think Big!”の話だった。
大きなことを胸に秘めていても、はじめの一歩は小さくね。
筋トレでも、一日「たった1回」の腕立て伏せを継続するだけで、「オレは鍛えてるんだ!」という事実が潜在意識に入って、ちゃんと変わるから!
新たなる「プチ変化」を求めて、今夜は「ボクササイズ」をしてきたよ。
でも、私がこんなエラそうなことが書けるのも、自由に外出させてくれる妻あってこそ。
育児で手一杯なのにもかかわらず、「お仕事ご苦労さま、ゆっくり行ってきていいよ」とメールをくれる彼女には感謝してる、マジで!
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【「ビッグ・トゥモロウ」な頃】 2010年03月09日
友人たちが私の学生時代の印象を述べるとき、
「部屋に行くと、いつも月刊『ビッグ・トゥモロウ』を読んでいた」
自分としては、意外なイメージだが。
複数の友人が口をそろえたように言うから、まあそうだったのだろう。
雑誌低迷の昨今、「ビッグ・トゥモロウ」が今でも続いているのは驚きだ。
ただその中身が、私が購読していた頃(20年以上前)とは大きく変わった。
「ビッグ・トゥモロウ」の当時のサブタイトルは、「人間情報誌」。
いつの頃からか、「ビジネスマンをバックアップするパワーマガジン」になっている。
昔は、人間として少しでも「成長」したい読者を対象にしていたように思う。
今は、お金を稼いで大きく「成功」したい夢見がちな人が買いそうな内容だ。
旧「ビッグ・トゥモロウ」を読み始めた高校時代、私は哲学に興味を持っていた。
今思えば気恥ずかしいが、「いかに生きるべきか」みたいなことを、難しい顔で考えていた。
今もあんまし変わってねーか(笑)。
その頃、今さえよけりゃいーじゃん的な、刹那主義の代表みたいな友人がいた。
アリマくんというのだが、一度彼から言われたことがある(本人は忘れているだろうが)。
「そんなこと考えて、何になると?
何の役にも立たんがね。
それより、今やるべきことがあるやろ!」
私は、一言も反論できなかった。
まあ彼の言っていた「今やるべきこと」とは、ファッションや遊びや女の子のような、快楽系ばかりだったけど(笑)。
たしかに当時の私は、外見的にダサい高校生だった。
空手の練習や読書、文章書きなど、「服より内側」ばかりを鍛えていた。
これまた、今もあんまし変わってねーか(笑)。
来月で、ついに40代も後半に突入する。
それなのに「今もあんまし変わってねー」私の頭の中を、アリマくんの言葉が「こだま」する。
「そんなこと考えて、何になると?っなると?っなると?…」
そうやね、何になるとやろうね、アリマくん。
考えよるうちに、死んでしもうたりしてね。
毎日遊んで暮らしてたほうが、よかったとかもしれんね。
それでも悲しい長崎、いや「サガ」で、ついつい「理想の生き方」について考える。
だからこそこうして、いつまでもダラダラとホームページを続けているのだろう。
もうしばらく好き勝手なことを書いたら、「店じまい」する予定だけれど…。
最近、大学時代からの親友から、携帯にメールがあった。
タイトルは「問い」。
「生きるとは、死とは何か?」で始まる、長文のメールだった。
私は定食屋でオムライスを食べ終わって、マンガ「浮浪雲(はぐれぐも)」を読みながら、茶〜飲んでゆるんでいた。
あまりにステージの違う彼の突然の「問い」に、思わず昔のアリマくんに似たセリフを返信しそうな私がいた。
答えのない問いに対する「仮説」を一生かけて追及することは、人間として尊い活動だと思う。
あえて孤独に身を置いて、沈思黙考する時間も必要だろう。
しかし今の私には、「人間ごとき同士」で哲学を語り合うより、大事なことがある。
それは、人間は生れて、生きて、必ず死ぬという「事実」だ。
これは、どんなに素晴らしい結論に見える「仮説」とも違う。
「人間ごとき」には絶対に動かすことのできない、純然たる「事実」である。
ならば、その案件を整えるほうを、人間として生まれた義務として優先するべきではないか?
