<2010年10月>

【夢は、持つな。】 2010年10月09日

またまた〜、ナカモっちゃん(笑)。

セミナーのカリスマ講師は、「大きな夢を描け!」って叫んでたよ?
学校の先生だって、「目標を持て」って言うし。
そもそも、ゴールのないマラソンなんて、走る気しないじゃん。

(1)手帳に、「夢と日付」を書く!

 そこから逆算して「長期・中期・短期の目標」に分けて、今日やるべきことを決め、実行したら赤鉛筆で消す!

(2)大きな紙に、家や車などの「欲しい物の写真」を貼りつける!

 それを眺めていれば、いつもワクワクして、イメージの力で夢が現実になる!

(3)想念は、現実化する!

 夜寝る前と朝起きた時にα波が出るから、ひたすら目標を唱えて、潜在意識に落とし込む!

こんな本が、全国でベストセラーになってるんだよ!
みんなが信じてる「定説」に、今さら異を唱えようっていうの?

「はい、これ全部、私には何の役にも立ちませんでした」。

(1)は、わざわざ逆算しないといけない夢なんか、飽きっぽい私には遠すぎるよ〜。
月間目標はもちろん、下手すると一週間でも、長すぎ(笑)。

「あと5分後に、どんな気分でいたいか?」くらいがちょうどいい(これは効果あり!)。
ついでに、手帳の予定欄は真っ白に、理想としては「手帳なんか持たない」が、「お金持ちより時間持ち」のモットー。

(2)は、ワクワクというよりも、そんなコラージュ、家の壁なんかに貼るのは恥ずかしいかも。
仮に貼っても、すぐ1歳の息子が破るだろうし(笑)。
家も車も特に欲しくないし、両親から与えられてありがたかったのも、「モノより、思い出」。

(3)は、毎朝毎晩そんなことしてたら、宗教みたいでアヤシすぎるよ!(笑)。
目を閉じさえすれば、α波なんて今すぐ誰にだって出せるんだし。

それに、生真面目に唱えれば唱えるほど、「まだ目標を達成できていない」という自己暗示になるのでは?
「完了形(もう達成した)で言え」という流派もあるみたいだけど、「私はウソつきだ〜」のアファメーションになったりして(笑)。

心理学をちょとでもかじった人はご存じだろうが、心理学者のマクレランドによると、人の幸福の感じ方は3種類に分けられる。
「パワー動機」、「達成動機」、「親和動機」がそれ。

「パワー動機」タイプは、お金や権力で勝ち組になりたい(金>夢>人)。
「達成動機」タイプは、自分の好きなことで夢を叶えたい(夢>金>人)。
「親和動機」タイプは、人と心のつながりを持っていたい(人>夢>金)。

「年収10倍アップの効率仕事術」みたいなジャンク本は、ごく一部の「パワー動機」趣味の人向け。
「自分の夢をあきらめないで〜♪」みたいな子ども向け歌謡曲は、ごく一部の「達成動機」趣味の人向け。

大多数の、「親和動機」タイプである私たちにとっては、大きなお世話!
多くの若者を、うつ病などの不幸に陥れている元凶、とさえいえる。

「パワー動機」と「達成動機」は、典型的なアメリカ型。
そしてアメリカ人ほど心を病んでいる国民はなく、カウンセラーの数は世界一。
カウンセラーも別のカウンセラーにカウンセリングを受ける始末(ややこし〜)。

日本人はもともと、「親和動機」の国民だったはず。
だからここ最近、「ALWAYS三丁目の夕日」などの昭和レトロ映画に、懐かしい忘れ物を見つけたような温かさに包まれるのだ。

「でも、少なくとも夢がないよりは、あったほうがマシなんじゃない?」
この質問がすでに、「夢」や「成功」こそが求めるべきもの、という風潮に毒されている証拠だろう。

夢を持った瞬間、現実とのギャップにストレスを感じ始める。
夢が叶うまで(叶わないかもしれない!)、毎日が羨望や嫉妬、落胆や自己嫌悪の連続?
冗談じゃない。

生徒の進路相談でいちばん多いのが、「特にこれといって、やりたいことがないんですよ…」。
あなた今、「それ、なんとなくわかる〜」って思いませんでしたか?