簡単に言うと、家族を守りながら、安定した生活を保つこと。
自分が死ぬ準備、死んだ後の手配をしっかり済ませておくこと。
生かされていることに感謝し、足るを知り、幸せで「いる」こと。
成功哲学とか、幸せの法則とか、スピリチュアルとか、いろいろある。
そんな抽象的なことに夢中になって、現実生活は破たんしかけている人。
わざわざ海外にまでセミナーに出かけて散財し、憧れの「成功者」をさらに成功させる人。
人間としての「青い鳥」は、身近にいるのではなかったか?
偉大な思想の前に、菩薩のような赤ん坊の笑顔にうち震える瞬間のほうが、私には貴重に思える。
山奥の小さな町で、何十年間も床屋さんとして地元住民に親しまれる無名なおじいちゃんのほうが、尊敬の対象になる。
「ビッグ・トゥモロウ」なんか、いらない。
「スモール・トゥデイ」を、大切にしたい。
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追記:
大学時代の親友は、経済的にも精神的にも、平均よりかなり豊かな生活を送っている。
「成功哲学とか〜」以下に入るタイプではないので、念のため。
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私の正体(2)
前回の追記。
会社の上司が部下に向かって、次のように言ったとする。
「耳の痛い提案も含めて、どんどん率直な意見を述べてくれ」
これをまともに信じて、本音で意見を述べたらどうなるか、多くのサラリーマンは知っている(笑)。
そして彼らは、「陰で」上司を非難する。
「ごますり野郎ばかり周りに置くから、現場が見えないんだ」
年配の上司がダメで、若い自分たちが正義だと思い込んでいる。
だが彼らは、すでに自分が上司と同じ過ちを犯していることに気づいていない。
自分にとって都合の悪い上司を、嫌う。
自分にとって都合の悪い部下を、嫌う。
これって根本的に、いっしょじゃん(笑)。
自分の耳ざわりのいいことばかり言ってくれる人を、いい人だと評価する。
自分の耳ざわりの悪いことをあえて言ってくれた人を、遠ざける。
大人も子どもも、みんな似たようなことをくり返している。
だから、まだ頭のやわらかい若い人こそ気をつけろと言いたい。
若いうちに気づかなかったら、次のような「大バカ者」になる危険性がある。
少しは成長して、少なくとも「小バカ者」くらいにはなれと。
学校の部活動で、先輩から奴隷のように扱われた。
自分が先輩になったら、今度は後輩を奴隷のように扱う。
子どもの頃、親から虐待された。
自分が親になったら、同じように子どもを虐待する。
戦争や紛争のテレビ報道にマユをひそめる。
そのくせ、夫婦喧嘩や友人とトラブっている自分が見えない。
某国の日本人洗脳・拉致問題に、大きな怒りを感じる。
そう言いながら、離婚した相手に子どもを会わせない。
ゴメン、この話は何度も書いた(笑)。
てなわけで、自戒を込めた結論。
ほめられたからって、いちいち調子に乗るな。
けなされたからって、いちいち怒り狂うな。
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【私の正体(1)】 2010年03月08日
私のことを、悪魔のような男だと恨む女性もいるだろう。
一方で、私を人生のパートナーに選んでくれた女性も。
嫌いな教師ワースト1に、迷わず私を選ぶ生徒がいるかもしれない。
だがひょっとすると、恩師と思ってくれる卒業生が1人くらいはいるかも。
私のカウンセリングを受けて、納得いかない表情で部屋を出る人もいる。
「心が軽くなった」と喜んでくれた人たちは、仕事の原動力になっている。
「先生に救われました」「一生感謝します」と興奮気味だった人が、
ちょっと厳しい意見を言うと、手のひらを返したように反発するケースも。
自分が悩んでいる間、苦しんでいる間は私の場所と時間を利用するが、
解決した瞬間にそのことを忘れ、すれ違っても他人のふりまでする人。
そもそも、良かったのか悪かったのかさえ表現しない人。
「評価100」と「評価0」の間に点在する、大部分の人たちだ。
要するに、私に対する評価は人それぞれ、時それぞれで、まったく一定しない。
素晴らしいカウンセラーなのか、最低のカウンセラーなのか、謎のままだ。