これが多くの若者の現実であり、「親和動機」タイプとして、何ら非難されることではない。
たまたま「縁」のあった(これぞ日本人の発想!)職場の人たちと、穏やかな人間関係の中で、人に喜ばれるささやかな仕事ができれば十分である。

「〜するのが私のミッション(使命)です!」などと主張する大人も、「この仕事じゃなきゃイヤだ」という執着が見えてイタイ。
「やりがいのある仕事をする」よりも、「やりがいを持って仕事をする」ほうが、幸せになれるのになあ。

ある有名野球選手が小学生の時、「将来の夢はメジャーリーガーで、年収が…」とか、小賢しい作文を書いたエピソードを、いい大人が賛美する。
オレは自分の息子に、そんな計算高いガキにだきゃ〜なってほしくねえな。

以下、今さら思い出したくもない、私の実体験。
告白すると、若い頃の私は「達成動機」が強かった。

英語やエッセイの本を、何冊も出版しました。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌に何度も出ました。
さまざまな市民運動を軌道に乗せて、もてはやされました。

でも、なぜか心の中には秋風が吹いていた。
「これが本当に欲しかったもの?」
「こんなはずじゃなかった…」

あげくの果ては、家族と過ごす時間がどんどん減って、結果的に離婚。
家族のためと信じて頑張り抜いて、「手段の目的化」のワナにはまり、三流ドラマのような本末転倒。
会えなくなった娘に存在をアピールしようと、さらに「達成動機」を加速して、「自爆」。

今の嫁サンに拾われたからいいようなものの・・・。
それがなかったら、たぶん死んでたねオレ。

そして、今?
言うまでもないでしょ!

*****

【ミクシィもツイッターもやめちまえ!】 2010年10月8日
最近ヒマだったので、発作的に書いたブログエントリー(心の衣がえ・オトナのオモテとウラ話・「引き寄せの法則」なんて信じてる人いませんよね?)を読んだ、我が家の「神さん」である「カミサン」のコメント。

「この前まで『UFOは存在する!』って言ってた人が、突然『いるわけねーだろ?科学的に存在が証明されてるのは、焼きそばUFOだけや!』って言い出したようなもんだよ」

たしかに(笑)…そんな無茶をあえてする理由は、あとで書く。
まあなんというか、「変わらないために、変わり続ける」っていうかさ。

ところが、寄せられたコメントは、オジサンをいたわる好意的なものばかり。
アクセス数は多いのに、どういうわけか非難中傷やお説教はゼロ。

今回はさらに暴走して、最近危惧しているミクシィ、ツイッター、ブログなどの傾向について、ちょっと書いてみたい。
とりあえずの結論として、「みんな自分のことばかり書くのに夢中で、人の書いたものなんかロクに『読んで』やしない」。

私の例でいえば、ツイッターで宮崎口蹄疫の悲惨な状況と援助のお願いを、くり返し訴えた時期がある。
にもかかわらず、「フォロワー」たちが日々お気楽でくだらない「つぶやき」ばかりたれ流すので、バカバカしくなってさっさと退会した。

あれ以来、ツイッターは東国原知事のもの以外いっさい見ていない。
そのトラウマ(笑)で、ミクシィのつぶやき「今なにしてる?」の「〜なう。」その他もろもろの、「どーでもいー文章アレルギー体質」になってしまった。

最近ではツイッターとミクシィなどが連動しているようで、実際には1つしか書いていないのに、複数の場で書いているように見せかけるシステムもあるのだとか。
ビジネスは別として、個人がそこまでして自分の存在を、不特定多数に対してアピールし続ける必要があるのかね?