でも本当は、そんなのはどうでもいいことだと、察しのいい人は気づくだろう。
そう、大事なのは相手がどう変わるかであり、私の人間性など問題ではない。
相手に必要だと思えば、私はとてもやさしい(甘い)人になる。
相手に必要だと思えば、私はとても厳しい(冷たい)人になる。
やさしいバージョンの私に接した人は、私を絶賛する。
厳しいバージョンの私に接した人は、ボロクソにけなす(笑)。
それだけのことだ。
それを考えたら、誰もがみんなプロレスラー。
いや、これは一部の人にしかワカランたとえか(笑)。
誰もがみんな役者さん、としておこう。
だって、素っ裸のままではなく、ちゃんと服着て歩いてるんだから。
むき出しの自分を隠して、何らかの仮面をつけてるんだから。
ウンコもしないような顔して、気取ってるんだから(笑)。
それを「寂しい」とか「本当の私じゃない」なんて、ガキの証拠。
または、本当の自分をさらけ出せる相手のいない、可哀そうな人。
そう自分に言い聞かせて、それが常識になった人を、人は「大人」と呼ぶ。
写真は、芸術家「櫓山人(ろさんじん)」の言葉。
この人の評価も、まあいろいろですわな(笑)。
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【心に風が吹いた言葉】
執筆活動を支えてきた妻を亡くし、後を追うように66歳で自殺した、作家の江藤淳。
彼がプリンストン大学の客員教授として、日本文学の講座を担当していた時の体験を書いた「アメリカと私」から。
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サー(先生)、僕にはどうしても詩というものがわかりません。
詩はどう読めばいいのですか?
「詩の読み方なんかありやしないよ、ダグラス。
詩を読む時、君は実は君の心を読んでいるんだ」
「君がひどく淋しいとする。
そしてたとえばこのアンソロジーの中の、エミル・デッキンソンの詩に行き会ったとする」
「もしその詩が、君の心の中の感情にメロディを与えてくれるなと感じたら、それがそれが君にとっての『いい詩』さ。
それだけのことだよ」
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「感情にメロディを与えてくれたら」
素敵な基準ではないか。
映画「恋人までの距離(ディスタンス)」では、ホームレスの詩人がこう言っていた。
「もし僕の詩が人生を彩ったら、その気持ちの分だけお金をください」
これもまた「心に風が吹いた言葉」だった。
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2010年03月07日
今日を生きた意味があったか?
ドイツの哲学者、アルフレッド・デルプが遺した言葉。
彼は反ナチ運動のリーダーとして逮捕され、37歳で処刑された。
「もし一人の人間によって、
少しでも多くの愛と平和、光と真実が世にもたらされたなら、
その一生には意味があったのである」
信念を貫いた彼の言葉を、私ごときの生活の基準にするのは失礼だが…。
毎晩寝る前、今日一日の意味を評価する時に、そっと思い出そう。
「愛と平和」の代わりに、人の気持ちに無神経であったり、怒ったりしなかったか。
「光と真実」どころか、人をガッカリさせたり、小さなウソをつかなかったか。
魂を濁すことは、なかったか。
眠りにつく瞬間、心は透き通っているか。
こういうことを考えたりするのも、たしかに私の一部分ではあるんだけど。
さっきも妻に、「文章だけ読むと、達観した人みたいに思われるよ(笑)」と言われて。
実際は、先日もスーツのベルトをせずに出勤して、職場まで届けてもらうようなありさま。
言動が一致せず、主義主張がコロコロ変わり、弱っちくて怠け者。
そんな私だから、何度か紹介した、松浦英行さんの言葉も大好き。
「絶対こうである!」って断言しないから、生身の人間にやさしいんだよね〜。
「自由ってのは、いいもんだ。
好きなように自分で決められるから。
不自由ってのも、気楽でいいもんだ。
人のせいにできて、責任を負わなくて済むから」
「『失敗したな』と感じたときは、ときには人のせいにし、ときに反省し、ときに運のせいにしたらいい。
すると徐々に、『失敗した』という意識が薄れ、『経験した』という感覚になってくる」
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【本当にハッピーな過ごし方】 2010年03月06日
海外でホテルのプールに行くと、一日中プールサイドにいるのは、ほとんど欧米の人たちだ。
泳いだり、デッキチェアで昼寝をしたり、本を読んだりしてノンビリ過ごす。
日本人はちょっと泳いだら、すぐに着替えてショッピングや観光に出かける。
ある人が海外旅行中、半日しか滞在できない観光地があった。
彼はタクシーの運転手に頼んで、名所をバックに写真だけ撮ってもらって、そのまま空港に向かったという。
先月行った東京ディズニーランドでは、あまりの人出で、アトラクションを楽しむどころではなかった。
それでも若い女性客たちは、購入したディズニーグッズを身にまとい、いかにも「楽しんでマ〜ス♪」といった表情とポーズで写真撮影に夢中だった。
実際にはその場を十分味わっていないのに、あとで人にアピールするために写真だけ撮る。
ちょっとヒネた見方だが、そんな様子があちこちで見られた。
これと似たようなことを、私もインターネット上でやってきた。
ブログやmixi、最近ではtwitterなどがそれだ。
「今どこどこに来ています」「何々を食べました」…。
(コメント:うわ〜、ウラヤマシイetc.)
「こんなことがありました」「こう思いました」…。
(コメント:そうですよね〜、同感etc.)
「ケガをしちゃいました」「風邪気味です」…。
(コメント:大丈夫ですか〜?お大事にetc.)
はっきり言って、どうでもいいようなやりとりだ(笑)。
それでも多くの人がこんなものに夢中になっているのは、寂しさをまぎらしたり、ちょっとした息抜きになるからだろう。
ホームページ「文武両道」を始めた頃、私がキーボードを叩くモットーは次の通りだった。
「読んでも読まなくても同じ文章は、書かない」
当時ホームページよりも読まれていた、地元新聞の「読者欄」には、どうでもいいと感じる投稿が多かった。
「我が家の犬がどうしました」とか、「孫がかわいい」とか。
他人にとっては何の意味もない文章に、ウンザリしていたのだ。
よって「コラム」や「言葉」はもちろん、実はこの「落書き」さえも、読者にとって何らかの刺激になるよう工夫してきた。
しかしそれも、今思えば、余計なおせっかいだったのかもしれないが(苦笑)。
3月1日付の落書き「そろそろ…卒業。」でも書いた通り、私もこのあたりで方向転換しようと考えている。
その前段階として、mixiを外部ブログに設定し、twitterの書込みをやめた。
せっかく素敵な場所に家族と来ているのに、それ以外の人たちを意識して、写メを取ったり携帯の画面で日記をアップするのは、「しないことリスト」に入れる。
喜びや情報を「シェアする」というタテマエで、忘れ去られないように「自分をアピールする」のは、今後は極力控えたい(絶対と言うとウソになるから)。
娘の卒業式、2010年3月17日を、私の「ネットアピール卒業式」としたい。
「ハッピーに過ごしてます!」とムキになって発信するのではなく、本当にハッピーに過ごそうと思う。
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【誰もが通る道を通れないはずがない】 2010年03月05日
皇室の愛子さんが、同学年の児童たちから「乱暴」を受けて、今週から不登校になっているニュース。
本人は、「腹痛や強い不安感」を訴えているそうだ。
学校側と調査した宮内庁のコメントは、「いじめに当たるとは考えていない」。
全国の学校で「これはイジメだ!」と訴えるケースが増える中、冷静に対応している印象。
どこにでもある話を、皇室の人も同じように体験しているわけだ。
特別な育てられ方をしているから、精神的に打たれ弱いのはやむを得ないだろう。
私が興味があるのは、一般の人たちのこと。
いじめに限らず、悩みや問題が出てきた場合、主に2つの理由が考えられる。
(1)外的要因
他人からひどいことをされた、言われた、態度をとられた。
または、悲しい出来事が起きたなど。
一般的に、自分ではコントロールしにくい要因。
(2)内的要因
自分がその人を、その出来事を、どう受け止めるか。