何度かダマされてコメントを入れたけど、手を広げすぎた本人もチェックできてないようで、質問に返答もないから消しまくった。
読む側も自分が発信することしか考えないから、きちんとコメントもせず、義理で絵文字つきの短文を残すか、ひどい場合は日記にまで「イイネ!」をクリックするだけで済ます。

時代遅れのアナログおやじが、なんでこんなしょーもないことにこだわるのか?
実は「例によって」、もっと深くて根本的なことをモノ申したいからだ。

「あなたは最近、他人の話をとことん、『聴いて』あげたことがありますか…?」

「あなたは最近、自分の話をじっくり、『聴いて』もらったことがありますか…?」


「聴く」というのはもちろん、その文字の中にある「耳+目・心」を総動員して、自分の手を止めて相手の顔を見て向き合うことだ。
「聞く」には「耳」の文字が1つだから、ダンナが新聞読みながらでも「聞いてるよ〜」くらいのことは言えるからね。

日々カウンセリングの仕事をしながら実感するのは、「ホントにみんな、自分の話をちゃんと聴いてくれる人がいないんだな〜」。
心の中で何度も「わかってほしい!」って絶叫してるのに、家族ですら浅く軽く聞き流している。

深刻に悩む人の目の前という「現場」で、実際に汗して格闘している立場から断言すると、その人たちにとっては「問題を解決すること」だけがすべてじゃないんだ。
この辛い気持ちを「聴いて」ほしい、やるせない感情に「寄り添って」ほしいんだよ。

「人はたった一人でも、自分の話を真剣に聴いてくれる人がいたら、ただそれだけで生きていける」

ところがドスコーイ!
私がHTML言語でホームページを始めた頃には想像もしなかった、パソコンでも携帯でも、猫も杓子もブログブログブロブログブログ(問:誤ったカタカナ表記を1ヶ所探せ)。

より多くの人が情報を発信できるようになったのは、たしかにいいこと…なんて私はぜんっぜん思ってなくて、むしろ問題だととらえる。
その理由については、もしリクエストでもあれば、また改めて書かせていただく。

最も大きな問題は、誰もが「自分発信」に必死で、人の意見や心情を親身になって聴き、その意味を自分の頭で考え抜く「余白」がなくなってきていることだ。
これだけ情報が開示され、誰でも自分を自由に表現できる場が与えられているというのに、うつ病が急増し、自殺者が毎年3万人を超えるのはなぜなのか?

さて以下は、冒頭に書いた「以前の主張と真逆のことを、恥ずかしげもなく書く」理由。

今私の目の前に、珈琲の入ったスターバックスのタンブラーがある。
これを上から見ると「円」だが、横から見ると「長方形」である。
さらには「プラスチック」ともいえるし、値段で「1050円」、色で「黒・白・緑」と表現しても、タンブラーの「定義」となる。

「ナカモトは以前“円”だと言ったくせに、今度は“プラスチック”だと言う。信用できない、矛盾した多重人格者だ!」

そうでないとは言い切れないが(笑)、このような批判がいかに単純で「一面的」か、賢明なあなたならわかるだろう。
少なくともこの世は三次元なのだから、何でも単純に決めつけず、「多面的」かつ「立体的」に物事を見つめる習慣を持たないと。

ましてや、タンブラーよりはちょいと複雑な人間が送る「人生」を語るのに、そんな青臭いシンプルな判断で済ませていいのかって話ですよ。
あなたも私も、ここらで頭の中をシャッフルさせる必要があるのでは?

それから私は、「心の衣がえ」で書いたように、「人生の午後&秋」にフィットした人生哲学を構築するため、「スクラップ・アンド・ビルド」の真っ最中。
嫌な思いをさせた人には申し訳ないけど、未熟で愚かな過去にいったん決別し、ぶち壊してから、さらにバージョンアップした「ニューナカモト」をつくり上げたいわけ。

仮に今平屋の家に住んでいて、2階建てに建て替えたくなった時、そのままポンと2階部分を乗せる人っていないでしょ?
やっぱり1階部分を解体して、一度さら地にしてから、最初から2階建てを建て始めるべきで。

もし何かが崩壊してしまって、今のあなたが悲しみのどん底にいるとしても、どうか絶望だけはしないで。
それは、今までよりもっと素晴らしい(少なくとも一味違った)人生を再起動するための、心の解体作業のスタートなのだから。


こんなバカな私でも幸せになれたんだから、お互いさまということで、手を取り合ってがんばっていきましょうよ!