または、どう対処するか。
自分の努力で、コントロール可能な要因。
実際にはほとんどが、(1)と(2)が絡み合った結果生まれたもの。
であれば、その両方について対処しなければならないはず。
しかし現実には、感情的に相手のみを責めてばかりで、一向に解決に向かわない。
落ち込んでいたり、怒りを感じている時、つい忘れがちなことがある。
それは、「この悩みや問題は、自分に初めて起こったのではなく、すでに多くの人が経験済みのものだ」という事実。
「これは自分一人だけの特殊な体験だ」と錯覚すると、冷静さを欠いて醜態をさらすことになる。
「この体験はごく一般的なもので、今までにすでに解決されてきたのだ」と気づけば、恐れは消えていく。
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【切れば血の出るような言葉(2)】 2010年03月04日
前回に続き、もう一人の「言葉」を一部紹介する。
この生徒は前の学校でいじめられ不登校になり、本校に転入してから「大化け」した生徒である。
机上の理論やきれいごとではなく、若く未熟ながらも実体験からうめくように出てきた言葉。
まさに、「切れば血のでるような」生の言葉である。
こういった「人の痛みがわかる」先輩たちの文章を、悩んでいる後輩たちにコピーして渡している。
そして、彼らに告げる。
「卒業するとき、君もまた後輩のための文章を書くんだ。
その日まで、がんばれ」
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今を生きている私から、あの頃の私に言いたい。
「死ぬ勇気のないあなたでよかった、生きる道を選んでくれてありがとう」
人よりも多くの痛みや苦しみを知り、その分たくさんの深い愛を感じることができた。
たしかに人よりも遠回りをしてしまったかもしれない。
でも今私は「生きたい」と思える心があり、毎日を必死で生きている。
今でも苦しいことはある。
悩みもあるし、不安なことだってある。
しかし、今ではそんなことさえ幸せだと感じてしまう。
生きているんだと実感できる。
あの頃の私がいなければ、今の私はいないのだ。
こんな文章を読んでも、きっとあなたの不安をぬぐい去ることはできないだろう。
あなたの心は縛られたままかもしれない。
でも、あなたに私から伝えたいことがある。
あなたを嫌いな人間もいるだろう。
あなたを傷つけたり、不安にさせたりすることもあると思う。
しかし、必ずあなたを必要としている人はいる、必ずだ。
今は気づけないかもしれないが、これから先で出会い、感じることができるはずだ。
たった15〜18年しか生きていないのに、あなたの人生の価値を決めてしまうなんてもったいない。
生きて、生きて、生き抜いてほしい。
絶対大丈夫だよ、大丈夫。
【切れば血の出るような言葉(1)】 2010年03月03日
先日卒業した3年生で、相談室登校をしていた生徒に、後輩たちへのメッセージを依頼した。
快く書いてくれた文章を読んで、「成長したなあ…」と感慨深かった。
いろいろな事情で「教室に行けない」と悩んでいた生徒が、ささやかなサポートでまた力強く生きていく。
生徒に限らず、今目の前にいる人の未熟さを責めてはならないなあ、と改めて思う。
本人の許可を得て、長文のほんの一部を紹介させてもらう。
プライバシー保護のため、一部内容を変えない範囲で編集している。
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私は高校時代に計5か月間、相談室登校をしていました。
いずれも理由は対人関係。
家にいても毎日が憂うつで、「今さらあの学級には戻れない」と、どんどん追い詰められる気がしました。
テレビを見ても素直に笑えず、太陽が出ていても、まるで霧がかかったように暗くかすんで見えました。
その頃聞いたのが、「止まない雨はない」といったプラス思考の言葉でした。
今思えばその通りなのですが、当時は「そんな保障がどこにあるもんか、ただのきれいごとだ」としか考えられませんでした。
でも、確実に保証できる言葉があります。
それは「暗闇にいるほど未来はまぶしい」ということです。
未来は絶対明るいものだ、と言っているわけではありません。
ただ、いま暗闇にいるほうが、のちに見えてくる光の輝きが違うということです。
私も時間はかかりましたが、光を見つけました。
今は毎日が楽し過ぎて、もう卒業?といったくらいです。
現在、相談室は中元先生とY先生が担当していらっしゃると思います。
私はこのお二人の先生、そして相談室という教室がなかったら、確実に退学していたと思います。
私が卒業できたのも、先生方をはじめとする、私のために動いてくださった人たちがいたからです。
みなさんも、どんな状況にいたとしても、感謝の気持ちを忘れないでください。
その気持ちが、自分を救ってくれる一番の薬だと、私は経験上信じています。
それと、先生方に頼ってばかりにならないでください。
頼ってばかりいると、結局は愚痴ってばかりで、自分の欠点を見失い、人のせいばかりにしてしまう人生を送ることになると思います。
先生方の助言をいただきながら、最後は自分で決める、これが大事だと学びました。
今どうしようもなく辛く、これからどう生きていけばいいか考えれらないみなさん。
私は今笑っています、元気でいます。
宮崎学園高校に入学して、本当によかったと思っています。
そして何より、辛い経験をさせてもらったことに感謝しています。
白か黒か決めないで、その間にある何千もの色に目を向けてみてくださいね。
*****
【2010年03月02日】 自分の燃やし方(3)
自分の燃やし方(2)の続き。
誤解その2:
「やる気とは、それがホンモノならずっと続く」
ブルース・リーの映画を見たあとは、思わず腕立て伏せを始めたり、空気を相手にパンチやキックをくり出す私。
しかし、その一時的な盛り上がりが継続したためしはない。
あなたにも、そんな覚えはないだろうか(私だけか?)。
受験生の頃、大学合格という大きな目標に向けて勉強の計画を立てた。
しかし結果として、ほとんど何も手をつけないまま入試当日を迎えてしまった。
現役合格か浪人かで、その後の人生が大きく違ってくるというのにだ。
ダイエットはどうだろう。
こちらもちょっと真剣というか、本気モードになりそうなものだが。
しかし残念ながら、リバウンドしないことも含めて、成功事例は極めて少ない。
最初の「やる気」が「ホンモノ」ではなかったからか?
飽きっぽい性格だからか?
目標が高すぎたのか?
いや、決してそんなことはない。
本気度も、性格も、目標設定も、あまり関係ない。
いちばん大きな原因は、これだ。
「ゴールまでの“プロセス”が面白くないから」
「10か月で10キロ、ダイエットしよう」と決めたとする。
1ヶ月に1キロずつ減らしていけば、10ヶ月で目標が達成される計算になる。
ここで、人は大きく2種類に分かれる。
1ヶ月目に1キロ減、2か月目に1キロ減、合わせて2キロ減った。
この時点で、「まだ2キロ、たった10分の2か〜(>_<)」と思う人がいる。
10ヶ月で10キロ減だけを100点満点と考えて、自分に「20点」しかあげない人だ。
このタイプは挫折をくり返しやすく、自分を好きになりにくく、自信を持ちにくい。
最終目標を達成するまでは、毎日が不満の連続で、なかなかハッピーにはなれない。
一方、1ヶ月で1キロ減を、「100点満点の小テスト」と考える人。
2ヶ月目も100点、仮に3ヶ月目に800グラムしか減らなくても、「80点取れた♪(^^)v」。
つまり行動を起こせば成功をくり返し、そんな自分が大好きで、自然な自信を持っているタイプ。
日々の小さな成功に満足して、そのプロセスを楽しみながら、今この瞬間もハッピーでいられる。
100点がついた「小テスト」を、心の中にたくさん積み重ねていく。
小さな階段を1つずつ上っているうちに、気がついたら、目標はもうすぐ目の前に。
「やる気とは、それがホンモノならずっと続く」のが「誤解」というのは、そういうわけだ。
「やる気」は放っておいても燃え続けるものではなく、きちんとメンテナンスしないと、すぐ火は消える。
余談ながら、私は自分の英語授業で行う毎時間の単語小テストを、10点満点ではなく「100点満点」にしている。
不登校の生徒に、「朝起きあがって100点、家を出て100点、校門タッチで100点」と語るのも、同じ理由による。
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【「青空」〜ねえ父さん覚えてますか?(3)】 2010年03月01日