*****

【「引き寄せの法則」なんて信じてる人いませんよね?】 2010年10月07日

お世辞にも科学的とはいえない「引き寄せの法則」とかいうものが、ごく一部の人たちの間でブームになったことがある。
関連本の1冊も読まずに語るのは失礼だが、自分が強く望むものは、意識が何らかのパワーとなって物質(ぶっちゃけ「お金」)を引き寄せる、みたいなものだろう。

実は私も、大学時代に「マーフィーの法則」(英文学者の渡部昇一さんが翻訳)を知り、真面目に取り組んだ過去がある(キャッ恥ずかし)。
物理学(量子力学)でも証明されている!というので、さっそくある科学者に連絡をとって確認したら、デタラメだと一笑に付されてしまった。

そりゃそうだよね。
いくら念じたところで、目の前にボン!って一億円が姿を表すことなんかあるワケないもん…。

この「法則」にハマッた人のほとんどが、私の知る限り、「最大の願望」であるはずの経済的成功を達成できなかった。
その反動か、「執着するとお金は逃げる」「念じないほうが手に入る」「トイレ掃除したらお金持ちになる(笑)」なんて言い出す人まで出てきて、スピリチュアル大好きピープルは大騒ぎ。

いやしくも「法則」という以上、一定の条件下でくり返し実験して、相当高い確率の「再現性(同じ結果)」が証明されないと。
科学者の間では、「水が言葉を理解する(爆)」みたいなトンデモ論(まあ、あれは作者がファンタジーだと認めたが)に並ぶ「エセ科学」と位置づけられ、表だって反論するレベルにも達しないヨタ話なのだとか。

とはいうものの、私のようなロマンチストは、「いやいや、今まで自分がやらかしたことが、結局何らかの形で返ってきたぞ?」なんて思ってしまうのである。
そしてついつい、「ブーメランの法則、みたいな?」なんてバカなことを言い出しかねない。

科学者の見方としては、それは「印象が強い思い出」を記憶しているだけであって、「そうならなかった他の大多数の出来事」を、フィルターからもらす「脳のクセ」なんだそうだ。
じゃあせめて、日常生活の中の「経験則」くらいの表現でお茶をにごそうか。

私の「印象が強い思い出」の1つは、(もう時効だから書くが)新卒時代から私を嫌い、「いじめ」じみたことを続けた数名の先輩が、のちに例外なく「悲惨な状況」に見舞われたこと。
それらの事実を見てつくづく、「他人に嫌がらせをしたらバチがあたるんだな〜(怖)」と、(経験則として)身にしみて思うようになった。

自らをかえりみても、愛する娘から十数年間も引き離されたり、次々と大病や大怪我に見舞われたのも、今なら自業自得だと納得がいく。
それでもまだ生かしてもらっているのだから、「もう悪あがきは観念して、人生の残り時間は家族と、世のため人のために生きよう」とひそかに決意しているのだ。

で、だ。
私の「経験則」に基づくと、次の2つの「ホ・ウ・ソ・ク♪」が成り立つのであ〜る!