しばらく間が空いてしまったが、「青空」〜ねえ父さん覚えてますか?(2)の続編。
柳生伸也さんとメールをやりとりして、彼は宮崎が好きで、私の生まれ故郷である高千穂に遊びに来たことがあると知った。
出身大学も、京都の立命館。
(時代は大きく隔たるが)大阪の関西外大の学生だった私は、立命館の友人と同学の学食で食べたりしたものだった。
そんなこんなで毎日盛り上がっていたら、あるメールで柳生さんが極めて控え目にボソッと、
「ライブ会場で売っている『青空』のCDはありますが、余計なお金もかかるので…。
商売みたいな話になって恐縮ですが…」
「あるんならはよゆーてくれやー!」(笑)
そんな気持ちで、「ぜひぜひお願いします!」と即返信。
「青空」が好きな時に何度でも聞けるのなら、いくらかかってもかまわん。
振込み前に1枚送ってもらったあと、両親にもプレゼントしたいと思い、もう1枚お願いした。
余計な手間をかけてしまったが、アーティストへのリスペクトがあるので、コピーはしたくなかった。
送料はいらないというので、せめてものお礼に、拙著を数冊と宮崎名物の「肉巻きおにぎり」と「地頭鶏」を少しだけ送った。
あの「青空」を歌う人が、肉巻きおにぎりをほおばりながら「HOW TO 旅」を読む図を想像すると、ちょっと笑えるというか、申し訳ないような気持になるが…。
このあたりのことを、柳生さんもブログに書いてくれている。
http://blog.livedoor.jp/shinya_yagyu/archives/1415551.html
私は「青空」を、自分の英語授業で教材として使わせてもらうことにした。
高校1年生のクラスで曲を聴かせ、次の2つの質問に答えてもらった。
(1)If you choose one English word for this song, which word would it be?
(あなたがこの歌を1つの英単語で表わすとすれば、それは何ですか)
(2)If you choose one Chinese character for this song, which character would it be?
(あなたがこの歌を漢字1文字で表わすとすれば、それは何ですか)
(1)の英単語では、次のような単語が彼らの心に浮かんだようだ。
family, home, memory, love, flower, parents, treasure(宝物), ( blue) sky, pride, sea, warm(温かい), life...
意外なところでは、lost(失った)と答えた生徒が「失って初めてわかる大切な思い出」。
prideやthankは、「両親に対する誇りや感謝」。
wrapは、「つつみこむような曲とやさしい歌声」などがあった。
(2)の漢字では、以下の通り。
道、愛、温、空、絆、親、好、思、信、感、人、時、標、想、包。。。
目にとまったのは、「過」(過去をふり返り懐かしむ)。
「光」(両親が暗い道を照らしてくれる一筋の光)。
「標」(父親と母親が道しるべだと感じたから)など。
多くの生徒が、「青空」の歌詞でいちばん心に残ったのが、この部分だと答えた。
やがて時が流れたまま生まれ変わるなら
もう一度 あなた達の家族として生まれたい
ちなみに私は、あえて挙げればこの2つ。
「ねえ父さん覚えてますか? 僕が生まれた日の事」
「家族で過ごす時間が こんなに短いなんて」
「青空」のfirst impressionと柳生伸也さんへのmessageも添えて、全員分のアンケートシートを郵送した。
ほどなく、柳生さんから生徒たちにお礼のメッセージが届き、ブログにも書いてもらった。
ここまで誠実な人って、ミュージシャン以外でも珍しいのでは?
http://blog.livedoor.jp/shinya_yagyu/archives/1416122.html
私が感動した「青空」は、「レコチョク着うたフル」から携帯にダウンロードして聴ける。
「青空」のマキシングル(完売)に入っていた、「浅き夢見じ」と「君住む街を」もすばらしい。
こちらもレコチョクから。
また、ダウンロードアルバム「ROOTS」もオススメだ。
上の3曲を聴いたあとは、こちらへ。