(1)「バチあたりの法則」

自分に嫌がらせをしたり皮肉を言う、気にくわんヤツがいても、ストレスで落ち込んだり、復讐にエネルギーを浪費する必要なし。
あなた自身が動かなくても、どうせいつか何らかの形で、そいつにバッチーンと返ってくるんだから。

少なくともそのお方、あなた&周りから信頼されてないか、嫌われてるでしょ?
すでに世間からの「処罰」は開始されているのである。

(2)「原因と結果の法則(笑・オレ流)」

「過去に積み重ねてきた“結果”が今の自分なんだぞ」。
「種をまかないと、芽は出ないんだから」。

そんな単純なことは、誰にだって言える。
それってある意味、「前世」とかワケわかんないことにハマる前兆かも。

でも忘れてならないのは、今の自分こそが「未来の自分にとっての過去」、つまり今が「原因」であること。
サービス精神でつけ加えるなら、今が来世の自分の「前世」なんだってこと。

身近な例でいうと、受検や就職、仕事や結婚に失敗したとき、それを「結果」と見れば、そこで終わり。
もうどうでもいいやー、みたいな投げやりな態度に変わる(その程度かい?)。

もしその時点での自分を「原因」と見れば、よりよい今後の「結果」のために粛々と(東国原知事の好きな言葉)努力を始めるのでは?
だから、妻と息子にとっては老い先短い?私ではあるが、残り時間に関係なく、家族とともに今という「原因」を一生懸命に生きる!

今の自分を「結果」と見るか、「原因」と見るかで、あなたの人生は大きく変わる。
実はこのことに説得力を持たせたくて、長々とくだらない前置きを書いた次第である。

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【オトナのオモテとウラ話】 2010年10月06日

「武士道とは死ぬことと見つけたり」

武道をやっている人なら誰でも知っている、武士道の奥儀が書かれた『葉隠』。
上の言葉はあまりにも有名で、多くの人が引用して、真面目な顔で人生哲学を語っている。

でもよ〜く読んでみると、こんなオチャメなことも書いてあるんですよ♪
この事実を知ったとき、私はイスからひっくり返りそうになるほど笑った。

+++++

人間の一生誠にわずかなり。
好いた事をして暮らすべし。
夢の間の世の中、すかぬ事ばかりして苦を見て暮らすは愚かなことなる。
この事は、悪しく聞いては害になることゆえ、若き衆などへ終(つい)に語らぬ奥の手なり。
我は寝ることが好きなり。
いま境界相応に、いよいよ禁足して、寝て暮らすべしと思うなり。

↓ つまり、こういうことだ。

人の一生なんて短いものだから、好きなことをして暮らすべきだ。
つかの間のこの世を、嫌なことばかりして苦しむのは愚かなこと。
このことは、誤って解釈すると害になるので、若い人たちには結局話さなかった秘伝である。
私は寝ることが好きだ。
現在も状況に応じて、家に閉じこもって、寝て暮らそうと思っている。

+++++

「武士道とは死ぬことと見つけたり…」
でつい気合を入れてたら、いきなり、

「わしゃ寝ることが好きなんじゃ、人とつき合わんで寝て暮らすわ」
ですか、ステキ〜(笑)。

人生の酸いも甘いも噛み分けたオヤジは、一見中途半端っぽくて、意外とバランスがとれていたりもする。
その証拠に、若者は上のどちらか極端に走りがちでしょ?

「純粋さ」は、ほとんどの場合が「偏り」。
極論や正論を叫んでればいいから楽だけど、それって一種の「思考停止」では?

「矛盾」や「表裏」を非難するのは誰にでもできるけど、人間も社会も実際は「矛盾や裏表だらけ」。
ブレながらも、平均して「中道」をいくことが、穏やかな「地球の歩き方」かもしれないね。

私の文章も主張がブレまくっていて、その日その時の気分で、言うことがまったく違ってたりする(笑)。
目ざとく見つけても、『葉隠』のようなオチャメでオトナの対応、よろしく〜。

*****

【心の衣がえ】 2010年10月05日

年をとるのも悪くないな〜、と思う今日この頃。
気張っていた若い頃と比べて、生きるのがどんどんラクになってくる。

一日の流れを一生にたとえれば、どうあがいても私は「午後」に入った。
でも、午後ってけっこういいものだ。

お休みの日なんか、午前中って意外と早く過ぎてしまいません?
これといって何もしないまま、もうお昼?って感じで。

それに比べて、午後はやや能率は落ちるものの、夕方もあるし、夜がふけて寝るまでがけっこう長く感じる。
人生の午後も、カフェでのんびり読書を楽しむような、ゆるめのペースの過ごし方が似合う。

人生を四季にたとえてみると、中年期はちょうど今と同じ「秋」となるだろう。
涼しいし、空は青いし、夕焼けはきれいだし、珈琲は美味しいし、冬のボーナスは待ち遠しいし(笑)、いいことだらけだ。

「実りの秋」、というだけのことはある。
アップダウンの激しかった「春と夏」の経験が、人生後半になってようやく生かされてくる。

自分や家族にとって大事じゃないことは、たとえいいことであっても、無理してまでやらない。
何事も「センスのいい手抜き」ができるようになった(私にとっては大きな進歩!)。

季節の変わり目に注意が必要なのが、風邪。
それが人生の場合は、「心の風邪」。

あなたは最近、どこか今までとは違う「生きづらさ」を感じてはいないだろうか?
季節は知らないうちに過ぎるものだから、きちんと自分に問うてほしい。

秋を迎えて冬に備えるべき時期に、いつまでも夏バージョンのTシャツと短パンのまま?
同じやり方で違う季節を生きようとすれば、体調を崩すのはあたりまえだ。

自分が今、一日の中のどの時間帯に、四季のどの季節にいるのか、正直な気持ちで受け入れる。
これまでの経験から、自分の人間としての器のサイズを素直に認める(私は「実はちっちゃ〜い!」ことがわかった)。

「衣がえ」なのだから、まずは「脱ぐ(やめる)」。
いくつか例をあげてみるが、これは思っている以上に難しい決断ですよ?

このようなブログの更新(笑・たまには気分転換でネ)、誰も読みたがらない無名人のつぶやき「〜なう」。
ビジネス書やハウツー本ばかりの実利主義「読書」、トラウマを隠しながらのハイテンション活動。

「青春とは心の若さをいう」みたいな詩を引用した、若者にへつらうオジ&オバさん体質。
「私は自然体!」とこだわる「不自然」な態度、生ゴミに金メッキしたような「無理やりプラス思考」。

ろくに運動もせず、体型を布みたいな服で隠して、スピリチュアル&エコ。
自分の頭で思考せず、ナントカいう「前向き言葉」を念仏のように連呼。

成功者や著名人の追っかけ信者、自己啓発セミナーおたく。
依存する教祖を次々変えて、言葉に感銘してばかりで自分の生活は変わらずetc.

…もういいかげん、頭では「成長」と思い込んでるけど、潜在意識的には「負のスパイラル」からはオサラバしよう。
いったん群れから離れて客観的に見ると、いかに「イタイ」かがわかるんだけど、中にいると自分ではなかなか気づかない。

そして次に、新しい季節に適したものを「着る(始める)」。
これはもう、「人それぞれ」だろう。

私の場合は、自分自身の都合から「家族」がキーワードになっている。
私の命と人生を救ってくれた妻をより幸せにしたいし、できれば息子を「父親を早く亡くした青年」にしたくない。

心と連動しているという理由で体を鍛えてはいるが、生まれつきストレス耐性の少ない虚弱体質&精神の持ち主。
このたった一行をサラッと書けるようになるまで、自分でも驚くことに、数十年間のドタバタ劇が必要だった…。

先日ある仕事関係の大きな集まりに出かけたら、かつて私もその中にいて活躍していた人たちが、ずいぶんエラくなって会を仕切っていた。
私は明らかに落ちこぼれた立場なのだが、彼らがどこか無理をしていて、ずいぶん疲れ老けこんでしまったように見えた。

負け惜しみ抜きで、うらやましさをまったく感じない自分がいた。
頑張り抜いた彼らは大したものだが、「オレ、いち抜けたして正解だった」としみじみ思う。

これからもますます、自分を無名に、表舞台から姿を消していきたい。
がんばるぞ〜(笑)。

「自分にとって」本当の幸せとは何か?
「衣がえ」の季節、心を静めて、沈思黙考したいものだ。

ご自愛ください。

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